桜のような

すいな

夢見草

窓から、さらさらと風が流れてくる。

僕は電気をつけていない、暗い床に座ったまま、窓の方を見た。

晴れていれば、レースカーテン越しに光が差し込んでくるのだが、今日はそれが見えない。

意を決し、僕はカーテンを開けた。

少し先に、一つ二つ、柔らかい桜の花をつけた優しいシルエットの木が見えた。僕の心が明るくなる、ただ一つのものだ。

そして、その後ろから空が見える。

昨日までは不安になるほど果てしなく続く青い空が見えた。が、その青い空を、灰色の雲が覆いつくしている。

…このほうがいいさ。僕には、こっちのが似合ってる。

そんなことを考えながら、僕は窓を閉めた。

少し視線をずらす。

すると、窓と窓枠の間に何かが挟まっているのが、視界の中央に入った。

おかしい、さっきまで何もなかったはずなのだが…

淡く、優し気な桃色をしたそれは、僕の興味を少し刺激した。

ほんの少し窓を開けて、僕はそれを取った。

挟まっていたそれは、一枚の紙だった。


『こんにちは。もし私のメッセージがちゃんと届いたのなら、この紙を紙飛行機に折りなおし、飛ばしてください』


書いてあったのは、茶色の字で書かれたその一言。それだけ。

裏を見ても、光に透かしても、それだけしか書いていなかった。

普段だったら、僕はこれをすぐ捨てていただろう。

当たり前だ。人と関わるのが嫌で閉じこもっているのに、こんな怪しい手紙に応える気が起きるわけもない。

なのに、なぜか、僕はこれに応えようと思ってしまったのだ。


言われた通り、長方形のその紙を折り、ベーシックな紙飛行機に折りなおした。

そして、再び窓を開け、外に向かって飛行機を突き出した。

外に向かって流れだした風に乗せ、僕は紙飛行機を飛ばした。

滑らかで軽いあの紙飛行機は、風に乗って滑るように飛んで行った。

それを見届けると、僕は部屋の中へ戻った。

窓を閉める気にはなれなかった。

ほんの少しだけ、僕は期待を抱いていた。

ただ風任せに飛んできたあの紙が、僕のところに届いたのは運命なような気がしたからだ。

しかし、南中を過ぎ、日が沈み、月が昇りきるまで待っても手紙は返ってこなかった。

…やっぱり、ただの偶然だったのだろうか。

街の光に押されてろくに見えない星を眺めながら、僕はそっとため息をついた。

そして、ゆっくりとカーテンを閉めて、ベッドに寝転がった。


翌朝、緩やかに目が覚めた。

時計を見ると、朝の7時12分。

久しぶりに少し早く起きられた。

軽く伸びをして、ベッドから起き上がった。

レースカーテン越しに日光が差し込んでいるのが見えた。が、今日はいつもと違ってほとんど気にならない。

カーテンが、暖かい春の風で翻る。そうか、窓を開けっぱなしで寝てしまったのだ。

親は仕事でもういない。静まり返った家の中の静寂を乱さないように、僕は足音を殺して下へ降りた。

リビングの机の上には、賞味期限が切れかかった菓子パンが一つ。空腹が満たされるほどの量はない。

もそもそとそれを食べ、僕はまた足音を殺して階段をのぼった。


部屋の扉を開けると、目の前にあの紙が落ちていた。

満たされきらなかった空腹を忘れるほど、胸が高鳴った。

急いで拾い上げて、そっと広げた。


『紙飛行機、ちゃんと届きました! 返信、とっても嬉しいです。もし私に聞きたいことがあったら、この紙に書いてまた紙飛行機を飛ばしてください』


書いてあったのはそれだけだった。だけど、今度は質問をしてもいいと言われている。

それだけのことが、しかし僕にはとてもうれしかった。

人と関わりたくないはずなのに、この人から送られてくるこの手紙だけは、まるで桜を眺めているときのような明るい気分になる。

せっかくなら、普通の会話がしたい。そう思い、僕は久しぶりにペンを持った。


『初めまして。僕も、この手紙がすごくうれしいです。ところで、あなたの名前はなんですか?』


久しぶりに書いたせいで、少し字は汚くなってしまった。

ただ、他愛もない会話に繋げられそうなこの一言が、僕にとってはとても貴重だった。

昨日よりも丁寧にたたみ、一つの紙飛行機を作ると、窓に寄った。

風向きは変わりきっていなかった。だから、少し先で咲き誇る、柔らかで美しく、そしてどこか儚げな桜をぼーっと眺めた。

何分か待つと、外へ向けてまっすぐ吹き出す風が吹き始めた。

高まる胸を抑えながら、風に乗せ、紙飛行機をそっと投げた。

