4 熟れた心臓(4)

 都々と沙々奈がいなくなって、この女は正気でいられるだろうか。高橋という男はそれでも愛してくれるだろうか。母は彼を愛せるだろうか。誰かを愛することを許せるだろうか。喪うということを諦めずにいられるだろうか。そうやって生きてくれるだろうか。

 絶え間なく響いていた蝉の声が、不意に止んだ。

「母さん」

「なに」

「母さんはもう好きに生きなよ」

「変なこと言う子ね」

「おれも沙々奈も、勝手に生きていけるから」

「ばか言わないで」

 墓石を見上げる母の背中は、都々がまだ幼いころに一度だけ会ったことのある祖母に似ていた。四十半ばの後ろ姿にしてはずいぶんと老いている。彼女は多くのものを背負いすぎた。記憶のなかの母は、トレーナーとジーンズのような飾り気のない格好でも、誰よりうつくしかった。よく気が利いて働き者だがここいちばんではどこか頼りなく、真正直で、いつも父のいたずらに騙されては驚きながら怒り、心底から笑いあっていた。

「都々、どうしたの今日は」

「え」

「珍しくよく喋るじゃない」

 落ちたままだった煙草を拾いあげ、母は箱ごと墓に供えた。

「こういう日の都々は、隠し事をしてるときなのよね」

 よいしょと声をかけながら立ち上がり、脇に置いていた紙袋を持つ。振り返った母は笑っていた。

「ついこないだ、うちに来たでしょう」

「なんで」

「わかるわよ。お母さんは押入れを開けっ放しにしたりしないから」

「あっ……」

 断罪は額を押さえてため息をつく。元通りにして帰ったつもりだった。押入れを閉め忘れるのは都々の悪い癖だ。

 母に腕を叩かれる。

「さーちゃんの服でも取りに来たんでしょう? そうならそうとちゃんと連絡しなさい。こそこそと泥棒みたいなことしないの」

「ごめん」

 今度は気をつけるよと言いかけて、断罪は口を噤んだ。次など、おそらくない。この人とは、もう二度と会ってはいけない。

 母の紙袋を代わりに持って、先に歩き出す。母は何度か口をひらきかけたようだった。だが、バス停につくまで話しかけてくることはなかった。

 路線バスに揺られて坂を下る。途中、空いた座席に母を座らせて横に立った。

「まるでおばあちゃんみたいね」

 ぼそりと呟きながらも母はふうっと息をついた。ハンカチで汗を押さえつつ扇ぐ。実家の洗濯物のにおいがした。

 バスを降りて駅へ向かう。車内はほどよく混みあっていた。寝る子を抱えた家族連れ、浴衣姿の男女、部活動の大きな荷物を担ぐ学生たち。平常の通勤通学の車内にはない、それぞれの人生の生々しさがあった。

 停車駅で乗降客のために体を寄せていると、唐突に母が口をひらいた。

「好きな人でもいるの」

「えっ、は?」

 とっさになんと返していいかわからず、断罪は横に並んだ母を見下ろした。そうしてから、なぜすぐに否定しないのかと自分自身を訝しむ。

 視線を感じ取ったのか母が見上げてきた。

「どうなの」

「いまその話いる?」

「否定しないってことはそうなのね」

 笑うと目元が猫のように細くなる。沙々奈もそうだ。

「ちょっと安心した。都々はそういうことを諦めてるように見えてたから」

 都々が彼女を家へ呼んだり、彼女の話を家族にしたりしたことはなかった。そもそも彼女と呼べる存在を作ろうともしなかった。レナがいい例だ。

 返答に困り果て、断罪は顔をそらした。なぜそんなに嬉しそうに笑うのかわからない。それでも母の笑顔は夕暮れを彩る街灯のように断罪の心をやさしく照らした。

 窓に雨滴がついた。電車が走り出すと、小石で引っ掻いたように細く長く流れていく。

「きつねの嫁入りね」

 気づいた母がひとり言のように呟いた。

 窓を掠める雨滴は流星のように輝いて、ほんの一分ほどで乾いて消えた。

 終点で降りて改札を出る。母は乗り継ぎのために私鉄へ向かった。断罪は荷物を持ってついていく。沙々奈と同じ小柄な背中に何度も、都々と沙々奈は死んだと告げようとしては言葉を飲み込んだ。

 長いエスカレーターを上がるとまるで祭りのような賑わいがあった。ホームは大きなスーツケースを引く人でごった返している。断罪は横に並んで、守るようにして歩いた。

「切符は?」

「大丈夫、チャージしておいたから」

 準備いいでしょ、と胸を張り、財布のなかにしまってあったカードを取り出す。だが母は、なかなか財布を鞄に戻そうとしない。

「どうかした?」

「都々、あなたの言葉信じていいのなら、信じる」

「え」

「ふたりとも勝手に生きていけるって」

「ああ……」

「生きていてくれるなら、それでいいわ」

 母は目を真っ赤にしていた。断罪は彼女をまっすぐ見られずに、持っていた紙袋を押しつけた。母は静かに首を振った。

「それはあげるわ。高橋さんが育てた胡瓜とか、お茄子とか、そのお漬物。ふたりで食べなさい」

「でも」

「どうせ、まともなご飯食べてないんでしょ」

 ぽろぽろと涙がこぼれる。母は戸惑ってハンカチで拭いた。

「変なの。都々もさーちゃんも、もうずっと遠いところにいる気がする。目の前に、都々がいるのにね」

 お父さんに怒られちゃうと言って母は破顔した。

 駅へ降り立った人々が改札から溢れてくる。

「ほら、今なら座って帰れるから」

 断罪は母の腕を掴んで、改札機まで引っ張った。母はカードを通してから振り返って手を振り、五歩進んでまた振り返った。そうやって何度も繰り返す母が電車に乗って見えなくなるまで見送った。

 発車ベルが鳴って、レールの軋みがホームに響く。紙袋のなかにはビニール袋に包まれた野菜と漬物、そしてティッシュにくるまれた紙幣が入っていた。いつのまに忍ばせたのだろうかと墓からの道のりを振り返る。

 やけに喉が渇いた。

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