2 いつかの花(5)
レナとはかつて働いていたカラオケ店で同じアルバイトだった。それまであまり話したことはなかったが、ある日仕事が終わろうとしたときに声をかけられた。
「柚木先輩、わたしとしませんかぁ」
はじめは言っている意味がわからなかった。訊き返すとレナはきゃっきゃと笑った。
「見た目と違ってかわいいんですね! やだもう、えっちしよって言ってるんですぅ」
そのころレナはまだ高校生で沙々奈と年が近いこともあり、都々には背徳的に思われた。
どうにかうまく切り抜けることはできないか言葉を探していると、右手をすっと取られた。
「手、おっきいですよね」
レナは両手でその手を握る。
「この手でレナ、もみくちゃになりたい」
いくつも年下の少女に、そのとき都々はからめとられたのだった。
都々が居酒屋で働きはじめて職場は別になったが、関係はゆるやかに続いた。普段は連絡を取らない。ただ、会いたいときにだけメールをする。そうやって二年ほどが過ぎていた。
ホテルの最上階の部屋からは歓楽街の観覧車が見えた。空と街を繋ぐ歯車のようだ。太陽は観覧車の回転にあわせて、じりじりと中天へ差しかかる。冷房がよく効いた部屋のなかからでは、外の眩しさが作り物のように思えた。
ドラッグストアで買った絆創膏と消毒液を置いて、レナはさっさとシャワーを浴びに行ってしまう。かすかに聴こえるBGMに混じって、彼女の鼻歌が聞こえてくる。断罪はそれを背中で聞きながら洗面台で血を流した。傷口が見えてくる。とうに血は止まっていた。
顔を上げ、視線をさまよわせながら都々の姿を確認する。従業員証の写真よりずっと薄暗い顔をしていた。ほとんど寝ていないのだ。顔色は悪く目の下は黒ずんでいる。それでも柚木都々という男には、どこか汚れきることのない生ぬるさがあった。
大きなベッドの端に腰かけ、ティッシュを引っ掴み消毒液を垂らす。そのときになってようやく痛みを感じた。
「レナが貼ってあげるよぉ」
バスローブをはおったレナがベッドの向こうから四つん這いになって寄ってきた。断罪の右腕を抱き込んで絆創膏を貼る。
「よかった、血ぃ止まってる」
「怪我のうちにも入らない」
「なんか今日怒ってる? 機嫌悪くない?」
そう言いながらレナは断罪の首に抱きつき、耳の後ろを舐めた。内臓を直接こすりつけられたような熱さだった。
「都々の味がする」
蜂蜜のように甘く絡みつく声で囁き、レナは耳朶に咬みついた。
手馴れた愛撫に、押しつけられたやわらかさに、体は従順に反応した。服の上からでもわかるレナの手の熱さに、精神と肉体の境目が溶けだす。背後から身を乗り出したレナが、真っ赤な舌を差し出した。脳裏に、昨夜の血だまりが広がる。ぬくもりを失い、すっかり色褪せた赤は死の色だ。断罪は生きているほうの赤へと舌を伸ばした。
快楽は痛みと同じだ。思考や言葉を介さず、肉体に直接訴えかけてくる。決して交わることのない、街と空を繋ぐ観覧車のようだった。どこまでが自分で、どこからが都々かなどと考える余地はなくなる。暴力的で逃れようのない歯車だ。
縒り合わせるように舌を吸う。いつまでも溶けないマシュマロを口に含んでいるようだ。肉体がさざめく。レナは断罪のベルトを外して、にやりと笑った。
『どれもこれもぼくにとってはフィクションだね』
昨日の看守の言葉を思い出す。こんなにも生々しい感触を伴うものが、フィクションだろうか。
腕を掴んで引き寄せると、ゆるく重ねていただけのバスローブがはだけて瑞々しい肌が露わになった。
「レナやっぱり、都々の体が大好き」
断罪のボタンを外しながら、レナはうっとりとした目をする。
「今のカレシ、バイト先で常連さんだった人なんだけどなんかちょっとタイクツっていうか、カレシ止まりなんだよね。都々のこと知らなかったら楽しかったのかもしれないけどなぁ。ていうかこれから先、都々みたいに合う人とは、レナもう巡り会えない気がする」
「バイトってメイド喫茶だっけ」
肩に残る日焼けあとを舌でなぞり、脚を片手で押しひらく。指先は引力に逆らえず深くまでのみ込まれた。蜂が生まれながらにして美しい巣を知るように、都々の体は断罪を置き去りにして彼女を作りあげていく。やがてぬるくなった生クリームのようにレナはやわらかくぬめった。目が呼んでいる。彼女の脚を抱えて、体を寄せた。
「今はまたキャバなの。あれはね、ちょっとこわいからやめちゃった。制服はかわいかったんだけどなぁ」
化粧とは異なる赤みが首筋を彩る。息をはずませながら、レナは話をやめようとしない。いつも、どうでもいい話を続ける。まるでカフェにいるときと同じように抱かれる女だった。
「あ、そうそうそれがね聞いてよぉ。レナね、ストーキングされてたの」
「へぇ」
「遊びに行くときもお店に出るときも、なんか誰かついてきてるなぁーとは思ってたんだけど、あんまり気にしてなかったのね。でも一ヶ月くらい前かなあ、下着が送られてきたり、変な電話がかかってきたりして。さすがに気持ち悪いから友達に確認してもらったら、それがメイドんときのお客だったのぉ」
ラメで縁取られた目には軽薄な侮蔑がある。