昨日と同じように、紙飛行機は滑るように、まるで解放された鳥のように、飛んで行った。

暫くそれを眺めていたが、こんなすぐに返事が来るわけもないと思いなおし、部屋の中に戻った。

そして、まだお腹が減っていたことに気が付いた。

そっと部屋を出て、僕は階段を下りた。


次に部屋に戻った時には、もう3時を回っていた。

そして、また、目の前にあの紙が落ちていた。

朝ほどは動揺せず、僕は紙を拾い上げて開いた。


『私は、ゆめみといいます。もしよければ、これからも手紙を送ってください!』


変わらない、茶色で丸みを帯びた字で、その一言が書いてあった。

暫く感じたことのなかった高揚が、僕の心をいっぱいにした。


こんなやり取りが、何回も、何日も続いた。

1日に来るのは、必ず2通まで。どんなに質問したいことが多くても、それ以上返ってくることはなかった。

書いてある文も、必ず2行まで。その中で、僕の質問に、彼女は律儀に返答した。

最初は、好きなこととか好きなものとか、そういう他愛のない、くだらない質問ばかりだった。

だが、何日も会話をするうち、僕は徐々に、自分の闇に踏み入った、かなり重い質問をするようになった。

なぜ、顔も見たことがない彼女にそんなことを打ち明ける気になったのか、自分でもわからない。

ただ、彼女ならそんな暗い悩みも、優しく、しかししっかりと包み込んで、真摯に答えてくれるような気がした。

そして彼女は僕が質問する度、何かしらの言葉を、それも僕の気持ちを僕以上にわかっているかのような言葉をくれた。

徐々に、この手紙は僕にとって欠かせないものになっていった。


窓から、さらさらと風が流れてくる。

それに乗って、桜の花びらも入ってくる。

最初に手紙が来た時とは違い、桜の木から花が散り、淡い緑色が木を覆い始めた。

そんなころ、彼女からの手紙が減ってきた。

必ず一日一回来ていた手紙が、二日に一回、三日に一回、と減り始めた。

丸みを帯びた茶色い字が掠れ、弱々しくなった。


ある日、久しぶりに彼女から手紙が届いた。

そこに書いてあったのは、ただ一言。


『強くあろう』


そして、それ以降、彼女から手紙が届くことはなかった。


やがて夏が過ぎ、秋が来た。

僕は、もう暗い部屋の中で一人ではなかった。

かつては関わりたくなかった人間も、今では普通に話せるまでになった。

春のまっただなかに送られてきた、あの一言。

あの一言があったから、僕は外に出て、一歩踏み出すことができた。

伝えられるのならば、一言彼女に伝えたい。

滑らかで軽い、淡く、優し気な桃色のあの紙で紙飛行機を作って。


そして、一年が過ぎた。

進級し、僕は中学2年生になった。

その、初めての国語の授業の時だった。


「そういえば、もう桜は散ったなぁ。春の代名詞とはいえ、最近は入学式までも持たないからな」

先生は、唐突にそう言った。僕たち生徒はなんと言っていいかわからず、あいまいに微笑んだ。

先生はそれを意に介す様子もなく、また話し出した。

「知ってるか? 昔の言い回しで、桜にはロマンチックな名前がついてるんだぞ? 特別に教えてやろう」

そういうと、黒板に何やら書き出し始めた。


簪頭草

曙草

花王

吉野草

たむけ花

徒名草

夢見草


「どうだ? これは全部桜の異名なんだ。凄いよなあ、桜って」

ここまで書き出すと、先生は感慨深げにつぶやいた。

何気なく僕はそれを眺め、そして息をのんだ。


夢見草

ゆめみ


彼女の名前と同じ。


考えるよりも先に、手が上がっていた。

先生は、面白そうに眉をひょいと上げ、僕を指した。

「なんだ? 何か質問か?」

僕は、昂ぶりを必死になだめながら勢いよく質問した。

「夢見草って、どういう理由でついた名前なんですかっ?」

僕の勢いに気圧されたように、先生は一歩たじろいだ。

「何だったかな…。確か、夢のように、美しくも儚く散りゆく姿や、それでもなお愛おしい桜の姿からついた名前だったと思うぞ」

美しく儚い姿。


僕の心の中で、見たことのない彼女の姿と桜の姿が、ぴったり重なった。

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桜のような すいな @karena15

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