第12曲 吹けよ青嵐

タイトル:「又三郎」 ヨルシカ 歌 suis 曲 n-buna 

ジャンル:J-POP

URL:【 https://www.youtube.com/watch?v=siNFnlqtd8M 】

参考:青空文庫より、宮沢賢治『風の又三郎』

【 https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/462_15405.html 】

曲構成:In-A-S/A-S-C-S-Ou


 ヨルシカさんの新作です。

 文学部のみならず、受験生や成人の方ならわかると思いますが、この「又三郎」というのは、宮沢賢治みやざわけんじ『風の又三郎』が元ネタです。

 もちろんタイトルだけでの即断は危険ですが、歌詞中に「風」だったり「どっどど どどうど」であったりという言葉が登場しているので、この場合は関連があるとみて間違いないでしょう。


 さて、ヨルシカの曲はナブナ(n-buna。以下片仮名の方が打ちやすいのでこっちで書きます)さんが作詞作曲していますが、この方の曲と出会ったのは前回のOrangestar さんとほぼ同じタイミング、すなわち中学生時代(3年頃?)でした。


 一番最初に聞いた曲は「背景はいけい、夏におぼれる」です。こちらはボカロ曲です。ナブナさんは「ヨヒラ」くらいまではボカロPとして活動していたので、その頃の曲です。 

 もしボカロ否定派でなく、かつヨルシカの曲は聞いたことあるけれど、ボカロ曲は知らなかったなあという人がいたら聞いてみてください。今の曲たちとは、個人的には、だいぶ違うように思えます。もちろん、どちらがいい悪いではなくてね。




1、ナブナさんと文学

 ナブナさんの曲は文学的要素が顕著けんちょです。

 例えば「ただ君に晴れ」には「絶えず人 いこふ夏野の 石一つ」(正岡まさおか子規しき)を典拠てんきょとする歌詞がありますし、「爆弾魔」には「散れば咲き 散れば咲きして 百日紅さるすべり」(加賀かがの千代女ちよじょ)を典拠とする歌詞があります。


 また古典調の歌詞もしばしばで、「風をむ」や「夜行」はその典型と言えます。聞けばわかります。


 海外の作品を元にしているものもあり、例えば、「始発とカフカ」はカフカの『変身』を、「ラプンツェル」はその名の通り「ラプンツェル」を「白ゆき」は「白雪姫」をモデルにしていると思えます。(「花降らし」は「赤い靴」?)

 この「又三郎」もその流れを受けているでしょう。



2、風の又三郎

 皆さん読んだことありますか? 私はありませんでしたので、青空文庫あおぞらぶんこで読んできました(上にURLがあります。そんなに長くはないです。短くもないです)が、明治~昭和の文学があまり得意でない私にはかなり難しかったので、Wikipediaも参照しました。


 ざっくり言うと、田舎(多分東北)に転校してきた高田三郎という少年とそこに住む子供たちとの短い交流と別れがえがかれていています。


 三郎は父親の転勤に伴い、北海道の学校から来たとか。外見の奇抜きばつさ(赤い髪など)や、行動の極端さ、そして標準語を使うことなどから、現地の子どもとの違いというものが結構けっこう頻繁ひんぱんに表現されています。そういう経緯もあり、登場人物の一人からは、三郎は「風の又三郎」なのではないかと疑われています。風の又三郎というのは伝説上の存在で、精霊のようなものです。

 三郎=又三郎という式が成り立つかどうかは作中では明かされません。およそ十日ほどの日常の中で、喧嘩けんかをしたり川で遊んだりというような、三郎と子どもたちの交流が描かれるものの、後半はやや険悪な雰囲気が降り、結局、風の強く吹いた日に三郎は学校から去ってしまいます。

 なお、東北地方には「風の三郎様」として風の神に祭礼を行う風習があるらしいです。


3、『風の又三郎』と「又三郎」

 では、そんな原作と歌詞がどうリンクするのか、見ていきましょう。


 まず、原作の書き出し「どっどどどどうど」の部分は、コーラスとして登場します。また、最後のサビ前にある「青い胡桃くるみも吹き飛ばせ 酸っぱいかりんも吹き飛ばせ」も原作の書き出しの部分に登場します。


 楽曲「又三郎」において「風」は退屈を打ち消すもの、鬱屈うっくすした気分を飛ばすものとして描かれます。とりわけ二番のAメロの次の歌詞は注目されますね。


  風を待っていたんだ 型に合った社会は随分窮屈すぎるから


 閉塞へいそく感を打ち破るものとして風を、その風を操る存在として「又三郎」を存在させているのがこの曲の特徴です。


 では、原作はどうか。



 ここから先はただでさえエヴィデンスがあるわけでもないところに、さらに推測が増していきます。裏事情もあるかもしれませんし、専門家の先生の論文などを参考にしているわけではないので、その点を留意りゅういください。

 



 原作の方も、ある意味では閉塞感(田舎)に対する新風としての三郎(都会)という二者で捉えることができます。それは田舎に暮らす子供たちと三郎の色々な差異からも読み取れるかもしません。

 ただ、その読み方は完璧なものではないと思います。結論として、別に田舎の生活を批判あるいは称賛しているわけでもないし、都会に対しても同様です。


 また、都会からの新風として三郎を登場させているなら、田舎の風習に基づいた「風の又三郎」に三郎がされているのにも違和感を覚えます(ある意味そういう名づけを与えることで、本来新風となり得た三郎からその役割を奪った、とも取れますが……)。

 曲の「又三郎」が閉塞感を破る曲とされているのとは違い、小説中での「三郎」は、少なくとも閉塞感を破ろうとはしていません。ただ、村の少年たちからすれば、都会から来た「三郎」は、村の秩序とは違うものを持つ「新しい」存在として捉えられたのは否定できないでしょう。また、「三郎」からしても田舎の人々はむものではないにしろ、頑固な秩序を持った「閉塞感を持つ」存在として捉えられたかもしれません。


 一方、物語の最後の方では、誰かが三郎をはやしたて、それに皆が同調したというところからは、他者を疎外するような雰囲気も伝わってきます。

 ここはむしろ、、そういう図式も見えます。曲の「又三郎」では、それすら吹き飛ばすのが「又三郎の風」だったわけですが、原作では、究極的にはむしろ、閉塞感の方が勝ったような、そんなようにも見えます。

 「三郎」が残したものが、田舎の登場人物に何かを残したなら、必ずしもそうとは言えないですが、その有無はわからないままです。

 

 いずれにしろ、楽曲の「又三郎」は、原作の『風の又三郎』をなぞったものというより、それとは逆の存在として捉えられそうだと、私は思います。

 それは、例えば先行する楽曲である「白ゆき」や「ラプンツェル」が、原作をただなぞった曲ではないように。

 




 

 今回は参考文献と確証のないレポートみたいになってしまいましたね。日本文学専攻のさがでしょうか。

 難しいことを考えないで聞くと、私個人としてはナブナ夏期の「無人駅」の曲調に近いものがあるかなあともいました。ヨルシカファンの皆様がどう思うかはとても気になるところではあります。


 さて、次回もまた別の曲を持ってきますので、お楽しみを。以上、蓬葉でした。

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