29話 本当の告白
慣れない路線バスに乗って、俺は五十鈴の家までやってきた。
この前にも見た、マンションのような外見の家が目の前にある。
暑い街中を歩いてきたせいで汗だくだ。スクールバッグにタオルが入っているので、まずは汗を拭いて呼吸を整える。五十鈴にむさ苦しいところは見せたくない。
一息つくと、俺は『ついたぞ』とメッセージを送った。既読マークがついたが、しばらく反応はなかった。
待っているとドアが開いた。五十過ぎくらいのおばさんが出てくる。
「新海さんですね。お待ちしておりました」
「あっ、はい」
この口ぶり、どうやら専属のお手伝いさんらしい。
「わたくしはこの家のハウスキーパーを務めております、中山と申します。先日はちょうどお休みをいただいておりましたのでお会いできませんでしたが」
「新海恭介です。今日はよろしくお願いします」
「五十鈴様から、お部屋まで案内するようにと言われております」
俺は中山さんについていく。豪華な玄関を抜けると、中山さんは階段を上がっていった。
あっ、これ五十鈴の部屋に案内されるやつだ。
いいんだろうか、応接間の次がいきなり自室で。リビングとかで話して、徐々にステップアップしていく感じではないのか?
階段を上がって左に曲がり、突き当たりまで行く。中山さんは右側のドアを示した。
「こちらが五十鈴様のお部屋です」
「あ、ありがとうございます」
「なにかありましたらお呼びください」
中山さんは頭を下げて離れていった。今日は修介さんも泉美さんも会社にいるのだろうか? この家にいるのは三人だけ?
「恭介先輩」
小さな声がした。
「入ってください」
「お、おう」
俺はドアを押し開けた。
北側、日の差さない部屋には電気がついていた。
奥の壁に沿ってベッドが置いてあり、茶色の落ち着いたタンスや化粧台、シンプルな勉強机などがある。
「こんな日に来てくれるなんて……嬉しいです」
五十鈴はベッドで体を起こしていた。青い生地に白い水玉模様のパジャマ。冷えピタを張っている。
「大丈夫だったのか」
「ええ。点滴を打ってもらったのでかなり回復しました。やっぱり、暑かったのと緊張していたのがよくなかったみたいです」
「慣れないことをすると疲れるしな」
「でも、貴重な経験でした。あのあと無事に勝ったんですよね」
「ああ。片倉がしっかり抑えてくれたよ」
「よかった」
俺はベッドの脇に座る。足元はふわふわしたカーペットだ。
「でも、どうして急に来てくれたんです? まさか、変な責任を感じてませんよね?」
「それは、ちょっとある」
「やっぱり。見に行きたいと言ったのはわたしの意志なんですから、先輩はなにも悪くないんですよ」
「でも、止めたほうがよかったのかなって」
「もう……。心配してくださるのは嬉しいですけど」
五十鈴は布団から出て、ベッドの脇に足を垂らした。横の台には電話が乗っている。
「それ、内線か?」
「そうです。体調が悪くなったらこれで中山さんを呼ぶようにしています。あんまり使いたくないんですけどね。迷惑になりますから」
「やっぱり、女王様みたいになれないのはお前らしいな」
「そうだった。先輩は社長令嬢に偏見を持っていたんでしたね」
「今は変わったぞ。五十鈴のようなお嬢様もいるって」
「わたしはあんまりいないタイプだと思いますけど」
数秒の沈黙。俺も五十鈴も、次の言葉を口にしなかった。
俺はどこでどうやって、大切な一言を放てばいいのか探っていた。
「今日……」
五十鈴が先に話す。
「生の試合を初めて見て、先輩がすごい人だってあらためてわかりました。ずっと、マウンドで戦ってきたんですものね」
「それを言うなら、どのピッチャーだって同じだよ」
「またそういうことを言う。わたしを助けてくれた人がそのくらいすごい人だっていう実感を持ったんです。マウンドは特別な場所ですよ」
「そうかもな。…………」
その瞬間、閃くものがあった。
「なあ」
「はい?」
「俺、五十鈴にとっての特別な場所に立てるかな」
「……え?」
かなり強引な切り出し方。しかもちょっとポエマーみたいになってしまった。だが、もう踏み出した。引くな、恐れるな、突き進め!
「俺は、五十鈴のことが好きでたまらないよ」
「きょ、恭介先輩……」
「今日も、どうしてもこのまま帰りたくなかった。もう一度会いたくて仕方なかった。だからここまで来たんだ。それくらい、五十鈴のことばっかり考えてる」
五十鈴は呆然として固まっている。
「前、五十鈴が勢いで「好き」って言ってくれたことがあったよな。またいつか言うかもって。最初は待ってるだけだった。俺はずっと受ける側でいいと思ってたんだ。でも、今は違う。お前が俺をどう思ってるかはわからないけど、俺はどうしようもなく五十鈴のことが好きなんだ。不器用で野球以外のことなんてなにも知らない奴だけど――」
すっと、息を吸う。
「俺と、つきあってくれないか」
ここまで来れば、自然とその言葉は出すことができた。
さあ、どうだ。
俺だってやられてばかりでは終わらない。
もっとも大切なところは、俺が先を越したぞ。
まだ俺をからかう余裕があるか?
