3センチ目「名前を入力してください」

 俺は謎の少女を連れて、ひとまず大学へと向かうことにした。


 当初の方針を変えたわけではない。警察に連れて行った方がいいというのは間違いないだろう。


 もっとも目下の問題は、この少女の正体について俺が全く知らないということだった。もし少女との関係や経緯について根掘り葉掘り尋ねられたら、うまく説明しきれる自信がない。


 だから、まずはこの少女と根気強く対話して、必要最低限の情報を聞き出す必要がある。俺はそう考えたのだった。


 その細身に似合わず食パンを三枚も平らげた少女は、口の端に食べ残しをつけながら俺を笑顔で見返した。何かにつけてよく笑う少女だと俺は思った。


「あのさ、とりあえず名前、聞いてもいいかな?」


「名前? 名前……?」


「おいおい、まさかないのか、名前」


「うーん……?」


 少女はあごに人差し指を当てながらぐるぐると思い悩んでいるようだった。想定外のことだったが、呼び名がないことには呼びづらくてしょうがない。


「じゃあさ、俺が呼び方を決めてもいいかな?」


 少女はその一言を聞くと、目を輝かせながら立ち上がった。


「クウが決めてくれるの!? わーい! なっまえ♪ なっまえ♪ わったしのなっまえ♪」


 少女は小躍りして喜んでいる。そこまで喜ばれると、ハードルが上がってやりづらいのだが、嫌な顔をされるよりはいいだろう。


 とはいえ、いきなり名前をつけるというのは結構難しい話だ。しかも、相手は子供とはいえ大の人間だ。ペットの名前を決めるのとは訳が違う。


 しかし、悩んでいても仕方がない。俺は少女の見た目から直感的に決めてしまうことにした。


 白い髪に青い瞳、きめ細やかで色白の肌。日本人離れしたその容姿は、透明感という言葉を具現化したかのようだ。


「クリア」


「くりあ?」


「お前のこと、これからクリアって呼ぶよ」


 少女はしばしほうけていたが、やがてにこりと笑った。


「わたしの名前、クリア!」


「そうだよ、クリア。どうかな?」


「この名前、好き! クウも好き!」


 クリアに抱きつかれて、俺はどぎまぎしながら頬をかいた。


「気に入ってくれたならよかったよ。うん。それじゃ、とりあえず離れようか」


 俺はクリアを優しく引きはがすと、椅子から立ち上がって、わきに置いてあるリュックを背負った。


「これから大学ってところに行くから、大人しくついてくるんだぞ」


「うん! わたし、大人しくしてる!」


 クリアは俺の手をぎゅっと握った。少し恥ずかしい気もするが、うろうろされるよりはよほどいい。甘んじて受け入れることにした。


 いまはまだ朝の六時半だ。この時間帯なら、通勤ラッシュと被らずに移動できる。あまり人目につきたくない俺たちにとっては、その方が好都合だった。


「よし、じゃあ行こうか」


「うん」


 そう言って玄関を出ようとした俺は、肝心なことに気がついた。


「あっ、そうか……めんどくさいな」


「どうしたの?」


「クリア、お前の靴は?」


「くつ、ってなに?」


「そう言うと思ったよ」


 俺は仕方なく、靴棚から自分のサンダルを取り出して、クリアに履かせることにした。少しブカブカだが、何も履かないよりはいいだろう。


「後で合うやつを買ってあげるから、それまではこれで我慢してくれ」


「うん、分かった」


 クリアは自分が履いたサンダルを不思議そうに見下ろして、足踏みしている。それはまるで生まれて初めて靴を履いたかのような行動に見えた。


 だが、今さら驚くような俺ではない。この世間知らずの度が過ぎた少女には、どんなことが起きてもおかしくないという気持ちだった。


「今度こそ行くぞ」


「うん」


 クリアの手を引いて、俺は自宅を出た。幸いなことに、付近の住人は誰も出歩いていないようだ。その隙に、俺はそそくさと家を発った。


 大学へ向かうには、短い距離だが電車に乗る必要がある。最寄り駅に着くと、俺は定期券を使って改札を通過した。


「すみません、ちょっといいですか?」


 背後を振り向くと、そこには駅員が立っていた。何かやらかしてしまっただろうか。


「はい、なんでしょう」


「その子、中学生ですよね?」


「それがですね、分からないっていうか……」


「はぁ?」


 駅員に怪訝けげんな視線を送られたクリアは、自分自身を指差してきょとんとしている。おそらく、彼女の頭の中にはハテナマークがたくさん浮かんでいることだろう。


「小学生以上は無賃乗車になりますので、きちんと払ってから乗ってください」


「分かりました……」


 俺は観念して、窓口でクリアのきっぷ代を払うことにした。定期券だけで通れるかなと軽く思っていたが、世の中そう甘くはないようだ。


「次からは気をつけてくださいね」


 駅員は疑うような目線を向けながら、俺たちを見送ってくれた。朝から事件続きで、俺の心はいまにも折れそうだった。

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