「前からしつこくてキモかったんだけど、レナを守るためにやったとか言い出して、もうありえないっしょ。だから言ってやったの。レナ、カレシいるからほっといて、って」
「あ、そう」
「でね、都々の名前出しちゃった」
「はあ?」
思わず声を上げた。レナはただ笑っている。
「だってぇ。カレシの名前出して、もしメイドしてたことがばれたら嫌だし。言ったらコスしてえっちしなきゃなんないでしょ。あんまり気持ちよくないから嫌なの」
「なんだよ、それ。なんで名前なんて」
「だって、ほんとしつこかったんだもん。女の子の一人暮らしは危ないから自分がパトロールしてるみたいに言って、意味わかんない。だから、一人暮らしじゃないです、カレシが来てくれてますって。そしたらそれ言った翌日から、そいつ来なくなったんだよね」
「意味わかんないのはおまえだろ」
「ねえ動いてよぉ、都々ぉ」
どうしようもない苛立ちで体が一気に冷めていく。断罪はレナから離れた。
「ねえ都々、勝手にそういうこと言って悪いことしちゃったかもしれないけど、それでストーカーいなくなったし、レナはカレシと喧嘩しなくて済んだし、都々にも迷惑かかってないからいいでしょ」
レナは首をかしげて胸の前で手を合わせた。断罪は呆れて返事もできない。彼女はそれを許しと受け取って上機嫌に微笑んだ。
よく冷えたミネラルウォーターを喉に流し込む。断罪はひっそりと失笑した。
痛みや快感をひとつの肉体で共有できたとしても、断罪と都々は同じにはなれない。心を共有することはできない。別の命だと断罪が知ってしまっているからだ。空と大地がどれほど交わっているように見えても、そこには絶望的な距離があるように、生と死のあいだにも塞ぎようのない、むしろ埋まってはいけない摂理の溝がある。
それなのに苛立ちがおさまらない。他人として同情しているのか、それとも自分のこととして憤っているのか。その区別がつかなくなるほど、断罪の胸のうちには渦巻くものがあった。
「でもほんと良かったぁ、都々が無事で。ちょっと心配してたんだよねー。だってそいつ、レナの話聞いたあとに都々のこと殺すとか言ってたからぁ」
ペットボトルの蓋を閉めていた断罪の手がとまる。嫌な予感がした。
「おまえが話したのはおれの名前だけか」
「ううん、お店のことも言ったよ。居酒屋さんのこと」
「なんで」
「だってどんなやつか教えろってうるさかったんだもん」
乱れた髪を整えながら、レナは携帯電話に指を滑らせる。
「柚木都々っていって、居酒屋さんで働いてるの。すっごいかっこよくて、レナをすっごい気持ちよくしてくれる最高の人なの、って」
「それ、いつの話だ」
「五日くらい、前かな……」
ここ一週間ほど都々はずっと遅番シフトで、夕方から翌朝まで働いていた。昨日は久しぶりの早上がりで、終電にも間に合う時間だった。偶然で片付けるにはタイミングが良すぎる。
猫背の男が毎晩店の前で待ち伏せる姿を想像した。店の外からでもレジに立つスタッフの名札は見える。顔がわかれば従業員口から出てくるのを待ち、あとをつけ、薄暗く人気のない路地で背後から襲いかかればいい。
「なあ、おまえにはおれが誰に見える」
「なに言ってんの。都々に決まってるし」
「そうだよな、都々だよな」
何度も刺された腹を撫で、奇妙な因縁にため息をつく。傷跡は消えてしまったが、体が痛みを覚えていた。断罪が知っていた。
都々がどのように生きてどのように死のうと関係ない。断罪は都々にはなれないし、なる気もない。それでも彼の心のうちを語りうるのは自分だけなのだと思うと、断罪には都々の命が、死が、とても不憫で哀しかった。
「レナ、おまえが都々を殺したんだ」
「どぉゆうこと?」
「死んだんだよ、都々は」
「ねえ言ってる意味わかんない。レナばかだから、ちゃんとわかるように話して」
しわだらけのシャツに腕を通そうとすると、レナが縋りついてきた。腰にまとわりついて、弱気な上目遣いで見つめられる。
「服なんて着ないでよ。まだいってないのに」
「そのストーカー男がどんなやつか、当ててやろうか」
「え?」
「真っ黒でぼさぼさの髪。たしか眼鏡をかけてたな。ぶ厚い、黒縁の安っぽい眼鏡だ。背はそんなに高くない。痩せ型、猫背。怯えた目をしながら、人を見下すように話す男だ」
特徴をひとつ口にするたび、レナの顔が青ざめていく。
「なんで、どうして」
「そいつに殺されたからだよ」
「え、待って。意味わかんない。あいつ都々んとこ行ったの? ねえちょっと、教え――」
甲高い声で喋り続けるレナの頬を断罪は平手で打った。痛い信じられないと喚くので顎を掴んで口を塞ぐ。
「おまえの体は好きだったよ。お互い、体にしか興味がないのも楽でよかった。だから残念だ、こんなふうになるなんて」
レナは両手で断罪の腕を叩いていたが、やがて泣き出した。
「たぶん、その男はもうおまえの前には現れない。それだけは言っておいてやる。だけどもし現れたら、そのときはおまえが死ねよ、レナ」
涙で化粧が崩れ、星屑のラメも夜明けのグラデーションも剥がれ落ちていく。これまで見たことのなかった素顔がちらつく。断罪は彼女の顔にバスローブをかけて、手を離した。
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