初めての殺人


 迷いのない一撃だった。法律に背く罪悪感や、そもそも人間を殺すという反倫理的行為への嫌悪感さえも抱くことはなかった。ただ眼前の脅威を排除するという単純な目的のための手段として、彼は手にした鈍器を振りかぶったのだ。冷静で的確なそれは確実にその男の命を刈り取った。まさしく死神が鎌を振り下ろすように、彼は至極事務的な殺人を終えた。


 彼は凶器と化したそれを机の上に置いて、落ち着いた足取りで固定電話へ近寄った。受話器を取り番号を押そうとして、警察と救急車のどちらを呼べばいいのか迷った。

 十秒ほどだろうか、彼は1のボタンに手を置いたまま考え込んでいたが、が致死量と思われる血溜まりの中で生きているわずかな可能性を考慮して救急車を呼ぶことにした。

 1・1・9、と押してから繋がるまでに本当に番号が合っていたか心配になった。しかし、受話器越しに「119番消防です。火事ですか、救急車ですか」と声がしたので、「救急車です」と答えて一先ず安心した。


 その後は電話対応の女性がマニュアル通りに質問してきたので答えていった。強盗殺人の旨を伝えるとその声に緊張が滲んだが、冷静に対処していく彼女の声を聞いて、さすがプロだと彼は人知れず感心していた。

 一方、彼はその胸中とは裏腹に、知らない人、しかも女性との会話に少なからず動揺していた。彼は人見知りだった。

 吃りながらも状況を伝えていく様は、側から見れば犯罪現場に動揺するごく普通の子供だっただろう。電話の女性は彼の声を聞いて変声期前の少年だと察し、犯罪に巻き込まれた少年の戸惑い混乱する様子に胸を痛めた。当の彼は彼女が警察への連絡も済ませてくれると言うので、拙いながらも感謝の意を述べ、やはりこちらの番号を選んで正解だったと自身の選択に満足していた。


 受話器を置いて彼は殺害現場を振り返った。先ほど見た光景と何ひとつ変わっていない悲惨な状況だった。

 彼は母親がカーペットの上に倒れていることに気づいて洗濯が大変そうだと思ったが、それ以外の床や家具の血の処理もしなければならないことに思い至ってからは酷く気分が落ち込んだ。死体は救急車か警察が運び出してくれるだろう。しかし、しばらくは現場保存のために帰れないと予想して、彼は今後に対して投げやりになった。きっと誰かが作った優しい制度で何とかなる、いっそもう帰れなくても貯金で何とかなるはずだ、と。


 救急車が到着するまでの五分間、彼は拭いきれない将来への不安を抱えて憂鬱としていた。それは特に金銭面での不安だった。彼は多くの子供がそうであるように親の預金額を知らなかった。彼はそれまで裕福でも貧乏でもない生活をしていたが、救急車や警察に掛かる費用、もし生きていた場合の入院費や今後の収入源についてなど、不安の種は絶えなかった。


 彼が膝を抱えて悩み込んでいるうちに——彼は立ったままでは深い考えごとをできない質だった——救急車が到着した。救急隊員が鍵のかかっていない玄関扉を開けた後、まずうずくまった彼を見とめ、彼のいる方へ駆け寄った。そしてその先にある血塗れのリビングを見て戦慄した。倒れている犯人と両親を見て明らかに死亡していると彼らが判断したところで、一、二分遅れで警察がやって来た。




 疑いもしなかった普通の日常が崩れてしまうというのは、普通に生きてきた人間にとって酷く恐ろしいことだ。日常を失った人間が前を向くということは普通未満の現状に向き合うことである。

 だから、その場から動かずに俯いていたいと思うのも当然のことなのだ。大きすぎる不安を抱えていては立ち上がることができない。よって、彼が意気消沈して何の意欲も湧かなくなるのも当然のことであった。そして、それが両親を失い、その犯人を殺めてしまったことへのショックのせいだと勘違いされるのも、必然のことだったのかもしれない。

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