第147話 昼はひねもす夜は夜もすがら


 穏やかな月曜日の朝。

 焼き立てのチョコクロワッサンとホットミルク、バジルチキンのサラダ。

 私の口元についたチョコレートを指で拭い、少し顔を赤らめながら自分の口へ運ぶ彼女。

 照れ隠しに手をパタつかせながら彼女は口を開いた。


「い、いよいよ今日ですね」


「ふふっ。ね、楽しみ♪」


 予てから計画していた私達の卒業旅行。

 計画といっても日にちだけ決めて、あとは野となれ山となれ。

 その日その日に流れ流れて、自由気ままに旅をする私達らしい旅行。 


 穏やかな月曜日、幸せな時間……も束の間、我が家の呼び鈴が鳴る。


 玄関ドアを開けると、それはそれは美しい土下座をしながら頭を垂れる……マネージャーの栞が現れた。


「栞……何してるの?」


「……………………」


 微かに聞こえる鼻をすする音。

 縒れたスーツに擦れたパンプス。

 それに、アルコールの匂い……


「栞、中においでよ。一緒に朝食食べよ?」



 ◇  ◇  ◇  ◇



 俯いたまま椅子に座る栞。ポケットの中から一本、カップ酒を取り出した。

 虚ろな目、このままではいけない気がしたので慌てて止める。


「栞、どうしたの? 何かあったんでしょ?」


「…………今日立食パーティーあるでしょ?」


 政界や芸能界等の要人が集まる立食パーティーで、うちの事務所が裏で仕切って色々と準備してるとは聞いているけど……


「それがどうしたの?」


「…………ピアニスト呼んだじゃん。日系フランス人の」


「あぁ……最近よくテレビに出てる女性のピアニストだよね? 国際コンクールで優勝したとか……」


「…………昨日さ、ソイツが居酒屋に行きたいって言うから接待で連れてったの。で、そこで胸ぐら掴んでその後ぶん殴った。今日朝一で帰国するって」


 私も彼女も開いた口が塞がらない状態。

 目に涙を浮かべながら、栞は雫に頭を下げた。


「身勝手でごめんなさい。雨谷さん、ピアノ弾いて貰えませんか? アイツよりも上手に」


「ふぇっ!? きょ、今日ですよね!!? む、無理ですよ!?」


「雨谷さんあんな奴より全然可愛いしピアノも上手だし……私の首を差し出せばなんとかなる問題でもなくて……要人さん達が納得してくれないと……っていうか会社の存続かかってるし……ヒナにも関わってくるっていうか……」


「栞……とんでもない爆弾持ってきたね……」


 あんなに穏やかだった食卓は冷え切り、只々沈黙が続いた。

 正直私達だけでどうにか出来る問題でもないし……どう声を掛けていいのか分からなくて困っていると、手に口を添えて淑やかに笑う彼女がいた。


「ふふっ。では……卒業旅行の初日は、東京のおまちで決まりですね」


 左手で自分の服を摘みながら話す彼女のその癖は、葛藤している時の仕草。

 当たり前だけど……怖くて仕方ないのだろう。

 それでも優しく手を差し伸べられる温和篤厚おんわとっこうな……私の自慢の恋人。

 そんな雫が大好き。


「しょうがないにゃぁ。栞、美桜みおさんに連絡したの?」


「……してない」

 

「先ずはそこからだね。雫、旅行の荷物全部車にぶち込んで美桜さんの所に行くよ」


「あ、あの……美桜さんとは?」


「ふふっ。うちの社長♪」



 ◇  ◇  ◇  ◇



 事務所へ向かう道中、車内では今日の予定と芸能事務所について彼女に話した。

 大きな派閥や傘下の数々。

 小競り貶し啀み合う面倒な話ばっかりなんだけど……笑顔で缶珈琲を渡してくれる彼女を見ると心底どうでもよくなってしまい、思わず笑ってしまった。


 私の事務所は、私がこの世界に入るちょっと前に出来た新興事務所だった。

 どこにも属さず、社長の美桜さんの腕っ節一つで登り詰めた。

 我儘ばっかり言っていた私を「そこがあなたの良い所」なんて褒めてくれて、女優業を辞める時もすんなり了承してくれた……私の大切な恩師。


 

