なんだかよく分からないイキモノ
赤を喰らうもの
森の中にてタコの足を見ることになるなんて、誰が予想できただろう。
最近やっと少数について理解できたような年の娘も、もちろん予想できていなかった。
学校が終わり、友達の家で遊んでいると、あまりにも楽しかったものだから、彼女が自身の胃袋からの訴えに気が付いた時、外はもう真っ暗だった。
急いで帰らないと、親が心配して、手当たり次第に友達の家に電話をかけるだろう。そうすると翌日は、クラスで皆に笑われる羽目になるのだ。彼女は挨拶もそこそこに友達の家を飛び出した。
友達の家から、自分の家までの距離は、直線的に進むとそう遠くはない。しかし両家の間には森が広がっているので、帰るためには森を迂回した歩道を歩く必要がある。そのせいで余計時間がかかるのだ。
娘は森を突っ切ることにした。
クマが出た、とかいった話は聞いたことがない。だからきっと大丈夫だ。まっすぐ行くだけ。迷うこともないはず。
落ち葉を踏みしめ、虫たちの好む樹液の香りの充満した空気を吸いながら娘が森の中を進んでいると、突然彼女は転んだ。
何か柔らかいものを踏んだ気がする。足元を見ると、白けた細長い何かがチラと見えた。
睡眠中のヘビでも踏んだかと思い、娘は飛び起きて走った。
走りながら、祖母に言い聞かされた話を思い出した。
――「いいかい、家の近くの森の中では絶対にケガしてはいけないよ」
「どうして?」
「血を流してはいけないからよ。血はダメ。赤い服も着てはいけません。この森のリンゴの木に、実が生ってもすぐになくなるのを覚えているでしょう? あの森で、赤色は危険なのよ」
「でもおばあちゃん、そしたら私って……」
意識を回想から奪うように、何かが突進してくる衝撃が走った。
成すすべもなく倒れこんだ娘の目の前で、オオカミのような口が開かれた。
祖母の言葉をしっかりと思い出す。
――「あなたは赤毛だから、絶対入っちゃだめよ」
長い赤毛がバッサリと短くなった。
目の前で、自分の赤毛を咀嚼する生き物を、娘は呆然と見ていた。上半身はオオカミに見える。青銀の毛並みのオオカミ。
しかしその下半身は、色こそ白いものの、タコそのものだった。
オオカミがのどを鳴らして赤毛を飲み込むと、じわじわと下半身に赤味がさしていった。薄紅色から、やがて燃えるような赤色に。
「赤色が好きなの?」
娘の声にオオカミは振り返った。
「この森では、山火事はすぐに鎮火するっていうけど、あなたがいるから? 赤を食べるの?」
オオカミは何も答えない。ただ、琥珀色の瞳で、ジッと娘を見ているだけだった。
「おばあちゃんが、この森に入っちゃダメって言うのは、あなたがいるからなのね。でも、こんなに大きいのに、目立つのに、誰もあなたの詳しい話をしてくれなかったわ。人には滅多に会わないの?」
グゥルルとオオカミは小さく唸った。それが質問に対する返事なのか、とっとと失せろ、と告げる声なのか、娘には分からなかった。
「お腹が空いていたんでしょう? 私の髪の毛なんか食べちゃうくらいには! 何か食べる? 私、飴とかなら持ってるのよ」
娘が、肩からかけていた小さなカバンをひっくり返すと、飴玉が6つ、チョコレートが一欠片、お昼休みに学校で友達と交換したキャラメルが1つ出てきた。
1つ1つがよく見えるように並べて、娘はオオカミを手招きした。
ノソリと起き上がり、オオカミが近づく。下半身のタコの足が、ペトペトと音を立てる。
「ぶどう、りんご、イチゴ、オレンジ……このチョコ美味しいよ」
どう? と、銀色に包まれたチョコを差し出すが、オオカミは目もくれず、キャンディの置かれたところに顔を埋めた。
その大きな口で、目当ての小さなキャンディが選べるだろうかと、娘は興味深そうに見ていた。
オオカミが口をモゴモゴさせながら、顔を上げたので、娘は地面を見た。
りんご味とイチゴ味が無くなっていた。
「やっぱり赤が好きな――」
娘が最後まで言い切る前に、オオカミはペッと何かを吐き出した。不機嫌そうに睨みつけたそれを見ると、包みから出された、薄黄色の飴玉が転がっていた。
リンゴ味の飴玉だった。
「……中身も赤くないとダメなんだ。けっこう偏食家なのね」
そっと首元に手を伸ばしてみると、意外にもオオカミは嫌がらずに、スッと頭を下げた。気持ちよさそうに目を細めている。不思議だった。どうして怖いと思わないのだろう。自分はさっき襲われて、2年も伸ばしていた髪を食べられたのに。
このままずっと撫でているのも、きっと楽しいだろうと娘は思ったが、急いで帰らないといけないのを思い出した。幸いにも、道に迷ったりはしていないので、このまま先を進むだけでよい。
娘は立ち上がった。
「そろそろ帰らないと、もっと心配かけちゃうわ。今度来るときはリンゴやトマトを持ってきてあげる」
ワォンと低くオオカミは吠えた。
そういえば、このオオカミが何と呼ばれているのか、全く知らないことに娘は気がついた。
「帰ったらおばあちゃんにあなたの名前でも聞いてみようかな。知ってると思う?」
オオカミは首を横に振った。人間のような動作に娘は笑う。
「じゃあ、来た時には、オオカミさんって呼ぶからね。ちゃんと出てきてね」
普段友達にするように、つい癖で小指を差し出すと、最初よりもずっと赤味の増した下半身のタコ足が1本伸びてきて、彼女の小さな手を包んだ。
「タコさん、って呼んだほうが良かったかな? とにかく、約束ね」
吸盤がきゅぽんと音を立てて離れる。そして、オオカミは背を向けて森の奥へと向かっていく。
「帰るの?」
自分から言ったにも関わらず、なんだか名残惜しくて娘はそう聞いた。急に、ここでこのイキモノと別れることが残念に思えた。
もっと遊びたかった。その立派な毛並みを撫でて、次にその八本の足と一緒に躍ったらどんなに楽しいだろうと思った。
足を動かす気になれず、娘はその場に立ち尽くしていた。髪が短くなった首元から、風がスースーと流れ込む。
オオカミは途中で立ち止まり、そんな彼女に対して呆れたように、早く帰るよう促すかのように短く鳴いて、今度こそ姿を消した。
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