麻吹つばさのハート

 出口の見えない地獄の底でもだえ苦しむ日々を過ごしました。とっくの昔に日付の感覚はなくなっています。そんな時に星野先生に家に再び招かれました。麻吹先生は、


「わかったか伊吹。ここではこれぐらいは当たり前だ。その当たり前を尾崎はお前に求め、お前は応えられなかった」


 それを痛感しています。


「本当の弟子ならアシスタントをクリアするまで続くが、伊吹には時間が無い。尾崎の欲しかった集中力が付いたことでヨシとしよう」


 では今から何を、


「そんなもの尾崎が伊吹に撮らせたかったツバサ杯に決まってるだろう。明日は六階の七号室に行け」


 ツバサ杯・・・なにか遠い世界の話の気がします。それを目指してミサトさんに指導してもらい、あの事件が起こり、なぜかボクはオフィス加納にいます。それにしても六階とはどういう事だろう。わかるのはツバサ杯の写真の指導は麻吹先生でも、星野先生でもないようです。


「あったり前だろう。審査する側が指導したら八百長だ。都合の良いことにバイトが来てるから、そいつに指導を頼んでおいた」


 バイト? このオフィス加納にバイトのフォトグラファーが来てると言うのでしょうか。でも六階と言えば先生方の個室があるところ。そこにおられるということは、オフィス加納のプロに匹敵することになります。


「入ります」


 デスクの向こうに若い女性が背中を向けて座っています。ただオフィス加納の女性プロは油断なりません。麻吹先生もそうですが、新田先生もその若さに唖然とさせられました。聞くところによると育休中の泉先生もそうだとされます。


「麻吹先生から、こちらでツバサ杯のための指導をお願いするように言われております。どうか宜しくお願いします。申し遅れましたが体験生の・・・」


 そこまで言った時にクルッと椅子を回されて、


「名前はイイよ」


 み、ミサトさん!


「バイトってミサトさんが」

「そういうこと。今日もまだ仕事が残っているから、撮って来て。仕事が終わったら見るよ」


 昼間にあちこちで写真を撮りまくり持って行くと、延々とチェックして、


「さすがは星野先生。この集中力が欲しかった。これをもっと早く身に着けて欲しかった。随分マシになってるよ。これでやっと次の段階に進める」


 やっぱりミサトさんは、これが欲しかったんだ。


「お疲れさん。もうイイよ。ここまで撮れたらツバサ杯の入賞は確実だよ。グランプリだって夢じゃない。もうミサトにやれることは残ってないよ」


 もうイイってどういうこと。ミサトさんは椅子に深々と座り直して、


「麻吹先生のムチャ振りはいつもの事だけど、いきなりだよ。


『尾崎、サトルに鍛えさせておいたからチェックしておけ』


 まったく名前ぐらい言えよな。でも、まあイイよ。伊吹君への指導が中途半端になっていたのは気になってたからスッキリした」


 またミサトさんにはこだわりが、


「こだわりなんてないよ。やらかしちゃっただけ。ミサトなんてしょせんはあの程度の人間だよ。高慢ちきで、偉そうで、人をイジメて回る冷血女さ。伊吹君も良くわかったでしょ。バレないように頑張ったけど、化けの皮が剥がれただけ。もう家に帰ってイイよ。麻吹先生と星野先生にはミサトから言っておく」


 どうしてそこまで。でもこれはボクに与えられた最後のチャンスのはず。


「ミサトさんはそんな人ではありません。加茂先輩も、ケイコ先輩も、ヒサヨ先輩も待っています。三井先輩もです。ナオミさんだって・・・」

「イイよ、無理しなくても。今日は嫌な思いをさせてゴメン。心配しなくとも、もう会わないよ」


 どうしてそんなに頑なのですか。でも、ここで、はいそうですかと帰れるもんですか。なんとかしてミサトさんを連れて帰らないとなりません。


「藤堂さんに会いました」

「えっ、副部長・・・」


 ミサトさんの顔にかすかな動揺が、


「ボクは頼まれました。ミサトさんを救って欲しいって」

「副部長は人情家だからね」


 そうだあの時間を思い出してもらうのだ。


「南さんも一緒でした」

「アキコ・・・」


 明らかに動揺しているのがわかります。


「伊吹君、帰ってお願い。この部屋から出て行って」

「南さんも悔やまれていました」

「出て行きなさいと言うのが聞こえないの!」


 この糸をなんとか手繰らないと、


「どうしてミサトさんは仲間を見捨てるのです。見捨てられた仲間がどれだけ辛い思いをしているかわからないのですか」

「ああ、わからないよ。裏切られる経験をしていない甘ちゃんにわかるはずないよ。仲間なんてね、すぐに見捨てられるんだ。どんなに辛い状態になっても振り向きもしないどころか、イソイソとイジメに回るんだよ」


