35話 初めてのキス

 日が暮れるまで、俺たちはずっと一緒にいた。

 書店に行って、五十鈴がほしい本を買うのにつきあったり、百貨店に寄ってみたり。


 体力がない五十鈴なので、疲れたら車で休んだ。

 俺と五十鈴は並んで、後部座席で昼寝をしていた。


「うーん……」


 目を開けると、真っ暗だった。


「やばい」


 スマホで時間を確認する。夜の八時過ぎ。もはや昼寝なんてレベルではない爆睡だった。


 すー、すー、と吐息が聞こえる。五十鈴はドアと座席の角に肩を当てて眠っている。ちょっと口が開いているのがかわいらしい。眠っていても品性を落とさないのだからさすがだ。


「五十鈴、五十鈴」


 俺は五十鈴の肩を揺さぶる。ブラウス一枚だからちょっとドキドキするな……。


「五十鈴、起きられるか?」

「ふぁい……」


 五十鈴が目を開けた。周囲を見て、改めて俺を見た。


「あら……寝過ぎちゃいましたね」

「よくこの体勢でずっと寝てたよな」

「大河原さんが起こしてくれなかったということは、よっぽど気持ちよさそうに寝ていたのでしょうか」


 俺たちは運転席を見る。大河原さんも寝息を立てていた。


「みんな寝てたのか……」

「あはは。そういうこともありますよ」

「腹は減ったか?」

「いいえ。寄り道でいろいろ食べすぎちゃいましたから」


 デザートをちょこちょこ買って食べていたので、俺もそんなに空腹ではない。


「お二人とも、起きましたか」

「大河原さん、おはようございます」

「私もつられてしまいました」

「あっ、わたしたちのせいにするつもりですか?」


 五十鈴と大河原さんが笑う。


「まだどこかに行かれますか」

「ええ。雲上殿うんじょうでんまで」

「わかりました。少し夜風に当たって目を覚ましてきます」


 大河原さんが外で軽く体を動かす。


 雲上殿は長野市街地を一望できるスポットだ。観光名所として有名なのかは知らないが、夜景が綺麗なので訪れる人は多いとか。


「先輩、一緒に夜景を眺めましょう。それで今日はおしまいです」

「わかった」


 大河原さんが戻ってきて、車を発進させた。

 市街地の広い通りを走り抜け、北へ向かっていく。上松うえまつの五叉路からきつい坂道を上がっていくと、やがて雲上殿の下にある駐車場までやってくる。


「大河原さん、ここで待っていてもらえますか? わたしたちは少し歩いてきます」

「承知しました」

「行きましょう、先輩」


 俺はうなずき、車を降りた。


     †


 雲上殿というのは国宝・善光寺ぜんこうじの一部で、駐車場のかなり上のほうにある。

 が、五十鈴はそちらに向かわず、道に沿って歩いていく。


「上がらないのか?」

「他に人がいたら面白くないので、こっちにしたいんです」


 登りになった道を進むと、道路の脇にちょっとせり出した足場があった。手すりもちゃんとついている。


 そして充分すぎるほどに、夜景に包まれた市街地を見おろすことができた。


「どうですか? ここでもいいでしょう?」

「いいね。霞んでなくて遠くまでよく見える」

「下調べしておいたんですよ」


 えへん、と五十鈴は胸を張る。


「ありがとな、五十鈴。すごく綺麗だ」

「……どっちがですか?」

「どっちも」

「……」


 少し間があって、五十鈴が息を吸った。


「できれば、しっかり言葉にしてほしいです……」


 甘えるようでいて、遠慮も混じったような声だった。

 やっぱり、ちゃんと言ってもらいたいか。俺はためらわなかった。


「夜景も、五十鈴も、どっちも綺麗だ」

「……ありがとうございます」


 五十鈴は手すりに両手を乗せて、夜景を見つめる。俺も同じようにした。俺が右で、五十鈴が左。


 車は通らない。静かな、俺たちだけの空間。

 街の光は変化していく。

 強くなったり、またたいたり。


 こんなに落ち着いた気持ちは初めてだな……。


 この道はトレーニングで通ったことがある。傾斜が徐々にきつくなっていくから、走り込みのために来たのだ。そのとき何気なく通り過ぎた場所は、五十鈴との思い出の場所に変わろうとしている。


 野球も楽しかったけど、こういうゆったりした時間も幸せだ……。


 俺の胸はかつてないほど満たされている。


「ねえ、恭介先輩」


 不意に、そんな声が聞こえた。

 五十鈴に顔を向けた、その瞬間――


 ぐいっと、体を引き寄せられた。


 そして訪れる、唇への温かな感触。


 俺と五十鈴の距離はゼロで、完全に触れ合っていた。

 五十鈴がわずかに顔を離す。


「お、お前――」

「恭介先輩、大好きです」


 再び重なる、俺と五十鈴の唇。


 仕掛けてくるってこれのことなのか。こんなとんでもないことを企んでいたなんて、勝てっこないじゃないか……。


「ん……」


 五十鈴の声が漏れる。

 俺は耐えきれず、五十鈴の背中に腕を回した。もっと近づきたい。


「んぅ……」


 永遠のような一瞬。俺は幸福を噛みしめる。


 俺のほうから顔を離す。五十鈴は「ぷはっ」と吐息をこぼし、荒くなった呼吸を整えた。


 そう、これも心配だからな。

 こんなに幸せなキスで呼吸困難なんてあまりに悲しすぎる。俺たちのキスにはリミッターがついているのだ。


「五十鈴、好きだ」

「恭介先輩……」

「好きじゃ足りない。愛してる」


 迷わず、言うことができた。


「これからも一緒にいてくれ。五十鈴を幸せにできるように、俺も頑張る」


 返事はしばらく来なかった。

 五十鈴が涙をこぼしていたからだった。


「嬉しい……。恭介先輩を好きになってよかった……」

「俺も同じだ。五十鈴を好きになれてよかった」


 五十鈴をしっかりと抱きしめ、その体温を感じた。かすかな吐息。脈打つ心臓。何もかもが愛しい。


「恭介先輩」

「なんだ」

「あとちょっとだけ、こうしていてほしいです」

「……もちろん」


 今、俺の人生は間違いなく最高の瞬間を迎えている。


 玉村五十鈴。

 俺を救ってくれた彼女。

 二人で歩く道が輝き続けることを、俺は祈った。





第1部・完結→→→第2部に続きます

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