4 熟れた心臓(3)
霊園は、トラックの運転手をしていた都々の父が仕事中に見つけてきた。親類縁者のいない両親には田舎も墓もない。契約し、これで気がかりが減ったと安堵していた。そのときはまさか二年も経たずに父が入ることになろうとは思いもしなかった。
ここ数年で墓地が拡張され、景色はすっかり変わっていた。かつては小ぢんまりとした墓地で、父はそこが気に入ったと話していた。
売店でごみの袋を捨てて、思えば花も線香もないことに気づく。なかに入ると、和風や洋風にアレンジされた花が所狭しと並べられていた。断罪はその前で首をひねる。父の好きな花や色がわからない。いちばん小さな束を手に取ってみたものの、結局は線香とライター、あとは父が吸っていた煙草を買って店を出た。
スロープに導かれ、もっとも古い区画を歩く。以前砂利が敷かれていた通路は舗装されバリアフリーになっていたが、区画を区切るコンクリートは昔のまま飾り気のないものだった。
いちばん小さな区画の、小さな墓石。雑草が出てくる隙間もほとんどない。そこが柚木家の墓だった。小指の爪ほどのクローバーをいくつか抜いて脇に捨てる。線香に火を移して供えると墓との距離が近づいた気がした。煙草をくわえて火をつける。慣れていない体には強すぎる煙草だ。断罪はたまらず噎せた。それを線香のそばに添える。
線香と煙草の煙が一緒になって空へのぼっていく。煙越しに見上げる青空はいっそう高い。
この体も本来ならこのなかに入っているはずのものだ。それが汗をかいて、線香を供えて手を合わせているのは、ひどく冒涜的なことに思えた。ぶくぶくと膨れあがって熟れきったいのちが来ていい場所ではない。
すぐそばで砂利を踏む音がした。
「都々?」
声に驚いて、断罪は持っていた煙草の箱を取り落とした。振り返って押し黙る。そこに立っていたのは都々の母親だった。
「さっきのバス? 気づかなかったわ」
「いや、友達の車で」
「そう」
母はバケツに汲んだ水でタオルを濡らし、墓石を拭きはじめる。入学式や参観日でしか見たことのない、淡い色調のスーツを着ていた。かすかに香水が舞う。
「都々も手伝って」
「あ、ああ」
せっかく供えた線香と煙草が濡れてしまわないよう避難させ、断罪は素手で墓石を磨いた。水をかけてもかけても石は熱い。
「珍しいこともあるのね、こんなところで会うなんて」
「盆、だし」
「来るなら連絡してくれればいいのに。こないだも留守電一本だし。携帯はどうなってるの、新しいのにしたの? さーちゃんは? 元気にしてる?」
矢継ぎばやの質問に断罪は苦笑した。
「携帯はちょっといま余裕がなくて」
「さーちゃんの携帯にも繋がらないけど……、どうして?」
「面倒な男に付きまとわれて、ずっと電源切ってる。それもあっていま、おれのところに」
とっさの嘘で言い逃れる。母は嘘だと気づいているのかいないのか、深く追及しない。
「そういうのはちゃんと警察に連絡しなさいよ。したの?」
「いや、沙々奈も傷ついてるし、そっとしてやりたい。警察とか行ったら色々訊かれるんだろ。それは、ちょっと」
「まったくあの子は」
母は大きく息をついて、首筋の汗をハンカチで拭った。
「いつまでもお兄ちゃんお兄ちゃんって子どもみたいに。いつもは生意気な口を利くくせに、いざとなったら小心者なんだから。……きっとお父さんに似たのね」
呟きながら微笑む母の横顔に、断罪はふと過去を見つめる眼差しを嗅ぎ取った。
「なに、都々。じろじろと」
「やけにおしゃれしてるな、と」
「ああ、うん、ちょっとね」
白が基調の花を供え、母はそっけなくしゃがみ込んだ。ハンドバッグから数珠を取り、手を合わせる。断罪は後ろに立って、その様子をじっと眺めていた。黒髪をきれいにまとめあげた首筋には、おくれ髪が汗で張りついていた。その首筋は母親と呼ぶにはあまりにしなやかで、都々の記憶にある母親とは結びつかない。これはひとりの女だ。
線香と香水が混じる。母は息子が察したことを感じ取っているようだった。
「工場の取引先の人でね、高橋さんっていうんだけど。彼も数年前に先立たれたのよ、奥さんに」
彼という呼び方に、夏の午後の日差しにあるような熱がこもる。
「まだ中学生の娘さんがいるんだけど、扱いが難しいって相談されて。うちはお父さんが倒れたときも、それから……亡くなったときも、都々がよくさーちゃんの面倒を見て仲良くしてくれたから、わたしはほんとに救われたの。お誕生日はんぶんこ会だって、都々が提案したんじゃなきゃ、きっとあの子はきかなかったわ。助かったし、楽しかった……。彼の話を聞いててあらためてそう思ったのよ」
「他人事じゃないんだな、その人の悩みが」
「そう、ね」
母はそっと祈る。
墓に向かって手を合わす母に、家族はもういない。存在しているように見える息子も娘も贋者だ。その事実が断罪を沈黙させた。
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