バナナの降る朝に君の淹れたコーヒーは少し苦い
紫蛇 ノア
歪んだ月夜
「あちっ」
生来の猫舌である私は、淹れたてコーヒーの思わぬ熱さに思わず悲鳴をあげてしまった。
「ほぉら、ふぅふぅしないと君じゃ飲めないでしょ。お砂糖は?」
「良いの。私、村くんと一緒のタイミングで一緒のものを飲みたい……。ふぅ、ふぅ……にがっ」
隣に座って同じくコーヒーを口につける村くんは、私の様子を見ながら意地悪っぽく笑って返したっきり、先ほどまで彼が立っていたキッチンのある目の前をぼうっと見つめる。
私はこの時間が好きだ。
朝、少し早く起きて村くんと一緒に熱くて苦いコーヒーを飲み、ぼうっと時間を過ごす。
まだ同棲して半月も経たないけれど、案外生活リズムも合っていて、不満もないので近々結婚を切り出したいとも思っている。
そう、私たちはラブラブの恋人同士だ。
自分でラブラブなんて言うのは、少し気恥ずかしいけれど……。
「さぁ、行ってくるよ。奈々」
「うん、行ってらっしゃい 。村くん」
村くんは朝が早く夜は遅い、少し心配になるほど働き盛りのサラリーマンだ。片や私はそこそこ人気なリモート授業の家庭教師。
朝から夕方まで、このダイニングテーブルにパソコンを置いてこの国のどこかにいる生徒に配信する毎日を送っている。
「先生、星は黄色だってママが言ってました。なのに、教科書にはなぜ黄色い星は載ってないのですか?」
生徒たちのなかには、その授業の特性から病院に入院しながら私の授業を受けている子たちもいて、まれに、他の元気な子たちが当たり前に知っている外の
そういうときは、絶対に笑うことなどせず、一緒に考えてあげることを私は他の子たちと約束していた。
「そうね、月は黄色いけれど、教科書には白い星かアンタレスのような赤い星ばかりね……」
さすがの私も、この答えには困ってしまった。言われてみれば、クリスマスツリーのてっぺんの星や、ノートや便箋などに描かれたイメージとしての星は黄色いものが多数だ。しかし、本物の星はと言うと、白いものが多い。ふと家の外に出て見上げた夜空にも白が多いことを、引きこもりがちな私でも知っている。
ではなぜ、星のイメージは黄色なのか……。
表面の温度が……などと話しても、彼らに伝わるはずがない。
「先生、紙に描いたときに白じゃ見えないからじゃないですか?」
一人の少年がそう発言した。
そうだ。白い紙に星を描くとき、白では見えづらい。
「確かにそうね……。でも黄色い星もあるんですよ。例えばぎょしゃ座という馬を操る星座のカペラという星などですね。
ですが、確かに紙に描いたとき一番星に近く見えるのは黄色なのかもしれませんね」
じっとりとした冷や汗が背中を伝うのを感じつつ、ほうほうと納得顔の質問をくれた少年に良かったですね、と返した私は授業の本題へと話を進めた。
その日は、それ以外の突拍子もない質問もなくスムーズに授業が進んでいき、ようやく最後のコマが終わりを告げた。
お疲れさまでした〜、という若干疲れた私の言葉に倣って生徒たちは次々と退出していく。
私も退出できたのを確認し、パタンとパソコンを閉じると、フゥっと息を吐きながら窓辺に寄りかかり、外を見上げた。
サァ――――。
空から雨が降ってきていた。視界の端には海に沈む太陽が赤い夕焼けをこれでもかと魅せつけていた。
しかしそんな夕日の光も、街灯も、時節通る車のヘッドライトも、雨に濡れた窓のおかげで歪んで見えた。
「あ……。ヤバい」
つうと。静かに涙がこぼれ、視界までもを歪ませる。
今でも、雨になれば思い出すのはあの日の出来事だ。今日は赤も混じっているから、特に鮮烈な記憶がよみがえってしまうのだろう。なら、窓の外なんて見なければいい。何度そう思っても、外の景色が綺麗だと思う人間の心は捨てきれるわけもなかった。
『ほら、行くよ! 奈々さん』
あのとき、引きこもりがちで世間知らずで塞ぎ込んでいた私を、無理やり外に連れ出した村くん。
外はあいにくの雨で、――それでも雨に打たれることすら初めてだった私は、心が踊り、はしゃいでしまった。まつ毛に落ちた雨粒のおかげで、水の上に絵の具を落としたような色とりどりの光に溢れた街は、歪んで見える幻想郷だった。
そんな街を、今まで手を引かれていたことも忘れて村くんを引きづり回しながら歩いていた矢先、道と知らずに踏み込んだ私の目の前には、トラックが居た。雨に濡れ、すりガラスの向こう側のような光を放つライトが近づき、突っ込んできた私を今まさに排除せんとするトラックは、目の前で赤い血飛沫をあげ、沈黙した。
『村くん……?』
何も知らない箱入りの私は、そう声をかけることしかできなかった。
慌てた運転手が私を跳ね除け、間違えて轢いてしまった村くんを助けんと行動を開始する。
私はそのあいだ、ポツリと取り残され、雨のなか泣き叫ぶことしかできなかった。
幸い打ちどころが良く、彼は一命を取り留め今は元気なのだが、あのときの記憶は雨とともに私を苛んでいる。
――――ッ!
