第351話 2015年5月 32

「……ろー 」


浪が防波堤にぶつかり、引く。


その刹那に何の音もしない静寂が訪れる。


全てのモノ音を凪いだ海が吸収してしまうのだろう。


一瞬の、いや、刹那なんだろうが、防波堤にぶつかり、波が砕ける音や、その砕けた波が引く音があまねく、波がしらで、その存在を主張する太平洋に突き出した防波堤の突端で、各々の波長の頂点が全てフルシンクロして、ほんの刹那にだけ、まったくの無音を奏でる刹那がある。


その刹那に……


「……けんたろー」


おれの背後から、懐かしい声が聞こえてきた。


リリィさんにそっくりな、俺の待っていたあの声が、波が俺にその声を届けるために作った静寂をついて聞こえてきた。


……そんなはずはない。


絶対に……


そんなはずは……

無い……


俺はそのまま微動だにせず、何も仕掛けのついていない、ただそこにあるだけの竿先を見ながら、体中の感覚を研ぎ澄ませていた。


「……けんたろー……」


はっきり声が聞こえた。


再びやって来た、一瞬の静寂が訪れる刹那に、記憶の中の彼女の声が、俺の耳へと、やって来た。


そんなはずは無いけど……


やっぱり、そうだ。


俺はゆっくり、ゆっくり、と振り返り、声が聞こえた方向を、身体を捻じ曲げて、背中の方を見つめる。

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