第174話 九鼎大呂なパン一つ
朝起きると、既に目を覚まし隣で身体を伸ばしている晴さんと目が合った。
もうお着替えを済ませていて……軽くお化粧も……
「おはよ、雫」
「お、おはようございます。すみません、今日はお仕事はお休みかと思って……今支度をします── 」
慌てふためく私をベッドへと押し倒し、唇に指を押し当てる晴さん。
寝起きは良い方だと自負していたけれど……何故か上手く考えることが出来ない。
首筋に数個痕を残され、優しく洗面所まで手を引かれる。
道中通るリビングから……あれ、この香り……
「顔洗って? ここに着替え出しといたから。じゃ、待ってるね」
念入りに顔を洗い、頬を軽く叩く。
うん、ちゃんと起きてるよね……
まだ五時過ぎ。女優を辞められた後の晴さんなら、起きる筈の無い時間。
毎日が素敵な日だけれど……今日は何かの記念日だったのだろうか…………
着替えをしリビングへ向かうと、甘く香ばしいパンの焼ける匂いが私を包みこんだ。
机の上にはサラダが置かれ、愛らしい顔であなたはドレッシングを掛けている。
手招きされあなたが引く椅子に座ると……お揃いのグラスに注がれる牛乳。バケットにいれられた焼き立てのパンが机に並ぶと、婉麗に微笑みながらあなたは口を開いた。
「ふふっ、召し上がれ」
「あ、あの……えっと…………い、いただきます……」
訳もわからずパンを手に取ると……思わず涙が滲み出てきた。
一朝一夕ではこの出来にはならない。
況して、料理が苦手なあなただから……私の見えない場所でどれ程苦労したのかが…………どれ程私があなたに想われているのかが、この
一口含むと訪れる豊かな風味と共に……後ろで手を組みながら私の反応を待つあなたが愛しくて愛しくて、堪らなかった。
沢山の御託を並べたかったけれど……今はただ、微笑みとこの言葉しか出てこない。
「ふふっ…………美味しい♪」
「ホント!? あのね、葡萄ジャムも作ったの。それから── 」
嬉しげに語るその表情に、どこか親近感が湧いていた。
サラダはあなたが庭の畑で一人で育てたお野菜。掛かっているドレッシングもあなたお手製。
あなたが昨日お仕事で行かれた八ヶ岳で搾ってきた牛乳…………全てあなたが……
そう……これはいつも私が思っていることと同じ。あなたにして差し上げたいことは、私で満たされたモノで在りたいと。
「雫の中も外も全部、私で満たしたかったの。あげる側って……ふふっ、こんなにも幸せなんだね」
私も今……もらう側の幸せ、もらえるからこそ与えられる幸せがあることを……恥ずかしくも、再認識している。
あなたの微笑みは、いつだって大切なことを私に教え与えてくれる。
だからこそ、私はあなたにこの想いを沢山……沢山、伝えたい。
好きだから、あなたにしてあげたい。満たしたい。
私で……喜んで欲しいんです。
「今日は私が雫に沢山してあげるね。珈琲でいいかにゃ? 今作るから── 」
お湯を沸かしながら笑うあなたの唇を塞ぐと、きょとんと目を見開きながらあなたは頬を染めていた。
「ふふっ、私から……しちゃいました」
「もー…………ふふっ、されちゃった」
鼻先が触れ合うと、どちらからともなくキスをした。
二人で共に注ぐ珈琲が……滲む笑顔の味と恋慕の香りで、この部屋を何時迄も満たしてゆく。
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