 そんな恩師に……私達は今、睨まれている。


「まったく、問題ばっかり持ってきて……さて、取り敢えず先に方をつけるのは……あなたね」


 美桜さんは全てを飲み込んでしまいそうな鋭い瞳で雫に照準を合わせた。対する彼女は、目を見開いたまま動けないでいる。

 まさに蛇に睨まれたなんとやら……


「雨谷さん、あなたの事はしっかりと調べさせてもらいました。私はね、バカな人が好きなの。晴ちゃんは“自分バカ”。自分に嘘をつくくらいなら死んだほうがマシって思ってる、自分に正直な子。あなたはどう? 真面目で優秀、縹緻きりょうも良い。佇まいで分かる育ちの良さ。然るべき場所にいるとは思えないけど?」


 彼女を守ろうと少し体を動かすと、それを拒むように美桜さんは私を睨みつけた。

 皆、この人には頭が上がらない。

 

「あなたはどんなバカなのかって聞いてるの。晴ちゃんから仕事奪ったんだから、納得させてもらえるかしら?」


 駄目だ……動け私。

 今は雫の事だけを考えないと──


「あら、何を笑ってるの?」


「ふふっ、すみません。今改めて自分の事を考えていましたが……晴さんの事しか湧き出てこなくて。瞬きをするその瞬間……瞼の奥にすら、晴さんを求めてしまいます。出来ることなら頭に花を咲かせ、目と鼻で晴さんを楽しませ……吐息ですら、独り占めして吸収したいんです。昼はひねもす……夜は夜もすがら。なれば私は“晴さんおバカ”でしょうか?」


 一瞬目を見開いた美桜さんは、チラッとだけ私を見たあと大笑いした。


「ハッハッハ!! 人前で惚気るなんて大した胆力ね。怪傑怪傑。晴ちゃんが奪われるのも無理ないわ。あなたみたいなバカは大好きよ? さて…………雪村ゆきむらぁ、あんたは大バカだねぇ……」


 雪村……久しぶりに栞の名字を聞いた。その雪村さんは目を合わす気力も無いのか、窓の外を虚ろな目で眺めている。

 

「理由があるんでしょう? 雪村は酒に飲まれないって分かってるから、私は抑制してないの。言ってみなさい?」


「…………」


 栞は項垂れながら摺り足で美桜さんの隣へ行き、耳元で何かを囁いた。

 暫くして美桜さんは頷きながら栞を強く抱きしめ、優しく背中を擦る。

 嗚咽を堪えた栞は、鼻を啜りながら子供のように美桜さんを抱きしめている。


「あなたは間違ってない。大丈夫よ、私はずっと味方だから。やっぱりあなたも……最高の大バカね。ありがとう、雪村」


「美桜さん……私……」


「謝らなくていいの。それに── 」

 

 私と雫を見て、優しく微笑む美桜さん。

 自然と手を繋いでしまうと、歯を見せながら笑ってくれた。


「もっと素敵なピアニストを連れてきたんでしょう? さぁ時間は無いよ。雪村と晴ちゃんは衣装と照明の打ち合わせしなさい。雨谷さん、ちょっといいかしら?」


「は、はい!」


 彼女が気になり過ぎて、栞についていくふりをしてギリギリまで部屋に残った。美桜さんは分厚い辞書みたいな本を出して……あれは楽譜? 旋律とコードしか書いてないけど……

 

「雨谷さん、出来そう?」

「はい。一度聞かせて貰えますか?」

「ふふっ、十曲よ? 一度でいいの?」

「充分です。お願いします」


 凛としたその顔に、瞳を奪われてしまう。堪らず側に行こうとしたところ、栞に耳を引っ張られて打ち合わせ場所まで連行された。

 


 ◇  ◇  ◇  ◇



 私達の卒業旅行初日であるここは、彼女曰く『おまちの一等地』だそうで……その表現とキョロキョロ辺りを見回す仕草が愛しくて、人目を憚らずいちゃいちゃしてしまう。

 そんな私達に、後から来た葵が突っ込みを入れる。


「ヒナちゃん!! せめて全部終わってからにしよう!?」


「ふふっ。卒業旅行中だし、せっかくなら楽しまないと……でしょ?」


 控え室のドアを開けると、急遽用意されたアップライトと同サイズの大きな電子ピアノが置かれていた。

 余裕を見せていたフリをしているけど、否が応でも現実を突きつけられて思わず引きつってしまう。


「雫、早く練習しないと」


「いえ、私は大丈夫です。晴さんが使ってください」


「えっ!? ヒナちゃんも弾くの!?」


「ふふっ、まぁね」


 指慣らしをしていると、事務所のスタッフがわらわらと控え室にやってきた。

 衣装、照明、音響、最後の打ち合わせ。


「姫ちゃんだ!! 写真撮ろうよ!!」

「あー、これ姫ちゃんの衣装か」


 色々とお騒がせしてしまっている私達のことは事務所内で了知されていて、とりわけ彼女は皆から『姫』のあだ名で通っている。それでも私達の事が公になっていないのは、事務所の、仲間の優しさに包まれているから。


