第97話 日焼け止めクリームの香り
梅雨晴間。気温は三十度を超え、蝉吟を響かせたい幼虫達は明日にでも空蝉を残していきそうな暑い暑い日。
冷房の効いた部屋ではポン助がお腹を上にして気持ちよさそうに昼寝をしている。
そんな中、日向さんはせっせと顔に何かを塗っていた。
「日向さん、何をしているんですか?」
「ふふっ、日焼け止め塗ってるの。部屋の中でも焼けちゃうんだよ?」
日向さんの見ている鏡を後ろから覗くと、鏡越しに幸せな顔で私を見つめ、その後私を手繰り寄せて頬擦りをする日向さん。
美しい指先が、私の顔を何度も伝う。
「雫はホントに綺麗な顔だよね。白くてモチモチしてて……ふふっ、赤ちゃんみたい」
「ほ、褒め言葉でしょうか?」
「もちろん。綺麗で可愛い……私の雫」
甘くて熱い口づけ。
日焼け止めの匂いは、眩しいほどのあなたの微笑みと共に、梅雨明けを予感させる香りがした。
◇ ◇ ◇ ◇
大学の講義が終わり、駅と直結された商業施設に来ています。
往来する人数も多く苦手な場所ですが……
震える身体を抑えてでも気になることがあって、この化粧品売り場へとやってきました。
……うん、私が入れそうな場所ではないね。
入口でウロウロしていると、とある広告看板の前で足が止まってしまった。
それは、化粧品売り場に設置された日向さんの大きな看板。
ありとあらゆる場所が美しいその姿に、只々見惚れてしまう。
艶やかな唇に指先が触れた瞬間、私を現実に引き戻す声に身体も心も硬直した。
「なにかお探しですか?」
私の苦手な事の一つ、店員に話しかけられること。
お洒落なところほどその確率が高い。
「そ、いえ、あの…………この写真に見惚れてました……」
「日向晴さん素敵ですよね。イメージモデルをされて三年目ですが……ここ一年で本当にお綺麗になったんじゃないかなぁ」
日向さんに言われた言葉……マネージャーの栞さん、写真館の店主に言われた言葉を思い出す。
……ううん、自惚れちゃ駄目だよ。
日向さんの日頃の努力が結ばれているだけなんだから。
「こちらの商品は日向晴さん等モデルさんが多数ご愛用されている品ですが……お客様、試していかれますか?」
日向さんこんなの使っていたかな……?
綴りが違ったような……
グイグイとくる店員にたじろいでしまう。
涙目の私。誰か助けて……
「雫さん、お待たせ。ほら、行きましょ?」
突然私の手を引く温かな存在。
渡りに船。その船主は──
「お、お母様……」
「ふふっ、偶然ね。今忙しい?」
「いえ、講義も終わったので……」
◇ ◇ ◇ ◇
というわけで、お洒落なお店でパンケーキを食べてます。
人生で二回目のパンケーキ。
未だにホットケーキとの違いが分からない。
「先程はありがとうございました。ああいった対応は苦手でして……」
「ふふっ、私も一緒。彩と待ち合わせをしてるんだけど……時間潰しに寄ってみたら雫さんがいて驚いちゃった」
日向さんに似た、優しくて温かな微笑み。
それは、慣れない場所で緊張している私の心を少しずつ溶かしてくれる。
「そういえば……雫さん、あのお店に用があったんでしょ?」
「は、はい。その……き、基礎化粧品なるものを探してまして……」
私の一言で察してくれたお母様は、何も聞かずに優しく微笑んで……それから、少しずつ私の背中を押してくれた。
「ふふっ、じゃあ……私が使ってる基礎化粧品教えてあげる。ちょうど鞄に入ってるから── 」
お母様は、一つ一つ丁寧に教えてくださった。
その嬉しそうな横顔が、ピアノを教えてくれた時のお母さんの姿と被る。
思わず甘えてしまい、私の本音が漏れてゆく。
「ひな……晴さんは私を綺麗だと褒めて下さいました。私には私の価値が分かりませんが……晴さんが見出してくれたその価値を大切にしたいんです。いつかは老いてしまいますが、出来るだけ長く……晴さんの前では綺麗でありたいんです」
「……ふふっ、雫さんなら変わらず綺麗でいられると思うよ? でもね……」
お母様は我が子に語るような瞳で見つめ、私の手を握りながら微笑んだ。
「どんな雫さんでも、晴は受け入れてくれるから。だって晴は……ふふっ、噂をしたらほら」
「雫!! なになに、なんで一緒にいるの!?」
「彩、静かにね。雫、講義お疲れ様」
私を囲むように、日向さんと彩さんが寄り添ってくれる。
「ど、どうして日向さんが?」
「偶々通り掛かったら雫の原付きが近くに見えたから寄ってみたの。そしたら彩と出会って……ふふっ、みんな雫に惹き寄せられたね」
「じゃあ家族四人揃ったことだし、パンケーキパーティしましょ? 彩、何食べる?」
「私ね雫と一緒がいいから── 」
私の大切な人の、大切な家族。
受け入れられている幸せに、溶けた心は涙となって流れてゆく。
そんな心を指で拭って、優しく抱きしめてくれる大好きな人。
机の上に置いてある化粧品達を見て、あなたは何を思ったのでしょうか……
只々優しい顔をして……あなたは私の体温をあげていく。
きっとあなたは、どんな私でも好いてくれる。
だからこそ、私は少しでも……可愛くなりたい。綺麗でいたい。
移りゆく季節のように、素敵な老い方をあなたとしていきたいから。
“綺麗だよ”
あなたの瞳がそう伝えてくれるから、机の下で何度も確認するように指を絡め合った。
◇ ◇ ◇ ◇
外へ出ると、蒸されるような湿気と焼けるように熱い日差しが出迎えてくれた。
顔が赤くなりやすい私は、熱を逃がそうと一瞬にして真っ赤になってしまう。
そんな私の上に出来た、柔らかな影。
当たり前のように日傘をさしてくれて、当たり前のように私に多く影が出来るように傘を調整するあなた。
私の顔が再び赤くなっていく理由も、あなたにはお見通しなのだろう。
風が吹き、隣で歩くあなたの足が止まった。
目を少しだけ見開いていて、それから……どこまでも優しく微笑み、私を見つめている。
その意味を理解した私は、より一層顔が赤くなっていく。
コッソリ購入した、あなたとお揃いの日焼け止めクリーム。
その匂いに気付いたあなたは、おねだりをするように目を閉じた。
周囲の目を盗み、何度も何度も甘くて熱いキスをする。
日焼け止めクリームの香りが、生温い風に乗せられてゆく。
街路樹の初蝉が告げる、季節の始まり、そして終わり。
暑い暑い一日。その日、関東は梅雨明けをした。
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