第99話 夏の匂い


「ふぇぇ……すっかり夏の匂いが強くなってきましたね」


「夏の匂い……ふふっ、どんな匂い?」


「……甘くて、少し寂しい匂いです」


 例えば目の前に香水があったとして、私が感じる匂いと彼女が感じる匂いは全く同じではないと思う。

 でも、彼女が感じている全てを……余すことなく感じて、理解して、分かち合いたい。


 その景色までは、どれだけ清らかな心を持てば辿り着けるのだろうか……


「歯ブラシも着替えも持ったし……日向さん、準備出来ました」


「アレも持った?」


「クーラーボックスに入れて車の後ろに積み込みました」


「ふふっ、じゃあ……行ってきますの挨拶は?」


「い、行ってきましょう」


 頬に優しい口づけを貰い、私達は車に乗り込んだ。

  


 ◇  ◇  ◇  ◇



「「HAPPY BIRTHDAY お父さんー♪」」


「な、なんだお前たちは!? いきなり来て歌なんぞ歌いおって……連絡しろとあれ程── 」


「サプライズ、っていうんですよ? 内緒で驚かせて喜ばせるんですけど。これ、雫が作った誕生日ケーキです」


「くだらん……雫、厨を掃除しておきなさい。それからキサマはこっちにこい」


 腕を組みながら背を向けるのは照れている証。

 ホント、素直じゃないんだから。


 ◇  ◇  ◇  ◇


 雫の故郷。

 それは深い山を三つ越えた先にある日本の原風景。

 写真でしか見たことのない景色が私の目の前に広がっている。


「あのー、これは……」


「見てわからんのか、鍬だ。耕せ。出来たら呼べ」


 そう言って雫父は草刈り機のエンジンを掛け周囲の草を刈り始めた。


 用意周到な彼女が持ってきたツナギに作業用手袋、長靴と大きな麦わら帽子(メッシュ付き)に着替える。


 我が家の畑を真似してそれとなく耕していく。

 日は陰っているが、とにかく暑い。

 私はいったい何をしているのだろうか。


「ハァハァ……出来ました」


「やり直せ。もっと空気を含ませろ。それとこれも入れてよく混ぜろ」


「あの……これは……」


「コウモリの糞だ。満遍なく── 」


「キャーー!!? 無理無理!!」


「なっ……やれ!! このバカ者!!」  


 どうして私にこんなことをさせるのだろうか。

 幾度となく口論になる私達。


「もっと腰を入れて耕せ!」


「うるさい、ちゃんとやってるから!」


 それでも、目の前の畑に集中せざるを得ない。

 いつしか時間を忘れ、一心不乱に耕し続けた。


 ◇  ◇  ◇  ◇


 雲天の隙間から割り込むように、陽光が強く差し込む。

 瞬間的に熱せられた地表からは、むせ返るような深い深い緑の匂いと……それから……少しだけ、甘い香りがした。

 持っていた鍬を握る手が、少し緩む。


「日向さん、お疲れ様です。冷やしたスイカを持ってきました。縁側で一緒に食べましょう」


 古臭いことは好きじゃなかった。

 昔を懐かしむくらいなら、今を見つめて未来を楽しみたかったから。


 軒が深い日本家屋。

 縁側は陽光が遮られ、心地良い風と共に風鈴が愉しげに歌っている。


 よく冷えたスイカが妙に美味しくて、おかわりをしてしまう。

 笑顔で差し出す彼女が眩しい程に愛しくて、自然と唇が触れ合っていた。

 麦茶の氷が溶ける音がして我に返ると、おねだりをするように目を閉じた彼女に再度心を奪われた。



 ◇  ◇  ◇  ◇


        

「ふぅ……出来た」


 午前から取り組んだ畑作り。

 ふかふかの土、真っ直ぐ整った畝。

 植えられた苗に反射する水滴が美しく、達成感に浸る。


「此れっぱかしの畑で満足するな。定期的に見に来い。キサマの畑だ」


「ふふっ、厳しいなぁ。どうしてそんなに厳格なんですか?」


 私の質問には答えず、腕を組みながら四方を囲む山々を見つめているだけの雫父。

 六時半、空の色が薄っすらと変わり始めた頃に聞こえた、ぶっきらぼうに呟く声。


「私が死んだらキサマがやれ。分かったな」


「えー……ふふっ、ちょっと嫌だなぁ」


 一日の終わりを、ひぐらしの時報が告げていく。

 あれだけ色濃く香っていた緑の匂いは薄っすらとしていき、日暮てゆくその瞬間は……どこか……寂しい匂いがした。

 

 私を呼ぶ彼女の声。

 振り返ると、笑顔で手を振る彼女。その背には、紅く染まっていく空と山々。


 夏の匂いがした。

 

 甘くて寂しい、夏の匂いがした。

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