十一 殻を割る空

「はい」

 いや、ハイじゃねーんだよな。

 大きな円形の孔の前で、アニヤが俺の方に手を差し出している。繰り返すが、五階だ。

 この世界の常識がまだ通用するのなら、すべてがマジで電波話で、数秒後には全員墜落死する可能性がもっとも高い。本当にダルい。アニヤも死ぬのか。

 どうしたものだか分からない。この手を取って宙に踏み出せばすぐさま一緒に死ぬのかもしれない。アニヤは死なせたくない。それなのに俺は、その手を取った。

 こうしてやはり、俺がアニヤを殺すのだろうか?

「心配ありません。私はハスムラを持って飛べますよ」

「……そう」

「本当ですってば」

 手を引かれた。思いのほか強い。俺は思わず体勢を崩し、次の瞬間には空中に。

 死かな。

 そう思ったが、何秒経ってもアニヤが俺の片手を両手でしっかり握っていて、俺は重力を感じていない。感じる加速度は鉛直方向のそれではなく、アニヤが背負う空の方向。

「ほら、大丈夫でしょう?」

 さっきまで泣いていたアニヤがなぜか楽しそうだ。怪訝そうな顔をしたのが分かったのか、アニヤは言葉を継いだ。

「見習いの神子に教える時も、よくこうやって一緒に飛ぶんです。でもハスムラは自分で飛べるようになりますよ」

「適当な、」

「翼の魔法を魂に持ってるかどうかは、一緒に空に出るとすぐ分かります。それがどのくらい強いかも。ハスムラ、あなたの魂は飛べます。まず空を見渡すことに慣れて」

 アニヤの向こうをロドが飛んでいる。流れ星の散らばる空に向かって。俺はアニヤの手を握ったまま、周囲を見回した。

 遠くなっていく地上の街。顔と身体にぶつかる風。太陽と、逆光のアニヤ。ああ、こいつは本当に太陽の神子かもしれない。明るい空がこんなに似合う。

 風の都合でなのか、アニヤは不意に身体を寄せた。俺の腕に寄り添うようにして、あの変わった色の瞳をいっぱいに開いて笑っている。

「私、日の光の中を飛ぶのは本当に久し振りです」

「日焼けするだろ、お前、色白なのに」

! 懐かしい」

 嬉しそうに、子供みたいに、俺のフードつきジャンパーを着たままアニヤは、笑顔で空を突き進む。

 不思議と恐怖がない。時々すれ違うからすも見掛けなくなった頃、ロドがふいと近くに来ているのに気付いた。

「そろそろ上空に馴染んできたんじゃないかな?  どうやって?」

 何だ、と俺が視線を向けると、ロドはいたずらっぽく笑ってウィンクまでしてきた。うぜえ。

「翼の魔法を初めて使わせるには、たいがい補助魔法をつけてやるんだ」

「え。おい」

「ハスムラ、怒らないって約束して」

 アニヤが片方の手で俺の手を握ったまま、もう片方の手で首に触れてきた。引き寄せるように。

「……今回は、何度も練習する時間がないからです。それだけですからね」

 訳の分からないことを言いながら、すぐ近くでみかん色の瞳が閉じて、いや待てよ、デコがぶつか、……らない。

 唇が触れていた。

 神社で初めて会ってからというもの、この女は何もかもが俺の想定外だ。油断も隙もない。あらゆる意味で急。

 やがて柔らかい、温かい、しっとりした唇を離してアニヤは、

 俺を空中に突き放した。

 今度こそ死かもしれない、と思った。

 そういえば、俺が銀の天輪ギゼットとかいうやつなのに双天世界ヒュペイトの記憶が一切ない理由まだ聞いてなくね?

 こっちを見ているロドのジジイのめちゃくちゃいい笑顔が心底ムカつく。

 そして朝の空に真っ白な満月を見た、……ような気がした。



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