第32話 追憶6

 母さんは暗闇の防波堤から一緒に帰ってくれた。俺の懇願で……しかし、問題が根本から解決したわけではなく……


その日を境に、母さんはたびたび夜中に家を飛び出した。俺はその度に母さんを探しに街に出た。それは街全体を使ったかくれんぼだった。決して、見つけにくいところで隠れている様な事は無いが、その都度、探し回るので1,2時間ぐらいはあっという間に過ぎて行った。


多い時は毎日、少ない時は週に1,2回くらいで母さんは家を夜中に飛び出していった。


そんな、ある夜、俺はいつものように母さんを探して街をさまよっていた。俺はなるべくその賑やかな遠りは通らないようにしていた。人が多く歩いていて、夜中にこんな格好で、パジャマ姿で母さんを探す自分が、あまりにも惨めでやりきれなったからだ。それでも、どうしてもその夜は見つからずにその賑やかな通りを探していた。なるべく周りを見ないように、なるべく空気のようにスッと歩いて探したかった。だが、それは無理な話だ。


「おう、お兄ちゃん、捕まえたよ。ちょっと、おじさんと話しよう」


その人は俺が空気になって歩いていたはずの、俺の肩を後ろから掴んで、離さなかかった。そして、


「……悪いようには、しねぇから、ちょっと、店の中で話しようぜ、ジュースぐらい出すぞ、なあ?」


そう言うと、俺の背中に当てた手で店に誘っていった。


俺は、もう2時間以上街をさまよって疲れ果てていたのと、店の灯りが暗闇に消えた母さんを探す子供には、蛍光灯の灯りが、遠くに灯る灯台のように心強く見えた。

俺の不安な心はなにかに縋りつきたかったのだと思う。


俺は、言われるままに店へと入った。


店の中の事務所に入れられた俺は、革張りのソファに座らされ、オレンジジュースをコップに注がれてテーブルの上に置かれた。


「……なぁ、あんちゃんよ。お前、しょっちゅう夜歩いているよな? どうしたんだ?」


その男の人は俺にそう言いながら、タバコを吸っていた。


「……母ちゃん、父ちゃんは何にも言わねぇのか?」


俺は子供ながら自分が情けなくて、惨めだった。それをとてもじゃないが、他人にそんな惨めな気持ちをさらけ出す事など出来なったのだ。俺は沈黙を貫いた。


そのうちに、事務所に煌びやかなお姉さんが入ってきて、俺を見るなり、


「何この子? 店長の隠し子? アハハ」


と悪気はなかったんだと思う。俺を見て笑い出した。しかし、その男の人は、


「……そんなんじゃぁねえよ。ただ、こいつはこいつで訳アリってことだよ。こんなちっこくても大人並みに、いや、それ以上に大きなもん、しょい込んじまってるって事だよ。俺は、だから、見過ごせなかった。いいか? こいつは俺の客だ。変な冷やかしは許さねぇぞ」


そのおじさんはそう言った。俺が何も言わなくても、そのおじさんは、俺の抱えるものを感じ取ってくれていたのだ。


俺はその言葉に救われた。おじさんの言葉に救われた。

自分の惨めさを見せられなくて、誰にも言えなくて、一人、子供の俺は、いつも怯えていた。何か、とても怖い何かが、全てを奪ってしまうのではないのだろうかと。俺の母さんを奪ってしまうのではないだろうかと。


そして、俺は、その事務所のソファで、おじさんの前で、お姉さんの前で、声を上げて泣いていた。


「……そうか、泣いたらいいさ。好きなだけ、また、泣きたくなったら、助けが欲しくなったら、ここに来ればいいさ。俺はいつでもお前の話を聞いてやるよ」


そう、おじさんは俺に言ってくれた。

泣きながら、飲んだオレンジジュースはしょっぱくて、とても、美味しい物とはいえなかったけれど、俺は気が少し楽になっていた。


冷房の効いた事務所から出ると、雨の止んだ外は蒸し暑くて、もうすぐ夏が来ることを感じさせてくれた。

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