酷く頭が痛んだ。
雨のせいだ。雨が私を責めていた。
雨が――村くんを赤く染める。
******
「だいじょうぶ?」
優しい村くんの声が降ってきた。
私の両肩にはブランケットが掛けられていて、村くんの手には通勤鞄があった。
「いつもの発作だね……。本当に君は優しいね……、君は悪くない、悪くないんだよ」
村くんは、そう言って私の頭を優しく撫でてくれた。心身ともに弱りきった私は、その手に身体を委ねてごろごろと甘える。
「こーら、夕飯要らないのか?」
「ほしい」
「じゃあ離して」
「……もう、ちょっとだけ」
村くんは私のワガママをしばらく聞いてくれた。
当然、時間はどんどん過ぎていき、結局夕飯は出前で取ることにした。
私のトラウマのせいで、どんどん村くんの予定が狂ってしまうこと、村くんがあのとき痛い目に遭ってしまったことがずっとグルグル頭を回って収拾がつかないやるせなさを、少しづつ村くんが撫でておろしてくれた。君は悪くない、そう言われるたびに、なんだかどうでもよくなってしまうのは不思議な話だ。
やがて届いた私の親子丼と村くんのカツ丼とバナナという謎の組み合わせ。
空腹に耐えかねた気の緩みからか、村くんのバナナに思わず私は笑ってしまった。
「カツ丼に、……バナナっ」
「おいおいバナナをバカにすんなよぉ? 栄養が豊富なんだぞ??」
真面目ぶった彼の回答に私は抑えきれずに笑いだす。村くんもつられて笑い出し、二人しかいない食卓は村くんと接していなくても温かい空気に包まれた。まるでお日様のような心地よさに目を細め、私たちはそれぞれのどんぶりに箸を運んだ。
後片付けのときも、村くんはずっとそばにいてくれた。
それだけでなく、お風呂に入って歯を磨いたあとも私は村くんの布団のなかに入れてくれ、しばらく頭をなでてくれた。過保護すぎだよ、と口をとんがらせても、村くんは自分が寝るまでそうしてくれた。
「おやすみ、奈々。早く寝ろよ」
仕事の忙しい村くんは先に寝てしまう。でも、私は村くんの温もりが感じられるだけでも嬉しく、思わず村くんの額にキスまでして遊ぶ。我ながら、子どもに戻ったような高揚感まで感じていた。
しかし、夕方あんなに泣いたからか、今更ながらのどの渇きを感じた。
耳に響く雨音。まだ温もりが脈打つのを感じながら、私はベッドを離れてキッチンに立った。
蛇口から適当に水をすくい、一気に飲み干す。一気に生き返る気がして、ふぅと息をつく。
帰り際、雲間から差した月の光に惹かれて、私はふと窓の外を眺めてしまう。やはり外の引力は絶大だ。どうしても人の心を惹きつけてやまない。
しかし、彼の温もりが、まだ私を守ってくれていた。その狂おしいほどの温もりを胸に抱えながら黄色い光を眺めていると、やめておけばいいのに再び瞼が潤み始めた。
すると、ぬっと移動してきた月の光が窓の雫と瞼の雫で乱反射し、光は歪んだ。
それはまるで夕飯に村くんが食べていたバナナのようだった。
クスリと笑いが込上げる。しかしその笑いは少しでは留まらず、息のできない愉快な苦しさを少しだけ味わうこととなった。
「ふふふ、バナナ……! 雨が! バナナ!!」
それだけおかしかったのだ。
トラウマの雨が、今日村くんに食べられたバナナに変わってしまった。
******
次の朝も雨が降っていた。
「おいおい、大丈夫か? 雨なんか見て」
「うん、大丈夫。雨はバナナに変わったから」
「へぇ……。さすが先生は言うことが違うね。じゃあアレは、バナナが降ってるんだ」
彼はふぅんと言いながらも、私の成長を頭をなでて喜んでくれた。
村くんの言葉にうんうんと頷き、コーヒーカップを取り上げる。
少しは昔のトラウマを克服した私だ。毎日飲んでいるコーヒーも甘くなるはず、と意気込んだのだが、熱いのも苦いのも、やっぱりまだまだ変わらなかった。
バナナの降る朝に君の淹れたコーヒーは少し苦い 紫蛇 ノア @noanasubi
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