第116話 日向晴
「ふぇぇ……立派な会場ですねぇ……ディナーショーなるものは初めてなので緊張しちゃいます」
「ふふっ、そうだね。ちょっとだけ緊張しちゃうかな」
政治家に医者、有名企業の経営者に芸能関係者。
今日はそんなお偉い人達を相手するディナーショーのゲストとして呼ばれている。
「ヒナ!! よかった、早く来てくれて。ちょっとこっち来て」
マネージャーの栞が珍しく血相を変えて私の元へ走ってきた。栞とは十年の付き合い。嫌な予感は的中するに決まっている。
「私も今日知らされて……いや、理由にならないんだけど“cross the stars”を歌ってちょっと喋るだけっていう話で……まぁいいや、これ見て」
こんなに混乱している栞見たことない。
渡された紙には今日の出演者のリストが乗っていた。これって……
「……誰、これ?」
彼女にも見せると、大きな瞳がさらに大きく見開いた。
「この方は世界的に有名なテノール歌手です。その下の方もムジークフェラインザールで歌われたソプラノ歌手……このミュージカル俳優の方も非常に評判がいいですね……ふぇぇ……ベルリンフィルでコンサートマスターを務めた方も……今日は日本最高峰の演奏会なんですね」
「…………で、その中でドラマの主題歌を歌えってこと? 馬鹿にしてんの?」
「そうね、馬鹿にされてるの。しかもあんたトリだから。もっと悪い事言ってもいい?」
なんとなく血の気が引く感覚が続いている。
初めて映画の主演をした時、撮影直前に台詞が飛んだあの時の感覚に近いけど……事態はより、今の方が悪いのだろう。
「いいよ、なに? 悪い事って」
「当たり前なんだけど皆オーケストラ伴奏で……ヒナ、あんただけはCD音源だから。楽譜が無いって
この世界に長くいるから、今日のステージがどんな光景になるのか……なんて、想像に難くない。
一瞬頭の中が真っ白になったけど……彼女が握る柔らかな手の平が、辛うじて私を保たせる。
「ど、どうしてですか? 日向さんが何か悪いことをされたんですか? これでは嫌がらせとしか……」
「雨谷さん、皆が皆良い人じゃないの。ヒナの事を嫌いな人だって沢山いるし、陥れたい人だっている。些細な事でも……恥をかいたと言う人もね。女優を辞めるヒナにとってこれ以上ない恥晒しなんじゃないかな」
「で、ではお断りを……」
「出来るような相手じゃないの。今日の主催者は……断れば会社が飛んじゃうから。ヒナ、ゲネプロは参加しないから気持ちだけ作ってて。雨谷さん、あなたの仕事は分かるよね? ヒナのこと、お願いね」
これは仕事だから。
でも選んできた仕事も沢山ある。キスはNGだし、最後のドラマ以外直近は恋愛ものも断ってきた。
でも今日は……ただ、偉い人の前で歌うだけ。断る理由なんて無い。
いつも通りに歌って……必要以上に与えられた舞台で、恥をかくだけ。
楽屋では彼女と栞が何か話していたけれど、耳にも頭にも入ってこなかった。
用意された輝くドレスも何が綺麗なのか……ただ、私の手を握る彼女の存在だけが私を繋ぎ止めていた。
しっかりしなきゃ。彼女の前で格好悪い所なんて見せられないよ。
◇ ◇ ◇ ◇
否が応でも聞こえてくる、素晴らしい音楽達。
素人の私がCD音源でトリを務めるなんて……ふふっ、カラ笑いしか出てこない。
拍手、歓声、照明、静寂。
いつもだったら力に変えられるのに……
舞台に上がると、足が小刻みに震えているのが分かった。
参ったなぁ……怖いや……
隣りにいた筈の雫は慌ててどこかへ行ってしまい、空虚になった左手を力一杯握りしめた。
呼吸が浅く速い。
どうしよう……落ち着かなきゃ……
いつまで経っても曲が始まらず、極度の混乱から俯くと……照明に反射した指輪が、私に語りかけるように輝いていた。
“大丈夫ですよ、日向さん”
後から響くピアノの一音で我に返る。
オーケストラの楽器がチューニングするように、Aの音に合わせて透き通った声が聞こえてくる。
俯いていて良かった。
涙が止まらない。
崩れかけた私を包み込むたった一つの、特別な一音。