 彼女は半ばおもちゃにされながら……皆の想いは形になっていく。

 上品で都雅なパーティードレス。

 そこにあざとくも可愛い花の髪飾りが添えられ……葵によるメイクで完成する。


 皆が気を利かせて部屋を出ていく中、最後に出ようとした葵が少し困ったように笑いながら戻ってきた。


「あのね、美桜さんから口止めくらってるんだけど……シオちんがさ、ピアニスト殴っちゃった理由なんだけど……ヒナちゃんのこと馬鹿にされたからなの。一度は我慢したらしいんだけど、やっぱり許せなかったみたいで……相手が謝ってくれなかったから、殴って前歯を折っちゃったんだって。本当だったら警察沙汰なのに……ふふっ、愛されてるよね。シオちんも、ヒナちゃんも♪ じゃ、頑張ってね!」



【はじめまして、雪村栞です。今日からあなたの── 】

【あなたもお金を貰ってるからには立派な社会人よ? 十分前行動は当たり前にね。えっ、私も出来てないって?】

【ヒナ、今度の映画主演だって!! 一緒に頑張ろう── 】

【これ次のドラマの脚本ね。はぁ? キスは絶対にしない? ……私? んなもんしたことないわよ……】

【ヒナ、次の仕事断っといたから。何謝ってんの? 一度決めたなら最後まで貫きな? そこがあんたの良い所でしょ】

【ヒナちゃぁん、一緒に飲もうよぉ。酔ってない酔ってない。え? 大丈夫、四捨五入すれば二十歳じゃん】

【職場に酒持ち込むなって? 神主だって仕事で酒撒いてるんだし、これは神聖なものなの】

【ねぇヒナ聞いてよ。この前さ── 】

【いいよ、ヒナがやりたいようにやりな。全力で背中蹴飛ばしてあげるから】

【ふふっ、あんたといると飽きないわ】

【女優日向晴最後の仕事だよ。よし、行ってこい!】

【あんたも私も一人じゃなんにも出来ないんだから。ふふっ、これからも一緒に頑張りなさい?】


 ホント……世話の焼けるマネージャーなんだから…………


「……全部終わったらほっぺたつねってやるんだから」


「ぜ、絶対に成功させましょうね!」


「ふふっ。雫、ありがとね。一緒に頑張ろ♪」



 ◇  ◇  ◇  ◇



 司会者が告げる演者変更の知らせ。

 既に開始されている宴のざわつきの質が変わった。

 ただ、私の名前と姿が眩い明かりに照らされると……須臾しゅゆにして、静寂が訪れた。


 お辞儀をしてピアノと向かい合うと、会場中の視線と関心の全てが私に集中した。

 日向晴がピアノを弾く……それだけで絵になる筈だから大丈夫。


 可愛らしく奏でるは “きらきら星”

 

 笑顔であどけなく弾く私を、皆見守るようにスマホで撮影する。

 最後のフレーズ、わざと間違えて……あざとくお辞儀をすると、笑いと共に拍手を受けた。

 反応は上々。会場にいる雫を手招きして呼び寄せる。

 肩で息をし小刻みに震える彼女。そんな姿に私が耐えきれず止めようとしたけれど……私にだけ聞こえる小さな声で彼女は 語った。


「……不思議ですよね。獣の数が人よりも多い山奥にいた私が、こんなにも晴れやかな舞台で沢山の方の力を借りて……素敵なドレスと髪飾りを纏ってピアノを弾く。ちょっと前の私なら、卒倒してました」


 彼女は微笑みながら一つお辞儀をしてピアノ椅子に座る。

 椅子を調節する姿に見惚れているのは、私だけではない。

 ないけれど……誰にも見せたくない。なんて、幾つになっても私は妬いてしまうのだろう。


「じゃあ……今は違うんだ?」


「ふふっ。あなたの恋人ですから」


 私に目配せをすると、肩の震えが止んだ。


 同じように、可愛らしく奏でるきらきら星。けれど彼女のそれは、次第に幾つもの星が輝き始めるきらきら星。


 モーツァルト作曲“『きらきら星変奏曲』ハ長調 K. 265”


