第178話 新しい鍵
「もう九月も終わるのに今日の最高気温三十一度だって。去年も暑かったけど今年はそれ以上かな?」
「ふふっ、では確認してみますか?」
スマホの画面に表示される天気予報を見ながら窓の外を覗いていると、彼女は二階の自室から何かを持ち出してきた。
それは一冊のノートで……表紙には“2022年9月③”と書かれていた。
「晴さんとお付き合いしてから書き始めた日記です。毎日記録してますので…………ありました、去年の九月二十八日ですね。抜粋して読みますね」
……何かしよう、始めよう、少しずつでも。彼女と出会ってから、そう思うことが幾つもあった。
本を読んだり、料理を学んだり、ピアノを練習したり。
毎日続けるのは大変だから……そう怠け者の都合のいい言葉で過ごす日も多かった。
料理、触れ合い、身の回りの世話、彼女は私に沢山のことを毎日与えてくれる。
好きだからとかそんな感情を抜き去る程に……只々思うこと一つ。
「……雫、ありがとう」
微笑みながら頬を赤くし、はてなマークを頭の上に浮かべる彼女。
堪らなく愛しくて尊い……私の恋人。
「で、では読みますね……九月二十八日、今年最後の暑い一日。外の温度計を見れば予報を超え三十二度。前日から準備した巨大なプールが水面を輝かせ、『今年最後の夏を満喫する』と、日向さんは愛らしく微笑んでいた。私も待ち切れなく、一緒に選んだ青い水着を早々に着て準備をし…………こ、この辺りは省きますね。な、何やかんやとプールで遊びましてですね……うん、ここからなら……暑さ寒さも彼岸まで。日照雨が降り出し、日向さんを思い浮かべ狐になりきり……こ、ここも省略します…………と、兎に角、この日を堺に秋が深まっていったようです。今年も予報を見る限り今日を堺に過ごしやすくなっていきそうな気配がします。気温も似たような感じですし……ふふっ。存外、毎年同じようなことを言ってしまうのかもしれませんね」
どうして……どうして忘れていたのだろう。
去年の月末、真夏日になるって予報があったから急遽プールを用意して……
美しい水着姿、初めての浮き輪で燥ぐ姿、ずぶ濡れのポンちゃん、真夏日の鱗雲、金木犀とビニールの香り……あんなにキラキラと輝いていた大切な大切な一日だったのに……今彼女に言われるまで私は…………
「……人間はこの星で最も脳が発達しましたが、そんな立派な物を持っていても物事を忘れてしまいますよね。ですがその忘れるというのは少々語弊がありまして……本当は思い出せないだけなんです。消えることのない、無数の思い出達が収まる心の棚。あなたと過ごす世の花鳥風月さえ、この鍵が無ければ全ては思い出せません」
彼女はそう言って、愛しげにノートの文字を指でなぞる。
その文字一つ一つが、私達が見てきた美しき世界達を開く鍵になっている。
「雫、私にも鍵……貸して?」
「そ、そのですね……些か見られてはいけない文章があるといいますか……その、実は大半がそうでして……」
「……お願い」
「…………ふふっ、あなたにお願いされたら断れないじゃないですか。笑わないでくださいね?」
顔を赤くさせながら手渡された数冊のノート。
どの日、どの世も……雫からの愛で満ち溢れていた。
“九月十一日 日向さんと図書館デート。日向さんは喜んで付いてきてくださった。図書館でデートなんて、つまらない恋人と思われたくなかったけれど……『雫といてつまらないことなんて一度も無い』と仰ってくれた。嬉しい。好き。大好き。今日行った場所がお父さんとお母さんが出会った図書館だったらいいな。いつか夢の中でお母さんに会えたら、日向さんを紹介したい。私の大切な人、大好きな人。お母さんと同じ名前の、私の晴さんだよって伝えたい。日向さん、いつも隣にいてくれてありがとう。”
“九月二十日 バイクの後ろに乗せてもらい、タンデムツーリング?なるデート。背中に密着出来るので、ここぞとばかりに抱きついてしまった。多分日向さんは気付いている。日向さんに山ガールと言われたけれど、辞書には載っていなかった。山女……でも、多分今日の格好を好いてくださっていたので嬉しかった。川の水を豪快に飲む日向さん。格好いい、可愛い。好き。この日のために購入したサイフォン式珈琲の道具。目を輝かせながら上下する水と珈琲を見つめる日向さん。あなたが喜んでくれる瞬間はいつだって私の宝物。恥ずかしいけど、私の味は真面目で優しく甘々らしい。日向さんの味は…………途轍もない文になりそうなので心の中に留めておく。日向さん、好きです、大好きです。いつも私の傍にいてくれてありがとう。”
どの鍵の終わりにも、私への感謝の言葉が綴られていた。
どれ程大切にしても、心に刻み込んでも……何故思い出せなかったのだろうと涙が溢れ出る。
ノートが濡れないように閉じようとしたけれど、彼女はそれを手で拒み私の頭を優しく撫でてくれた。
「その涙もまた一つの想い出ですから」
そう瞳で語った彼女は、二階から持てる限りのノートを抱え私の隣へと座る。
何も言わず、只々寄り添う彼女。
時折私と手を重ね指で文字をなぞっては、二人その世界を優しく解錠していく。
涙は止み紅茶と共に出されたのは、一つの可愛らしい日記帳。
表紙には……晴、雫の二文字。
「二人で新しい鍵を作りませんか? その、交換日記といいまして……」
これ以上泣き顔を見られたくなくて……顔を隠すように彼女の胸へ飛び込んだ。
温かくて優しい鼓動が私を包みこんでいく。
「雫……ごめんね。ありがとう。それから……大好き」
速さを増していく一つの鼓動。
次の瞬間……後を追うようにして、二つの鼓動が重なった。
「私も……私も大好きだよ、晴ちゃん」
その呼称と言葉遣いに込められた百千の愛。一つ残らず私の中で満たしたいから、漏れないように唇同士を深く繋げると……強く抱きしめてきた彼女に甘えるように、ゆっくりと目を閉じた。
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