【完結済み短編集】目が覚めると、雨が降っていた。
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令和の件(ホラー)
目が覚めると、雨が降っていた。
強くもなく、さりとて弱くもならず、まるで私の人生のようにいつまでもだらだらと降り続いている。肌寒くなって起きたのだろう、時計は夜深いことを知らせている。駅のホームのベンチで、いつの間にやら寝てしまっていたらしい。
今日は、定年退職を迎えた私の送別会だった。感謝の言葉は手短に、労いは大きな花束一つにまとめられた。ふざけたことだ、私がいなければ事務処理も満足に回せない会社だったくせに。どいつもこいつも、清々したような笑顔で実に腹立たしい。怒りに任せてお荷物を駅のゴミ箱にぶち込んで、来た電車に飛び乗り最寄りまで帰ってきたはいいものの、これからの人生をどうやって生きていこうか考えていたところだったと思い出した。
「帰るか」
折りたたみの頼りない傘をさして、濡れたアスファルトを踏みしめながら家に向かって歩き始めた。三時間前に妻から来ていたメールは、いつも通り牛乳、卵、食パンの三単語。数週間に一度これにトイレットペーパーが加わる。近所のスーパーはとっくに閉まっている。また小言を言われるが、コンビニで買っていくことにしよう。
どうしてこんなに冷めた関係になってしまったのだろうか。妻は結婚当初気立てがよく愛想もいいと近所で評判だった。いつの頃からか怠惰になって、帰っても居間のソファーに寝転がっているだけになった。
娘息子は、もうケーキを買って帰っても喜ぶ歳ではなくなった。声にこそ出さないが、腹の底では私のことをうだつの上がらない駄目人間だと嘲笑っている。誰がお前達を大学まで出してやったと思っているんだ。親に対する尊敬の念がなく謙虚な姿勢も足らず、我が子ながら嘆かわしい。
飼い犬は、私を泥棒と間違えて三度も吠えた。家主もわからないバカ犬に躾けたつもりはないのだが。雑種なんか拾ってくるからだ。
「と~ちゃんの仕ぃ~事はサラリーマン、満ぁ~員電車が人生だぁ~」
こんな時間に誰も聞いちゃいないだろうと、昔テレビで見たCMソングを口ずさむ。誰が歌ったか知らないが、これほど沁みるサラリーマン哀歌はない。一流企業への就職、結婚、子供、庭付きの一軒家、車、ペット。誰もが羨む幸せを手に入れたはずなのに、私の心はちっとも満たされなかった。どこかに穴が空いていて、そこから漏れ出してしまっているかのようだ。
それにしても、腹が減った。パックのいなり寿司程度では、とてもじゃないが腹は膨れない。最近の若者は少食すぎる、もっと食に対して貪欲に執着していかないと。栄養失調になってからでは遅いというのに。居酒屋でも探そうと、私は大通りから外れた一本裏手の道に方向を変えた。電灯の明かりもまばらな細い道を歩いていると、周りが閉めている中で、一軒だけ淡く光る店があった。
看板には、小料理「三つ葉」と書かれている。いいじゃないか、やはり日本人は和食を食うべきだ。昔ながらの格子戸を引いて中に入ると、冷え切った身体が暖かさに包まれる。
「いらっしゃい」
狭い店内には、座敷に若者が二人いるくらいだった。傘立てに傘を置いて、スーツに付いた雨粒を払ってからカウンター席に腰掛けて、壁のお品書きに目を通す。しかし、特にこれが食いたいと言えるような物が見つからない。しばらくして黙り込んでいた私を見かねたのか、店主が声をかけてきた。
「お客さん、随分お疲れのようで。適当に作りましょうか」
「ああ、はい。じゃあ、それで」
ぼんやり考え事の続きをしていたので、つい生返事になってしまった。店主が奥の方へ引っ込むと、そのうちにパチパチと魚を焼く音と出汁の匂いが広がって、実家のような安心感が心を癒やしていく。これは想像しているよりもいい飯が出てきそうだと心が踊る。
「おまちどう」
期待をふくらませる私の前に出されたのは、ホッケの開き、豚の角煮、豆腐の味噌汁、小ネギ入り納豆、ほかほかのご飯。完璧だ、これこそ求めていたものだ。口に運ぶ度、得も言われぬ幸せがじゅわっと全身を駆け巡る。美味いものを食うことを「口福」と表現することがあるが、今まさに噛み締めている。
カリカリに焼けてさっぱりと塩の効いたホッケ、脂までとろっとろに煮込まれた甘さとしょっぱさが絶妙な角煮、つゆの香りが食欲をそそる小ネギの食感が楽しい納豆。それらが口の中で純情無垢な白米と合わさる至福。心の中の自分が感嘆の声を上げ、うんうん、こういうのがいいんだよこういうのが。と相槌を打っている。一心不乱に飯をかき込み、味噌汁で胃袋に流し込んでふうと息をつく。瞼の裏には、実家の母が作ってくれた夕飯の光景が浮かんでは消えていく。