 ピアノを弾いている人からすれば、然程難しくはない曲なのかもしれないけど……

 存外に、私達素人からすればそんなことは分からないものだ。

 幾つものバリエーション。聴き映えのする星達は、この立食パーティーという会場にピッタリの曲だろう。

 華々しく弾き終えた彼女に讃えられる拍手。

 対して微動だにしない彼女は、鳴り止んだ拍手の後私を手招きして……私は右手、彼女左手。まるで三歳児の音楽発表会の様な可愛らしいきらきら星を連弾する。 

 先程間違えたフレーズを見せつけるように正しく弾き終え、二人並んでお辞儀をすると……鳴り止まない拍手。会場は温かい雰囲気に包まれた。


 ◇  ◇  ◇  ◇ 


 温まった会場、酒の席。

 要人達の青春時代を彩ってきた歌謡曲が、この場の春に花を咲かせている。

 一度も練習もせず暗譜で艶やかに奏でる彼女に、心底惚れてしまう。

 駆け寄って抱きしめて……この大好きな好きを沢山伝えたいけれど、私には私の役目がある。

 要人達が私の周りに集まり……写真撮影にサイン会、話し相手と盛り上げた。


「シオちん、ダメだって!! 今日は我慢しないと……」


「おーっす。ヒナァ、飲んでるかぁ?」


 大ジョッキ片手に口の周りに泡をつけ……幸せそうな顔で麦酒ビールを飲む栞。

 私の肩に持たれ掛かり、頭を擦り寄せた。


「相変わらずヒナは人気者だなぁ」


「ふふっ、お陰様で」


「ホント……ヒナのマネージャーでいられて誇らしいわ」


「……私も、栞が友達でいてくれることが誇らしいよ。ありがと、栞」


 私からも頭を擦り寄せると、鼻で笑いながら照れ隠しにジョッキに口を付ける栞。

 私の服に触れた、左手の甲に貼られた絆創膏。

 優しく私の甲が触れると……瞳を潤ませた栞は、先程よりも美味しそうに麦酒を飲み微笑んでいた。



 ◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「はるしゃん……常緑樹のフェンスの向う側は五七五七七………………ふぇ? ここは……」


「おはよ、雫。ピアノを弾き終わってそのまま寝ちゃってたんだよ?」


 気が付けばピアノの横で座りながら眠っていた彼女を見つけ、そのまま抱き抱えて会場の上にあるホテルへと連れてきた。

 気を利かせてくれた美桜さんが、私達の為に抑えてくれた部屋。

 

「卒業のお祝いにって、この部屋を借りてくれたの。窓の外見てみて?」


 寝ぼけ眼の彼女の手を引きカーテンを開けると……おまちの一等地が、私達の下で眩く輝いていた。

 思わず吐息が漏れる彼女、愛しくて唇を塞ぐ。

 窓ガラスに反射するドレス姿の私達。天も地も、燦然さんぜんたる世界。


「じゃあ……コレで乾杯しよっか」


「ふふっ、サイダーですか?」


 可愛らしく微笑む彼女の手を引き、ベランダへ出る。それはスイートルームの特権。

 エスコートして椅子に座らせ、グラスにサイダーを注ぎ込む。

 咳払いをすると……それが祝の合図。


「……ふぇ? ど、どうして桜の花弁が……?」


「「二人とも、卒業おめでとー!!」」


 隣のベランダから桜の花弁を大量に撒き散らす栞と葵。

 見惚れる彼女の手を取り、花弁を一つその上に重ねた。


「春霞……たなびく山の桜花、見れども飽かぬ君にもあるかな」


 私が詠み終わると同時に、飛び付くように抱きついてきた彼女。幾度も唇を重ね、愛を重ねる。

 

「毎日……毎日今日が一番幸せだって思えるのに、どうしていとも簡単にあなたは塗り替えてくれるのでしょうか」


「ふふっ、分かってるくせに」


 言葉に想いが増すほどに、互いを求め合う私達。

 止まない桜颪さくらおろしと深まる彼女の匂い。

 万斛ばんこくの愛に包まれて、春きたる。

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