 やはりミサトさんも三井先輩と同じだ。ここでミサトさんは見たこともないような怖ろしい顔になり、


「ミサトに友だちなんていないよ。そうよ、誰も信じてないし、全部赤の他人。それじゃ、暮らしにくいから愛想の良い顔をしてるだけ。だからもう顔も見たくない。伊吹君が出て行かないならミサトが出て行く」


 あっと思う間もなく部屋から出て行ってしまいました。茫然と立ち尽くすしかありません。どれだけ時間が経ったかわかりませんが、ふと気が付くと麻吹先生が、


「尾崎も頑固だな。あれだけ寂しがり屋なのに、人に頼るのはトコトン嫌がるからな。わたしやマドカでさえそうだ。それとお前も情けないぞ。どうして抱き止めなかった。尾崎は待ってたぞ」


 そんなこと言われても、ミサトさんとはそんな関係じゃないし、


「そんな関係になりたいのだろう。違うのか」


 そりゃ、まあ、そうですけど、今はそれ以前の状態でしょう。


「お前の写真と同じだ。体裁にこだわり過ぎて踏み込みが足りん。尾崎はそこまでお前に教えたかったのだ。この写真を何がなんでものにしようとするガムシャラさだ。その一枚が欲しいのなら、見栄もヘッタクレもない」


 麻吹先生が仰る一枚とはミサトさん。


「他に何がある。尾崎は踏み込んで欲しかった、踏み込んで欲しかったから踏み込ませまでした。それなのに腰を退いて逃げたのはお前だ。それも二度もだ、実に情けない男だ」


 ぐさっ、言い返せない。まさにその通りかもしれない。


「だがな伊吹、人生は写真とは違う。シャッター・チャンスなら一度きりだが、人生はそうでない。捨てられ、離れても結ばれる時は結ばれる。そのためには必ず結ばれてやるという強い心が必要だ。お前にはあるだろう」

「はい、あります」


 麻吹先生は莞爾と笑って、


「イイ返事だ。それが聞きたかった。その心構えが出来ただけでも今日は収穫だった。もう家に帰れ、そしてツバサ杯を戦って来い」

「でもそれじゃ」

「尾崎はお前にそれを望んでいた。その望みを叶えてみろ。道はそこから開く」


 これが麻吹つばさ先生。若くしてブレークし一気に世界頂点に登りつめ、未だにその座を譲る気配さえないとされる写真界の巨人。弟子の育成にも優れ、泉茜先生、新田まどか先生は麻吹先生と世界頂点を競えるとまで言われる巨匠。


 それだけじゃなく、卓越したリーダーシップもあります。写真家なんて唯我独尊のお山の大将みたいなものですか、オフィス加納にこれだけのプロが集まり、支障なく運営されてるのは驚異とまでされています。


 その秘密を目の前に見せられた気がします。それは純粋に燃え上がる熱い魂です。麻吹先生の熱いハートがすべての人を惹きつけてやまないのです。その熱いハートの前ではミサトさんの頑な心さえ溶かしている気がします。里村先生もこう仰ってました。


『オレはオフィスから逃げてもた人間や。決勝大会の時に摩耶学園の監督がツバサ先生だとわかって慌てたよ・・・』


 里村先生は合わせる顔がないと思い、それ以前に麻吹先生に無視されるに違いないと考えていたそうです。


『緊急監督ミーティングが終わった時に一直線に来られたんだ・・・』


 麻吹先生はなにも言わずに里村先生を抱きしめたのです。そして、


『逃げた事なんて一言もなかった。オレが元気でいたことをひたすら喜んでな・・・』


 麻吹先生は里村先生が良いチームを育て上げたことを褒め、全力で戦うことを約束して去って行ったのです。


『たまにはオフィスに来て顔を見せろとまで言ってくれたよ。弟子から逃げ出したこのオレにだぞ。ツバサ先生こそオレの永遠の師匠だ。弟子でなくとも人生の師匠だ。あんな偉大な師匠が他にいるものか』


 その理由がすべてわかった気がしています。


「ボクも先生の弟子になれるでしょうか」

「しつこい奴だな。お前はサトルの孫弟子だ。今だって教え子だ。オフィスに本当に来る気があるなら門を叩いてみろ。門は常に開かれている」

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