井戸
青水
井戸
叔父が死んだ。
私は叔父と親しく、よく彼の家に遊びに行っていた。叔父は五三歳で、生涯結婚というものをしなかった。一度、「どうして叔父さんは結婚しないの?」と聞いたことがある。随分、昔の話だ。当時の私はまだ子供で、大人になったら皆結婚して子供を作るものだと思っていたのだ。それが当たり前だと思っていた。今は、そうではないと知っている。結婚をしない人はそれなりにいるし、結婚しても子供を作らない夫婦もたくさんいる。そして、結婚したからといって、幸せになれるとは限らない。私も一度結婚して、一年足らずで離婚した。結婚とはなかなかうまくいかないものなのだ。
「どうして結婚しないのか……そうだな、向いていないからかな」
「結婚に向き不向きなんてあるの?」
「あるさ」叔父は私を見て微笑んだ。「多分だけど、お前も向いていないタイプだと思うよ」
当時の私は少しショックを受けた。しかし、叔父は正しかったのだと、妻と離婚したときにわかった。『交際』と『結婚』はまったく違うもので、『彼女』と『妻』もまたまったく異なるものなのだ。
「叔父さんはどうして自分が結婚に向いていないと思うの?」
「うーん、そうだな……」叔父は木の幹を見つめながら考えた。蝉がみんみんと鳴いていた。「僕はね、こだわりがすごく強いんだ」
「こだわり?」
「マイルールっていうのかな……。そういうのが、とても多い」叔父はうちわを扇いだ。その日はとても暑かった。「相手にいろいろと強制するわけじゃないんだけれど、相手からすると気持ち悪い――というか、理解不能なんだよね」
「たとえば、どんなルールがあるの?」
「イド」叔父は言った。
「イド?」
「フロイトじゃないぞ」叔父はからりと笑うと、庭の端を指さした。そこには井戸があった。「井戸だ」
石造りの古めかしい井戸は、井戸としての役割を果たしていなかった。水は涸れていて、ただぽっかりと穴をあけているだけ。井戸の上には、木でできた丸い蓋が被さっていた。うっかり井戸の中に落ちないように。もしも、井戸の中に落ちて、誰もそのことに気がつかなかったら、ひからびて死んでしまう。それは恐怖だった。幼い私にとって、井戸は恐怖の対象だった。すべてを飲み込む漆黒の穴。今は井戸より怖いものがたくさんある。
叔父は縁側から立ち上がると、井戸の元へと歩いた。途中で振り返って、お前もこっちに来い、と手招きをした。なんだか妖しげな誘いだった。井戸が一体どうしたというのだろう?
叔父と私は井戸の前に立った。叔父が井戸の上に被せた木の蓋を持ち上げた。井戸の底ははっきりと見えなかった。暗くて黒い。叔父は怯えている私を無視して、井戸の隣に置いてある縄はしごを中に投げ入れた。フックの部分を井戸に引っかけると、私に向かって言った。「僕は毎日、この井戸の中に入るんだ」
「井戸に入って何をするの?」
「何もしない。ただぼーっとするだけさ」
「どうして?」
「僕はいつも物事を考えすぎるきらいがあるからね。一日に何十分か、何も考えない時間を作るべきなんだ。そうしないと、オーバーヒートしてしまう」
「ふうん」私にはよくわからなかった。
「井戸の中は静かで暗くて、とても落ち着くんだ」叔父は言った。「お前も一度入ってみなさい」優しい口調だった。
「えー……」私は顔をしかめた。
「僕も一緒に入るからさ」
「……わかった」不承不承頷いた。
叔父は縄はしごを掴むと、ゆっくりと降りていった。縄はしごは太くてしっかりとしている。人一人の重さに堪えかねてちぎれたりはしないだろう。しかし、叔父が一段降りるたびに、ぎしっと軋むのが気になった。いきなり、ぶちっとちぎれてしまうのではないか、と私は恐ろしくなった。
「お前も降りて来いよ」
「うん……」
そこで、私は縄はしごを固定するフックが気になった。もしも、私がこのフックを外したら叔父はどうなってしまうのか。死んでしまうのだろうか? だとしたら、私は今、叔父の生殺与奪の権をにぎっているということになる。
ごくり、と私はつばを飲み込んだ。手をゆっくりと伸ばし、フックの艶やかで冷たい表面に触れる。だが、もちろん、フックを外したりはしなかった。井戸のふちを触って、大きく息を吸い込むと、縄はしごを掴んだ。そして、一段一段しっかりと、ゆっくりと緊張しながら降りていく。胸が激しく鼓動する。井戸の地面につく頃には、私の手のひらは汗でぐっしょりと湿っていた。
「どうだ?」体育座りした叔父が尋ねてくる。
「うん」私は空を仰ぎ見た。綺麗だった。
なるほど。確かに落ち着く。三〇分ほど二人でじっと黙っていた。井戸の中では会話をしてはいけない、などというルールは存在しないが、そこはあまり会話をするべきではない場所なのだと私は自然と悟った。
井戸から出ると、私たちは縁側に戻った。そこで叔父は様々なマイルールについて私に語った。それらを聞いて私は、確かに叔父は結婚には向いていないのだな、と思った。
叔父は田舎にある日本家屋に住んでいた。一人で住むにはいささか大きな家だ。立地が悪く、周りには畑や田んぼしかない。スーパーに行くためには、車を三〇分以上走らせなければならない。しかし、出不精――というより、インドアの私にとっては不便ではなかった。月に何度か車を走らせ、必要な食料などをまとめて買い、後は家に引きこもって生活する。叔父の亡き後、私がこの家に住んでいるのだ。
叔父は病気で亡くなった。病名はわからない。いや、一応聞いたのだが、非常に珍しく、漢字が羅列された病名を、私は覚えられなかった。叔父がどうして死んだのかはさして重要ではない。重要なのは叔父が死んだという事実だけだ。
私は叔父のマイルール――というか、変わった習慣である、井戸潜りを毎日続けている。そのほかのマイルールは、私には受け継がれていない。しかし、なぜか井戸だけは受け継いでしまった。毎日三〇分ほど、何も考えずただぼーっとする。そして、ゆっくりと井戸から出る。その後は縁側でお茶を飲みながら、叔父のことを思い出す。
天国には井戸はあるのだろうか? もしもあったなら、きっと叔父は天国の井戸に入って、毎日三〇分ほど、ぼーっとしているのだろう。
井戸 青水 @Aomizu
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