第76話 謎の怒り


 西園寺せつなが口にしたセリフを境に、沈黙がこの場を包み込だ。聞こえるのは、前の入居者が残した古びた壁時計が時を刻む音だけ。いかん、この静寂せいじゃくをいち早くぶち壊して、誤解を解かねば。


「はあ?お前は一体なにを言っているんだ。付き合うとか、そんなのあり得るわけがないでしょう」


「え?」


 俺は淡々が話すと、西園寺せつなはみるみるうちに暗い表情になって視線を落とした。


「ありえない、ありえない、ありえない…」

 

 なんだか西園寺せつながものすごい形相ぎょうそうでお経を唱えるみたいに「ありえない」を連発しているんですけ?ますます西園寺せつなの行動が理解できなくて、思わず、ゆきなちゃんに視線を送ると、やれやれとばかりに、深々とため息をついては、姉の手を握る。


「ふじにいちゃん、あたしたちもうおうちに帰るから、またね!」


「お、おう。気をつけてな」


「うん!ほ、ほら、お姉ちゃん!ちゃんと歩いてよ!重たいから!」


「ううう」


 西園寺せつなの様子が変だ。よろよろとよろめいていて、ゆきなちゃんが支えないと今にも倒れてしまいそうだ。


「だ、大丈夫か?」


 俺は心配になって思わず西園寺せつなに声をかけた。すると、ゆきなちゃんが後ろを振り向いて、満足したような笑みまじりの表情で答える。


「全然大丈夫だから!あとで連絡するね!ひひひ」


「う、うん」


 さっきまで泣きじゃくっていたせいで、ゆきなちゃんの目尻はいまだに赤いままだ。しかし、今のゆきなちゃんは雨上がりの晴天のように明るく、授業の終わり頃に見せた恐怖が混じった表情はいくら探しても見当たらない。


 やがて、ドアは閉まり、西園寺姉妹の姿は見えなくなった。だが、彼女らが去った後も、その痕跡こんせきははっきりとした形で残っている。ゆきなちゃんのサラサラした髪の感触と小さな温もり。そして、そして、言葉では言い表すことのできない怒り。


「くそ!」

 

 この憤怒ふんどはどこからきたものなのだろう。


 俺は、悟ってからは他人に対しては決して怒らない。怒る勇気もないし、言ったとしても、相手は支離滅裂しりめつれつなことを言って、俺をけむに巻くだろう。論理的な討論ではない。私情を混ぜた嫌がらせた。だから俺は人に向かっては怒りをぶつけたりはしない。


 自分自身に対してもそうだ。俺は弱いもので、略奪される側で、苦しみを受けることが当然だと言い聞かせてきたから、怒る理由がない。


 怒りも悲しみも嬉しさも全部俺とは縁のないものだと認識してきた。いや、この不確実な存在を俺はあえて捨ててきた。だからこそ、この収まりようのない怒りは俺をきっと試しているのだ。


「くそ!なんでだ!」


 早く原因を探さないといけない。俺が怒るのにはそれなりの理由があるはずだ。いつも見たいに第三者の立場として自分を俯瞰ふかんし、周りを観測して、そこで得た情報を整理してもっともらしい結論を導き出すのだ。


 でも、残念ながらそれはできない。シュレディンガーの猫のように、蓋を開けない状態だと、あらゆる仮説や推測をし、それなりに立派な理論を仕立て上げることはできる。しかし、実際蓋を開けて、関わってしまったら、そこで全てが確定してしまうのだ。俺はセオリーには強いが、実践には限りなく弱い。


 俺の脳内には今日の出来事が鮮明に焼き付けられている。その中でも一番記憶に残るのは、言うまでもなくゆきなちゃんの涙。


 このたぎるような怒りは、ゆきなちゃんと関係があるのかな。


 このまま突っ立っていても、なにも解決はしない。シャワーでもしよう。理性という箱に入らないとしたら、水で流すしかない。

 

 と、思って俺は風呂場に入って冷たい水で体を洗った。そして、寝巻き用のジャージに着替えてあかりを消してからベットに横たわる。


 シャワーを浴びていた時は、平気だったけど、しんと静まり帰る暗闇の部屋にいると、また、怒りが込み上げてきた。


「くそ」


 俺はゆきなちゃんを抱きしめて慰めてあげた。そのことを思い出すたびに、心が苦しくて、いきどおりが止まらない。


 明日は五十嵐れいなと会う約束をしたから、いつもの調子で事に臨むためにも、早く寝ないといけない。なのに、今日起きたことが脳裏にこびりついて離れてくれない。


 あの子と関わると決めたのは、俺の誤算で愚かな選択かもしれない。だが、引き金はすでに引かれた。今更引き返すわけにもいかないだろう。


 本当にこのままでいいのだろうか。

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