チサトの話

 ボクは伊吹明。大学は一浪こそ覚悟していましたが二浪目は辛かった。原因もはっきりしていてボクの努力不足しかないのですか、どこかで、


『なんとかなる』


 この甘い期待を粉々に砕かれた感じです。とにかく浪人生は辛い、楽しかったと言う人もいますがボクは辛かった。そりゃ、三年続きで高三の勉強やっているようなものですから、なんか足踏みを延々とやってる感じでした。


 夏に入る頃にはすっかりウンザリ気分になっていたのです。そう、あれは八月のある日でした。予備校も早めにふけて、ぶらぶら歩いていたら里村先生とバッタリ出会ってしまったのです。気恥ずかしくて逃げようとするボクを、ふん捕まえるようにしてファミレスに。


 最初は虚勢を張っていましたが、途中からグチになってしまいました。里村先生はニコニコと話を聞いていましたが、


「ところで二年前の決勝大会を覚えてるか」


 たった二年前ですが大昔の話の気がしました。あの大会は絶対の自信を持って臨みましたし、一〇〇%の力を出し切ったと思います。それでもまだ及ばなかったのが摩耶学園。


「ほら見てみ」


 里村先生が見せてくれた記事には、ハワイで行われた学生世界一決定戦が書いてありました。そこで麻吹先生のチームは世界三大メソドに圧勝しているじゃありませんか。


「ほら、あのチームだよ」


 野川学、小林エミ、尾崎美里・・・あの三人がまたチームを組んでいたのです。あの決勝大会の事がドンドン思い出されます。ただ写真の事だけを考えた三日間を。


「ウソつけ、あの時に勝てんかったんは伊吹に邪念があったからちゃうか」

「あれは邪念ではありません」


 バレてたか。摩耶学園はチームとしても強豪でしたが、小林さんと尾崎さんは、他チームの男子選手から注目の的でした。それぐらい美しく、素敵で、魅力的でした。小林さん派と尾崎さん派がありましたが、ボクは尾崎さん派でした。


 他人の事は言えませんが、閉会式の翌日の国際写真フェスティバルは勝負と考えていました。決勝大会の緊張が解け、解放感に浸っているはずだからです。ボクたちをまずガッカリさせたのが小林さん。キャプテンの野川君といきなりのラブラブ。


 なんだ、そういう関係だったのだと思ってたら、ロイド・チームのジェームスの野郎が尾崎さんに積極アタックしてるじゃありませんか。そしたら二人がお手てつないで・・・優勝できなかったのも悔しかったですが、アメリカ野郎に尾崎さんをさらわれた方がもっと悔しかったかも。


「あれは伊吹が、もたもたしてたから悪い」

「あのアメリカ野郎の手が早すぎたのです・・・というか、教師が異性交遊を進めたらダメでしょうが」

「不純じゃなければ問題ない」


 あれからもう二年なのです。


「尾崎美里君は西宮学院に進学してる。追っかけてみい」

「今さらですか」

「この時期になかなか二年も続かへんぞ。ましてや遠距離過ぎる恋愛だぞ」


 高校の時にもカップルはいましたが、なかなか長続きしないぐらいは知っています。


「女を追っかけるために勉強するのですか」

「おおそうや。これ以上の目標はないで」


 里村先生はそれだけ言って去っていきました。その日からボクは猛然と勉強に励んだのです。西宮学院に合格すれば尾崎さんにもう一度会えるはずだと。なんとか合格し、尾崎さんがいるフォト・サークル北斗星に入会も出来ました。



 尾崎さんには新歓コンパの時にやっと再会できましたが、二年前よりずっと素敵で綺麗、そんなものじゃ言い足りません。この世に妖精が存在していたら尾崎さんじゃないかと思ったぐらいです。


 一番気になっていた、国際写真フェスティバルのあのアメリカ野郎。遠距離恋愛過ぎて自然消滅してくれていたのです。これを聞いた時に内心ですが、飛び上がるようにガッツポーズをしました。


 そこからツバサ杯への準備を進める中でミサトさんと呼ばせてもらえるようになったのはムチャクチャ嬉しかったものです。こうやって距離を詰めて行ってと思っていた矢先に起ったのがあの事件。


 ボクも何が起ったのかわかりませんでしたし、先輩たちもうろたえていました。どうしてあれだけの事でサークルに来なくなってしまったのだって。



 サークル北斗星の活動拠点は喫茶北斗星。活動日以外でも、行けば会員が必ず誰かいるって感じです。とくに加茂先輩とケイコ先輩は高確率でいるのですが、その日はなぜか三井先輩だけ。


 三井先輩は物静か。元はマンガ研究会にいたぐらいで写真よりイラストが得意みたいで、写真はイラストの参考にするために学んだってお話です。ですから、テーブルの隅っこで静かにイラストばかりを描かれています。


 十一人しかいないサークルですが、三井先輩は話し合いの時にもほとんど発言しませんし、活動日にも写真じゃなくイラストばかり描かれてて実質的に参加されません。写真サークルに居ると言うより、マンガやイラストの研究会にいるって感じです。だから入会してからもあまり話したことはありません。


「三井先輩、加茂先輩とかは」

「就活」


 四年生ですから、他にも卒論とかの準備とかもあるようです。なんとなくその日は帰りたくない気分だったのと、この機会ですから三井先輩と少し話をしたくなり。


「こちらに座らせてもらってよろしいか」


 話してみると、かなり話がしにくい人なのはすぐにわかりました。とにかく話に乗って来ないのです。ブチって感じで話を終わらせてしまいます。だって話している時もイラストを描かれていて、殆ど顔も上げてくれないのです。これは迷惑がられると思い退散しようとしたのですが、その時にボソッと、


