第109話 藤本悠太は苦い過去を思い出す。

 とまれかくまれ、今後の方針が決まり、この場を埋め尽くしていた重たい空気は次第に弛緩しかんしていった。


 すると、俺の膀胱ぼうこうも徐々に緩んでいき、尿意を感じた。


「ちょっとトイレ借りていいか」


「ええ。階段降りてすぐよ」


 炭酸飲料の中にはカフェインが入っているものもたくさんある。俺は普通の人間よりカフェインに敏感に反応するので、おそらくカフェインによる尿意だろう。


 俺はすっとちゃぶ台の前から立ち上がり、一階に向かった。降りるついでにこの家の構造とか内装などを観察してみる。


 テレビなどに出てくる普通の一般家庭っぽい感じかな。


 俺は一階に繋がる階段の横にある窓にぽんと置かれている家族写真を発見した。


 薄暗い照明のせいで色せているように見えるが、中に写っている五十嵐家の人々の姿は鮮明だ。


 両親と思しき綺麗な夫婦。幼い頃の五十嵐麗奈と五十嵐圭作さん。4人とも笑みを浮かべてさも幸せそうだ。


 俺は家族とこんな穏やかな写真を撮った事があっただろうか。





『あなた、なんで来たの?』


『今日こそ離婚のはんこをもらいにきた。早く押せよ鈴子』


『そんなに、浮気相手の事が好きなの?』


『ああ、大好きだ。お前はもういらない。このクソ女が!』


 目の前で両親が言い争っている。オンボロなアパートでスーパーのタイムセールで買った弁当を食べている俺は、この二人を呆然と見ている。俺の目には生気がなく、また悪夢が始まるんだろうという諦念めいた絶望をはらんでいた。


『悠太が見ているのよ!このリサイクルもできない人間クズが!』


『このアマが、言わせておけば!』


『きゃ!』


 また肉弾戦が始まった。食器やら、家具やらが壊れる音と、お母さんが殴られる音。そしてお父さんが爪で引っ掻かれて血を流す姿。


 小学生である俺は、この物々しい血闘をただただ眺めている。なんで人間はこんなのばかりなんだろう。


 明日は学校の授業がある。また真司という名のケモノを筆頭とするイジメ集団が俺を苦しめるだろう。


 俺はまだ食べていない卵焼きを箸でつまんで一口む。


 出汁がジュワッと中で広まり、ふんわりとした食感が口の中全体を包み込んだ。


 だが


「苦い」






 つい、昔のことを思い出してしまった。今思い返してみれば、本当にとんでもない幼少期を送ったんだなと思う。


 俺は家族と撮った写真が一枚もない。


 まあ、すでに済んだ話だし、いちいち過去のことを掘り返しても人生真っ暗だし。


 とにかくトイレだ。


 用を済ませた俺は、五十嵐麗奈がいる2階に上がろうとした。が。


「悠太くん」


 誰かが悪戯っぽい声音こわねで俺の名前を呼んだ。


「五十嵐さん」


「ちょっとこっちきて」

 

 五十嵐圭作さんは、ちょいちょいと俺を手招いた。


 俺は小首をかしげてなんぞやと五十嵐圭作さんの顔を見たが、彼は俺に何かを話たがる表情をしている。


 まあ、このまま2階にあがっても、どうせやることもないからすぐ帰ることになるだろう。


 俺はうなずいて、五十嵐圭作さんのいるリビングに入った。


 相変わらずテレビはつけっぱなしだ。ピザが入っていた皿は、あらかた食い尽くされ、食卓に置かれている。


 五十嵐圭作さんは、たたたと小走りで駆けてソファに座った。本当に鮮やかな動きだな。


 それから彼は、再度俺に手招く。どうやら俺もソファに座って欲しいらしい。まあ、立って話すよりはマシか。と思った俺は五十嵐圭作さんの隣に座った。


 テレビからは芸能人やらお笑い芸人やらが面白おかしいトークをしている音が流れる。俺は少し気まずかったので、テレビに目をやっていた。だが、やっぱり気になったので、五十嵐圭作さんをなるべくバレないように横目で見てみる。


 ソフトツーブロックの亜麻色の髪に整った目鼻立ち。ご先祖様の中に西洋人でもいるのかと思えるほど、彼の外観は一言で表情すると異国風。


「別に圭作さんでいいよ。まあ、僕的には圭作兄さんの方が好みかな?」


 彼は突然、話し始めた。驚いた俺は視線を再びテレビに固定させる。初対面の相手に対して名前で呼べって……

 

 俺には一兆年経っても出来ないコミュニケーションスキルだな。


 とてもとても恥ずかしいが、お言葉に甘えて。


「け、け、けいしゃくさん」


「ははは。まあ、その呼び名で満足するとするか」


 圭作さんは微苦笑混じりに言って、ため息をついた。ごめんなさい。俺、ゆきなちゃん意外に人を名前で呼んだことがないんです。


 俺は恥ずかしい感情を取っ払うための咳払いをした。それから、バレないようにテレビの音に紛れ込んで深呼吸を数回してから口を開く。


「んで、なんの用ですか?」


 俺の視線はいつしか圭作さんのところに戻っていた。まるで引き寄せられるかのように。


 彼はというと、今まで見せていた軽いノリと雰囲気は消え失せ、すごく真面目な眼差しを俺に向けている。


 高い鼻筋と、深い二重はヨーロッパの貴族を彷彿ほうふつとさせた。


「悠太くんにどうしても伝えたい事があってね」


 言い終えた後も圭作さんは表情を崩さない。


「なんですか」


 圭作さんが伝えたいこと。考えられる選択肢はいくつかあるが、一番有力なのは「俺の妹にちょっかい出すなよ」みたいな警戒心を剥き出しにした発言だろう。

 

 でも、この男からは俺をイジメてきた連中がしたケモノのような目をしていない。


 いずれにせよ、ボロクソ言われるのが世の常だ。心の準備をしよう。


 そう考えた俺は唇を噛み締めて彼を見つめた。


 圭作さんは口を開く。


「麗奈から逃げずに、ちゃんと向き合ってくれて本当、本当にありがとう」


「え?」


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