孤灯と沙穂子と保健室

終電

第1話 同じ手

 男性恐怖症、と言うと大層なものに聞こえるが、端的に言えばわたしは男性が苦手だ。体つきや、低い声。特に骨っぽい手が嫌だ。

 それと同時に、恋愛や性的な接触も気持ちが悪いと思っている。

「…というわけなんです」

 わたしは、既にそのことを目の前の養護教諭に話している。今日は、クラスメイトの男子が怖かったことを話した。

「そうなんだね。気苦労することも多いだろう」

 熱帯夜に吹く、生ぬるい風のような声だ。先生の声は、わたしの声よりずっと低い。

「そうなんです」

 なぜだか正面を向くことが出来ず、わたしの瞳は制服のスカートの上にぽたぽたと落ちている。

 部屋の外から、運動部のランニングのかけ声が聞こえる。乱暴で、嫌だ。

 くすり、と軽く笑う声。わたしのものではない。

「…じゃあ、どうして僕にそんな話をしているのかな?」

 先生は口角を少しだけ持ち上げて笑う。いつも、なんだかぎこちない笑みを浮かべる人だ。

「それは、先生のことが…」

 わたしはその先の言葉を見つけられずにいた。

 改めて考えてみると、「好きだから」が一番近いような気もするが、かえって一番遠いような気もする。

 ずっと好きだと伝え続けるわたしに、文原ふみはら先生は困りもせずに同じことを何度も言う。「卒業してもそう思っていたら教えて」と。

「…それは、そうとして!」

 空気を変えようとすると、逆に先生のことを意識してしまう。心臓がどきどきと脈を打つ。カーテンが揺れ、わたしの視線も自然とそちらへ向く。

 窓の外から、運動部がランニングをしているのだろう、かけ声が聞こえる。わたしとは、遠く離れた人たちの声だ。

「それはそうとして、文原先生の手って、素敵だよね」

「ありがとう。…でも、手を握ってくるのは勘弁してくれないかな? セクハラとかで僕が訴えられちゃうから」

 わたしはその言葉に対抗するように、先生の手を強く握りなおす。

 骨っぽくても華奢で、薄くて、なんだがさらさらした印象の手だ。明らかに男の人の手ではあるけれど、性的なものを感じさせない手。

「わたし、先生の手好きだなぁ。なんか綺麗だし、優しい感じがする。…先生が優しいことをしているからかなぁ?」

 最後のは半分冗談のつもりだったのに、文原先生はなぜか神妙な顔をする。

「…沙穂子さほこちゃん。それは、違うよ」

 文原先生は、わたしを『沙穂子ちゃん』と呼ぶ。そうさせたのはわたしなのだけど。先生はかなりの間渋っていたが、最近ようやく折れてくれた。

「違うって、何が?」

 先生がわたしの手からそっと逃れようとする。

「沙穂子ちゃん。僕の手は別に綺麗じゃないよ。もちろん、清潔ではあるけどね」

「…何が言いたいの?」

「ええとね、少しぐちゃぐちゃな話し方になるかもしれないのだけど。…僕の手は、別に優しいことをしているから綺麗なわけじゃないよ。他の人だってそう。大切な人を守る手だって、ナイフを握る手だって、…自慰行為をしたり、他の人の性器を触る手だって同じ手なんだ」

 全身の毛穴が剥き出しになったような気がした。先生の手を握るわたしの手は、無意識のうちに力を緩めている。そして先生の手は、それを決して拒まない。

「介護職の人が風俗に行ったり、保育士が不倫したり、差別的な発言をして叩かれている政治家が家族と旅行したり、むしゃくしゃしたからと言って犯罪を犯したり。沙穂子ちゃんがこうして保健室に通っているのもそうだよね。沙穂子ちゃんが好いている僕だって、この数時間後には沙穂子ちゃんの毛嫌いする、性行為とか、しているかもしれない」

 文原先生はわたしの目を見続けている。わたしはもう一生先生とどんな形でも交わることができないような気がした。それでも、手は繋がれたままだ。

「沙穂子ちゃんが僕の手の造形を褒めてくれたのは嬉しいよ。…でもね、沙穂子ちゃんにとって僕の手が綺麗に見えるとしても、それは僕の人間性なんかには全く関係ない。…世の中のほとんどのことは、意外と繋がっていないんだよ。現実に因果関係を見出そうとするとしんどくなる。本当に、矛盾だらけなんだ」

 わたしは、文原先生の輪郭をなぞるように見つめる。どこからどう見たって男の人だ。手がじっとりと湿る。それでもこの手を離したくないと思うこともまた、先生の言う矛盾の一つなのだろうか。


 帰り際、少し申し訳なさそうに文原先生が声をかけてきた。

「今日の話は、あくまで僕の考えだから。くれぐれも魔に受けないように」

 わたしは確かに文原先生のことが大好きなのに、今は同じくらい嫌悪の気持ちを持っている。

「先生、わたし…」

「沙穂子ちゃん。…卒業してもそう思っていたら教えて」

 わたしは来年、この高校を卒業する。

 文原先生の言葉も現実味を帯びてきている。

「…先生、また、明日」

「うん。また明日だね」

 それでもやっぱり、文原先生は優しく笑う。

 そしてやっぱり、わたしは文原先生が好きだ。

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