第95話 バジェット一号二号
仕事から家に戻ると、彼女は分厚い図鑑を広げながら机で作業をしていた。
私が帰った音が聞こえていないほど集中している。
普段とは違う、落ち着いた瞳。
そんな素敵な横顔とは対象的に、机の上では我が家のカエルが二匹とも仰向けになり大人しく彼女に調べられている異様な光景。
「し、雫……ただいま」
「…………おかえりなさい……」
声が震え、言い終わりには大粒の涙を流し始めた。
カエルは生きているみたいだし……
一体何があったのだろうか。
「雫……どうしたの?」
「…………温室育ちのこの子たちは、割と寒い時期でも卵を産むはずだったんです。変だなとは思っていたんですが…………この子たち、二匹とも男の子なんです」
なんて反応をしたらいいのか、答えが見つからない。
ただ、悲しんでいる彼女は見たくないから、隣に寄り添って優しく背中を擦る。
「三号を買ってこようかとも思ったんです。でも……こんな姿を見せられたら、私は…………」
机を見ると、二匹はいつも通り仲良く体を寄せ合っている。
彼女が二匹を離してみると、お互いを探し合いゆっくりと移動する。
納まる場所は、いつも同じ。
「ふふっ、私達みたい」
そんな二匹を見つめ、彼女の涙は少しだけ緩くなる。
真似するように、私に寄り掛かる。
「……私はこの子たちの幸せを願っています。ですが……彩さんに約束したんです。タピオカを作ると……私はどうしたら…………」
彩もカエルも大切にしたいという気持ちが痛い程伝わってくる。
真面目で優しい、私の恋人。
そんな雫が好き。
「じゃあさ……こんなの使ってみたら?」
スマホの画面を彼女に見せる。
表示されたページには “簡単タピオカレシピ” と書いてある。
「ふぇぇ……タピオカ粉……こんなものがあるんですね……卵を乾燥させて潰したものでしょうか……?」
本当のことを話してあげたいけど、それは私の仕事じゃない。
滴る涙を指で拭い、優しく頬ずりをした。
「一緒に買いに行こっか。すぐ出来るみたいだから彩に聞いてみるね」
「私が電話します…………もしもし、雫です。いえいえ……それでですね、タピオカを今から作るので、宜しければ…………えっ?準備ですか? はい……ではお待ちしています。道中、気をつけて下さいね」
「なんだって?」
「神妙な声で、準備してから行くと仰ってました。どうしたんでしょうか……」
なんとなく彩の心中を察する。
どうしたものかな……
◇ ◇ ◇ ◇
「お邪魔します…………」
「彩さん、いらっしゃい。ふふっ、今日はとってもお洒落な格好ですね」
「死に様くらい可愛くいたいからね……」
お気に入りの一張羅、渾身のフルメイク。
さしずめ、死に化粧に死装束なのだろう。
(彩、素直に謝ったら?)
(いい。雫が私のために作ってくれたんだもん。私はそれを食って死ぬ)
「彩さん、その……ごめんなさい」
先に頭を下げた彼女。
これはもしかしたら手がつけられないかもしれない……
「私の手違いで……この子たちは両方男の子なんです。ですから………………卵を…………」
堪えきれず号泣する彼女。
愛くるしいその姿、思わずキュンとしてしまう。
つられて涙を流す彩。
純粋すぎる二人をどうまとめていいのか答えが出ない。
とにかく早く彩に謝らせないと……
「……この子たちの卵は産まれてきませんが、二匹が一緒になれたのは彩さんのおかげです。こんなに仲の良いカップルですから、幸せなんだと思います。私なりに……タピオカ粉なるものでタピオカを作ってみました。バジェット一号二号の想いも込めてあります。彩さん、いつもありがとうございます」
深々と頭を下げる彼女。
この健気な想いも大切にしたいから、私は彩の背中を優しく押してあげた。
「雫、彩からも何か言いたいことがあるんじゃないかな? ね、彩?」
震える身体を抑えるようにトップスを握り、声を絞り出す彩。
彩……頑張って。
「し、雫……その……私……」
「ふふっ、なんですか?」
「ち、違うんだ。そのタピオカは本物で……私の言ってたカエルのやつはその……偽物っていうか……」
彼女は彩の言葉に目を丸くして、その後優しく微笑んだ。
彩が彼女のことを想いすぎてここまで膨れ上がってしまった話だけれど……彼女もまた彩のことが大切だから、彩の全てを肯定的に受け取ってしまう。
「仮初を受け入れて真実にしてくれようとするそのお気持ちだけで、胸の奥が温かくなります。もしこの子達が泉下の蛙になってしまったら……その時は、三号四号が今度こそ彩さんに本当のタピオカを作ってくれますから。ふふっ、遠い遠いお話になってしまいますね」
「違う、違うんだよ……ホントは、ホントはね…………」
言葉にならない彩を思ってか、優しく抱き寄せて背中を撫でる彼女。
どこまでも真っ直ぐな彼女に合わせるには、こちらが折れて彼女と同じ方へ向くしかない。
全てを諦めた彩は、強く抱き返して子猫のように甘え始めた。
「ふふっ、彩さんはお優しいですね。それでは、いつか来るその日までは……今日作ったこれが本当のタピオカです。それまでこうして変わらずに、懇ろな関係でいられるでしょうか……」
「好き……ずっと好きだよぉ……」
その言葉通り、何年経っても雫を見ると尻尾を振って慕っている彩。
それから、十七年も生きたカエルたち。
大往生した二匹は仲良く同じ日に寄り添うように旅立っていった。
……十八年後、新しく迎えられた三号四号に悩まされるなんて、彩は思いもしないだろう。
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