「いやあ、美味い。最高だ」思わず身を乗り出して、賞賛を送った。
「そういっていただけると、ウチも本望ですよ」
照れくさそうにする店主の態度がまた良くて、この店を行きつけにしたいと思った。気づけば雨の音は消え、しんと静まり返った春愁の夜空が小窓から見える。ああ、この時間が長く続けばいいのにという私の願いは、座敷に席を取っていた若者の会話によって打ち砕かれた。
「あの動画見たか」
「見た見た、胡散臭すぎて笑ったわ。今どきあんなの信じるやついないよ」
「な! 人面犬とか昭和かよって思ったわ。女ってほんと都市伝説好きだよな~」
「わざと画質荒くして怖がらせようっていう手法が古いよな。もう令和だっての」
なんとくだらないことで盛り上がっているのだろうか、週刊誌のゴシップ記事以下の話題じゃあないか。会社のプロジェクトがどうとか、将来はこういう計画を立てているとか、社内改革に取り組んでいるとか、もっと燃えるような野心のある話をしてもらいたいもんだ。この国を担う層が何をやっているんだか、せっかくの料理が台無しだ。幸福の余韻もそこそこに、会計を済ませて店を後にした。
「おい」コンビニへ向かう途中声をかけられたが、振り返っても誰もいない。視線を戻すと「おい、こっちだこっち」とまた声がする。
不信感を抱きつつも電信柱の根本の方に目をやると、暗がりに蠢く何かがいた。
「よう、おっさん」電灯の当たるところへ移動してきた声の主は、マジックで描いたような太い眉に、人のような鼻と分厚い唇をした犬だった。明らかに見てはいけないものと目が合ってしまい、慌てて視線をそらす。
「聞こえているんだろ。だってさっき反応したもんな」
こういったわけのわからないものは、無視して通り過ぎるに限る。きっと先程の碌でもない会話が尾を引いているだけだ。いるはずがない、口裂け女も人面犬も、時代の波に呑まれて消えていったはずだ。
「なあ聞いてくれよおっさん」絡むように犬が進路を遮る。
「俺な、こんなナリだけど人面犬じゃないのよ。実は偉い妖怪なの、件って知ってるでしょ。牛から生まれてきて未来を予言するやつ。ま、俺は犬から生まれちゃったんだけど」
踵を返して反対側へ抜けようとするが、犬は素早く退路を塞いできた。
「おっさん、あんた不幸に見舞われるよ」声が一段低いものに変わり、背中につうと冷や汗が流れ全身の毛が逆立つような恐怖に襲われる。
「明日、嫁さんにコンビニで物買ってきたことに文句言われて、息子さんからダサいって蔑まれて、娘さんには擁護してもらえないの」
「なんだそんなもの、不幸の内に入らん」身構えていたが大したことではなく、ふいに声が出てしまった。
「おっ、俺の話聞いてくれる気になったかな。そいでね、大事なのはここからで」
「ええい、鬱陶しいぞ野良犬め。あっちへ行け!」
気味の悪い犬を蹴ってどかして、コンビニへ走った。私は何も見なかった、聞かなかったと言い聞かせて足早に家に帰ると、電気は消えていた。こういう日くらいは起きて待っていて、おかえりなさい、お疲れさまでしたと労うのが筋というものではないのか。無性に苛立った私は冷蔵庫に買ったものを押し込めて、シャワーを浴びて寝ることにした。
翌日、私は何十年かぶりに土曜日の朝をゆっくり起きた。カーテンから差し込む日差しが強いのが、妙に嬉しい。居間へ降りると、妻が呆れた顔でコンビニの袋を縛っていた。
「コンビニでは買わないようにしてって、言ったわよね」
「昨日は遅くなったんだ、仕方がないだろう」
「遅くなるならなるで、連絡くれてもよかったじゃない」
「それは……」まさか駅のホームでだらしなく寝ていたとは言えず、口をつぐむ。
「ダサっ、言い返せなくなってやんの」息子はそう言うと階段を上って部屋に戻っていった。
「お父さん、人には言うのに自分には甘いよね」娘はこちらを一瞥もせずスマホをいじっている。
昨晩の面妖な犬の言った通りになった。それがなんだ、いつものことじゃないか。これから多くなると思うと先が思いやられるが、不幸と呼べるほどのことではない。会社の連中も家族も、所詮は私の実力をこれっぽっちも知らない馬鹿ばかりなのだから。
「健康のために散歩してくる」
居心地が悪くなったので、手早く着替えて玄関を出た。後ろからうちの犬がキャンキャンと甲高い声を上げていたが、やたらめったら吠えているだけだろうと振り返らずに角を曲がると急ブレーキのかかる嫌な音がして、私の記憶はぷつりと途切れた。
目が覚めると、雨が降っていた。見下ろすと、私の葬儀がしめやかに執り行われていた。
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