凪の始まり
樹本 茂
4月 始まり
第1話
俺は、今、太平洋が望める港の防波堤の先端にいる。
この先の沖300mにも防潮堤があり、目の前にたどり着く波は、沖の防潮堤のおかげで、太平洋の波の荒々しさを失い、穏やかな高低を伴う周期運動となって、凪いだ海面となって、目の前に広がっていた。
この港は地方の港としては大きい方で、俺のいる防波堤の先端から南を望めば、工業用の埠頭が5、6本あり、その周囲を原油のタンクやら、ガスのタンクの丸い奴やら、工場やらが立ち並び、ところどころ工場の排煙と遠く時折、工場のサイレンが聞こえてきている。
左の北側に目を移せば、一番奥に海岸平野に沿って街が発達して、海岸部には漁港があり、漁船が所狭しと複数の埠頭に横づけになって浮かんで明日の漁への準備をしている様子が遠く見えている。
すぐ手前といっても、海を挟んだ数百m先の埠頭には、ちょっと前に出来た水族館がガラス張りのこじゃれた外観で建っていて、親子連れやカップルで賑わい、その隣には海上保安庁の巡視船が停泊していた。
陽光は新しい季節の訪れを実感させてくれ、海面は反射光でキラキラと踊り、温かい南風と共に、防波堤の先端と俺の心を少なからず温めてくれている。
俺のいる防波堤は、漁船が停泊する港湾部を太平洋からの荒い波を港湾部が直接受けないように設けられていて幅が10mを超え海面までの高さは3m程で、岸からは200mくらい飛び出している。ところどころ工事中ではあるが……休みの日ともなれば、防波堤からの釣り客でにぎわう場所でもあった。
そして、俺は、昔からここで、海を見て、答えのない問題に向き合っていた。不思議とこの場所は、俺の生きてきた中で、そんな場面に居合わせた場所だった。
さすがに、防波堤の先端で、良い大人が、アラサーの男が波を見て、佇んでいたのでは、あまりにも陶酔し過ぎていて、周囲の目が気になりすぎる。そこで、いつも、釣竿を持ってきては、釣りに興じているように見せかけているのだ。こうすることで、俺はただの釣り人へと身分が明確になる。
……今、俺は、ずっと待っている。
子供の時から待っていた。待つことの多い人生だった。
いや、違うな。
待っているのは必ず戻って来ると、戻ってくるからと、ここで、この凪いだ海が見える防波堤の先端で、二人でいつも釣りをして、様々な事を語り合ったこの場所に、必ず、戻ってくるからと、あの大混乱のバスターミナルで約束してくれた彼女を待ち続けて、ここに通い続けている。
早いもので、あの日から、既に4年が過ぎていた。
あの日、お別れした彼女は、俺を救ってくれた。何度となく失いかけたものをそのたびに彼女は俺の気持ちを理解して手を差し伸べてくれた。
子供の頃、死ぬほど恋焦がれ、再会を果たすことなく消えた俺の大切な人。
その苦しい記憶は俺に幸せを望むことが如何に無駄かを教えてくれた。幸せは人それぞれだろうが俺には、家族との時間だった。それが、子供の時に、望んだ唯一の幸せだった。
俺の目の前から、手を出せないまま、逃げていく幸せ。俺は、子供の俺は、力が無くてそれを失ってしまった。
そして、それ以降、俺はそんなものなんだと生きてきた。
だが、周りの人達はそんな俺を許さなかった。それは違うんだと、幸せは望めば望んだだけやってくるものなんだと繰り返し教えてくれた。そんなふうに思えるまでに随分と時間がかかってしまっていたが……
今は思える。望めば必ず叶うと。
だから、俺は通い続ける。彼女が言った必ず戻るという言葉を信じて。
俺が何故そんなにも、失う事を信じて、得られることを信じていなかったのに、それを強く信じられる様になったか、それは4年前の事だった。
この物語は、4年前に、ずっと前にするべきことだった小学6年生の時間をやり直すところから始まる。
4年前の同じ港の防波堤の先端。
要は同じ場所だ。
今は、4月5日、快晴だが、風が強い。吹きっさらしの防波堤で佇むには、あまりにも寒い。その証拠に周囲には釣り好きのおじさんが数名と中学生くらいの女の子がいるだけだ。おじさんの孫か子供あたりだろう。
何故、俺がここにいて、永遠に寄せては返す波を見ているのかと言えば、俺は、明日から学校に通うのだ。その為の心の整理をつけるために、通いなれた、心の全てを、内側を知るこの海に挨拶に来た。
俺は、明日から小学校に通う。もちろん、教師になったわけでも、職員になったわけでもなく、児童になる。小学六年生になる。
28歳の小学六年生だ。
何故?
せかさないでくれ。
徐々に話していこう。長い話になるから。
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