十年間。
私は私の信念を持って女優日向晴と向き合ってきた。
だからこそ見れた景色が存在し、だからこそ得ることが出来た……私の人生。私の全て。
雫、あなたが私の全てなの。
帰ったら……いっぱいぎゅってしようね。
大好きだよ、雫。
眩いほどの照明達が私を照らす。
目を瞑りゆっくりと深呼吸するそれは、撮影前のいつものルーティン。
目を開けると、ここにいる全ての人が私に集中しているのが分かった。
なりきっている私に、皆が魅せられる。
今日の私は……そう、日向晴。
大好きなあの子を思い浮かべ愛らしく微笑むと、私達の音楽が始まった。
グランドピアノが奏でるは、華やかな
ドラマ“星霜を越える私”で私が歌った主題歌を、ショパンの幻想即興曲のように情熱的にアレンジした……雫の想いが込められた演奏。
曲に合わせ軽やかに円舞すると、ドラマで使用された煌びやかなドレスを纏った彼女に目を奪われ、思わず見惚れてしまう。
気が付けば……私のドレスも、美しく光り輝いていた。
ドラマの主題歌を歌うことが決まってから、毎日家で練習をした。
仕事を持ち込むなんて絶対に嫌だった筈なのに……彼女が弾くピアノに合わせて歌うのが、楽しくて仕方がなかった。
女優の私、恋人の私。
もとを辿れば一人の人間なのに、そんな簡単なことにすら気が付かない程に、私は彼女に恋をしている。
在るが儘の日向晴なら……きっと、こんなふうに無邪気に微笑むだろう。
それから、何回かステップを踏んで朗らかに歌い始める筈。
「♪The fact that we, who should not have crossed, overlap──── 」
歌いだせば、景色が変わっていく。
その懐かしい光景に、私は歌を乗せた。
それは、木漏れ日が柔らかな照明に変わる昼下り。彼女が弾くピアノに合わせて歌った二人だけのコンサート。
彼女の肩に優しく触れた私の手。それに擦り寄せる彼女の温かな頬。
雨の日は、滴る雨音に合わせてリズムに乗った。
気が向けば何度も歌い、時には手を取り踊り抱き合った。
当たり前に存在してくれる幸せで尊い日々を思い出し、涙が頬を伝う。
気が付けば、多くの観客が同じように涙を流していた。
誰かの感情を動かせるこの瞬間は、何時だって誇らしく思う。
曲は大詰め。盛り上がったまま最後の旋律に向かう筈なのに……彼女が奏でる伴奏は、キラキラと煌く星空のように高音の
思わず驚いて彼女を見ると……いつも通り優しく微笑みながら私を見つめ、彼女は立ち上がった。
瞳の奥で、語り合う。
“今、行きますね”
“ふふっ、おいで”
ピアノから指が離れた一瞬の静寂。
私に抱きつくと流れてくる鼓動。
それは、鮮やかな
私と彼女の声だけが歩き出す。
寸分違わぬ息遣い。私ですら聞き入ってしまう程に、ただひたすらに美しい
届いただろうか。
受け入れられただろうか。
在るが儘の私を、日向晴を。
遠くから何かが聞こえた気がした。
甲高い指笛の音で、我に返る。
鳴り止まぬ歓声、降り続く拍手の雨。
私達の見つめ合う距離は次第に近くなり、抱き合いながらおでこ同士を擦り合わせた。
舞台袖では栞が慌ただしく動いていて……私のことをよく理解しているなと、思わず笑ってしまった。
「どうかしましたか?」
降りるはずのない
「雫、目瞑って」
「こうですか……?」
唇が触れた瞬間に暗転する舞台。
そこにあると分かっていても確かめたい私達は、互いの名前を何度も呼び合い……応えるように、何度も唇を重ね合う。
栞が鬼の形相で何か叫んでいたけれど、惚気て彼女しか見えない私には、何も届かなかった。
家に帰っても火照る心は冷めることは無く……重なり合った私達は、声が枯れるまで何度も何度も名前を囁き合った。
「ねぇ、私のことを好き?」
「ふふっ、大好きですよ?」
「……もう一回言って」
「……何回でも。大好き、晴さん」
「私も……大好き。雫── 」
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