――なんて思っていたら。
少しずつ、五十鈴の目から涙があふれ出してきた。
「あ、ああ……」
五十鈴は両手で顔を隠した。
「うぅ……」
「い、五十鈴……大丈夫か? 俺がわるかっ――」
「言わないで!」
五十鈴の叫び声に、俺は硬直する。
「こんなに……こんなに幸せなことはないんですから……自分を悪く言うのはやめてください」
「そ、そうか。すまん――は、自分を悪く言ってるからよくないか。えーと、とにかく、俺の気持ちはそういうことだ」
「……確かに、恭介先輩の気持ちは受け取りました」
まだ、五十鈴は顔を隠したままだ。もうしばらくそのままだった。やがて手を離し、上を向いて、「ふうぅ」と息を吐いた。
俺と五十鈴は、まっすぐに向き合う。
「恭介先輩、その告白、受けさせていただきます。よろしくお願いします」
五十鈴に見えないように、俺は拳を握った。
やった。成功した。
俺たちは、本当の意味で特別な関係になったのだ。
「ありがとう、五十鈴。これからもかまってくれ」
「また困らせてあげますよ。覚悟しておいてください」
五十鈴が笑うと、俺もつられて笑っていた。
「わたし……終業式の日に、あらためて告白しようと考えていたんです。先輩が気にしているのは伝わってきたので、焦らしすぎかなって思ったりもしたんですけど……」
五十鈴は自分の髪を撫でる。
「それでよかったのかもしれません。恭介先輩から告白してもらえるという、最高の瞬間を体験できたんですから。本当に、幸せです」
「俺も、五十鈴任せにしなくてよかったと思ってる。やろうと思えばできるもんだな」
「なんだか、いつもの恭介先輩らしくなかったですけどね?」
「し、仕方ないだろ。お前が「特別な場所」って言った時にこのタイミングしかないって確信したんだ」
「びっくりしちゃいました。まだ心臓がバクバクしてます」
「倒れないでくれよ」
「甘く見ないでください。幸せで倒れるほどヤワじゃありません」
俺たちはまた笑う。それから少し、互いを見つめ合って……。
五十鈴が立ち上がった。
「先輩、お願いがあるんです」
「なんだ」
「その……ぎゅっとしてもらえませんか?」
「……いいよ」
俺も立って、五十鈴と向き合った。
彼女が目を閉じたので、俺はゆっくり近づき、抱きしめた。
小柄な体は、俺の両腕にすっぽりと収まってしまう。
甘いシャンプーのような香りが漂ってくる。五十鈴のパジャマ越しの体温と合わさって、クラクラするほどだ。
なんて満ち足りた時間なんだろう。
俺はこの素晴らしい彼女と、これからを過ごしていくのだ。
ドタドタと音がした。
「五十鈴ー! 残業を倒してきたよー!」
「これでも頑張ったほうなのよ! 大丈夫!?」
下から、修介さんと泉美さんの大声が聞こえてくる。五十鈴が苦笑した。
「お父さんたち、帰ってきちゃいましたね」
「まだ来ないほうがよかったか?」
「あと五分あれば……」
「あれば?」
「もうちょっと、深い関係になれていたかもしれませんね。ふふっ」
イタズラっ子のように笑い、五十鈴は俺の腕をくぐり抜けた。
「いずれバレるでしょうけど、まだお父さんたちには伝えません。今日だけでも、わたしと恭介先輩だけの秘密にしておきたいんです」
「そうだな。黙っていよう」
「約束ですよ?」
「もちろん」
俺が右の小指を出すと、五十鈴も笑顔を作って指を出してくれた。
指切りげんまん。俺たちの約束。
「今日はうちで夕飯を食べていってください。大河原さんが送ってくれるはずなので」
「いいのかな」
「遠慮しないでください。全身全霊でおもてなししちゃいます」
「でもお前、まだ調子は……」
「平気です。嬉しくて全部吹き飛んじゃいました。今のわたしは無敵――あっ」
ふらついた五十鈴を、俺は反射的に飛び込んで支える。
「ほら、言わんこっちゃない」
「えへへ、恭介先輩なら助けてくれると信じてました」
「大げさだな」
……五十鈴とこうしているのは、楽しい。
こんな特別な日が俺に来るなんて。
自分で言っておきながらまだ実感が湧かないけれど――。
今日という日を、俺は死ぬまで忘れないだろう。
劇的な試合。
五十鈴への告白。
あまりに濃密な一日だった。
今日を最後まで堪能したら、また明日も学校で五十鈴と話そう。
野球を失ったらなにも残っていなかった俺の人生が、少しずつ満たされていく。
今はそれが、ただただ嬉しい。
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