「誰も尾崎さんのことをわかってないね」

「どういうことですか」


 三井先輩が打てば響くような会話をしない事だけは学びましたから待ってると。またボソッと、


「尾崎さんは怖がっていた。誰かに嫌われるのを一番怖がっていた。嫌われまいとして伊吹君の指導を引き受けたのに、結果としてみんなに嫌われたと信じ込んでいる」


 誰もそんなことを思いもしていないし、考えもしていないって言ったら、


「チサトにはわかる。尾崎さんは間違いなくイジメの経験者よ。あの反応はそういうトラウマを持つ人間ならわかる」


 どういう事かと聞いたのですか、


「わかんないかな。本当に嫌われてるかどうかを確かめるより、さっさと身を退くんだよ。そうしたらそれ以上、傷つかずに済むでしょ」


 するすると話が進んだように思うかもしれませんが、三井先輩の返事はイラストを描く合間にポツリ、ポツリですから、ここまで聞き出すのも一苦労です。


 それにしても変じゃないですか。ボクたちは仲間であり、友だちのはずです。ミサトさんはもう二年目だし、去年のツバサ杯の活躍はサークル北斗星だけでなく、すべての写真サークルから感謝されています。


 そりゃ、あの時のミサトさんの指導の厳しさにボクもちょっと不満を抱いていたのは白状しますし、あそこまでになったら、あれぐらいの口出しというか助け舟があってもおかしくないじゃないですか。


「尾崎さんはチサトたちを本当の仲間とも、ましてや友だちと思っていない」

「そんなぁ」

「まだわからない。尾崎さんはナオミにしかミサトと呼ばせていない。チサトや、ケイコ先輩でさえ尾崎さんなのよ」


 いわれてみれば、女子部員同士はすべて下の名前で呼び合ってるけど、それだけでは、


「ちょっと難しいか。尾崎さんは呼ばせてないのではなくて、呼んでもらうのを待ってたのだよ」


 女同士の話だし、その辺の事情は分かりにくいところです。


「では三井先輩はミサトさんがこのサークルで疎外感を感じていたとか」


 三井先輩は寂しく笑って、


「伊吹君は幸せな人生を送れてて羨ましいわ。あれは疎外感じゃない、ああいう距離の取り方が日常なの。尾崎さんはもうちょっと踏み込みたくてしかたがないのだろうけど、自分からは決して出来ないの。チサトにはわかる」


 なら三井先輩も、もしかして、


「チサトのこと? チサトにはケイコ先輩がいる。ああなりかけたチサトを救ってくれた。そして尾崎さんには伊吹君が現れた。だからトドメになったと思う」


 ボクがトドメだなんて・・・冗談じゃない。


「チサトみたいなタイプの人間は、自分の垣根の中に入るのを許した人間に絶対の信頼を置くものなのよ。もしその人に裏切られたら辛いのよ。チサトもケイコ先輩に裏切られたら、二度とここには来ない」


 ちょっと待って下さいよ。ボクが入ってまだ日も浅いし、やってもらった事は写真の指導だけじゃ、


「そうよ。尾崎さんは去年もチサトたちに指導をやってくれた。でも今年の伊吹君への指導とは量も質も全く違う。あれは尾崎さんの全力の指導よ。あなたに嫌われるはずがないと思っていたからのもの。だからミサトと呼ぶのを許した、いや呼んでくれるように頼んだのよ」


 あの時、ミサトさんはまず先輩たちの表情を見回した。そして最後にボクの顔を見て、ガックリ肩を落とした感じがあったけど、


「あの時に尾崎さんは伊吹君に引き留めてくれるのを待ってたわ」

「それは平田先輩や、大石先輩も・・・」

「まだわからないの。尾崎さんには見えもしていなかったし、聞こえもしてなかった。待ってたのは伊吹君、君の声よ。だからトドメ」


 本当だろうか。ミサトさんがボクの声を待ってたなんて。


「他人の心なんて誰にも見えない。君が見えないのを誰も責めない。チサトが見えた尾崎さんの心を、君が信じるかどうかも勝手だよ」


 あの日に尾崎さんが喫茶北斗星のドアを出る時に一瞬だけ振り返ったのも、


「あの目は君の姿を追いかけてた。そして確認した瞬間にドアを閉めた」


 あの日の三井先輩も隅っこでイラストを描かれてた。三井先輩もまた、このサークルでは、


「だからケイコ先輩に救われたって。ヒサヨ先輩にも、平田君にも、尾崎さんにも、ナオミにもチサトって呼んでもらってる。だからチサトはこのサークルが大事だし、守りたい」


 ようやくイラストが描きあがった三井先輩は、


「この世の事の多くは取り返せることが出来るはずよ。でも、ただ待っていても取り返すことは出来ない。とくに尾崎さんのケースではよほど頑張らないと難しいわ」


 でも本当にミサトさんがボクの事をそこまで、


「チサトの言葉を信じないならそれも良いわ。そういうのに慣れてるから気にしないよ」

「そういう意味じゃありません」


 三井先輩は新しい紙を取り出して次のイラストに取りかかりながら、


「伊吹君にこのサークルを守って欲しいから、ここまで話した。後はあなた次第」


 次のイラストは群像、それもサークル北斗星の群像では。


「チサトは必ず戻ると信じてる」

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