第3話 先ずは自らを疑え

 女は自分がどうにかなってしまったのだと思った。

 早く家に帰りたい。いつもに比べ一時間以上遅れている。明日も仕事だ。

 職場では、二ヶ月前に長年勤めた同僚が退職し、補充人員の無いまま有り得ない職員数で何とかこなしている。


 歳のせいか、溜まった疲労は身体を浸食して脳細胞まで蓄積した疲労物質老廃物を運んでいるらしい。

 軽い眩暈がした。家に帰りたい。躰は帰路についているではないか? 

 果たしてこのまま足を運んでもいいのだろうか?

 なぜそう感じるのか?

 気持ち悪い。が、嘔吐を望む気持ち悪さではない。だが、気持ち悪い。


 脳貧血か? ただの貧血か? 脳梗塞か? 一過性の虚血性のものか? 


 軽い眩暈の他に、動悸もして来た。

 このままこの人家も人気ひとけも無く車など通らない公道で倒れたりしたらまずい。


 女は一旦足を緩め、脳梗塞ならばどんな症状がみられるのだろうと頭を巡らせた。

 が、所詮素人である。確認作業など無理な話だ。


 しかしながら、何かを確認せねば安心出来ない。このまま路頭に迷うかの様に倒れる訳にはいかない。もしも脳の疾患であるならば、一刻を争う。詰まってから最低三時間が勝負だと聞いた。


 女は先ず、思い付く限りの身体の動作の様子を試してみた。

 両手は動く。両足も動く。力は……? 入る。心なしか、少々弱いか? 力いっぱいは……入るか?

 グーチョキパーを繰り返す。

 出来る。


 次は?呂律ろれつか?

 「札幌ラーメンとろろ芋」「らりるれろ」「りゃりゅりょ」「ぴゃぴゅぴょ」「みゃみゅみょ」「後は?なんだ? 」


 因みに「札幌ラーメンとろろ芋」のら行は巻き舌の練習に使用した文である。女には昔若い頃、趣味でロシア語をかじった経験があった。

 ロシア語のР《エル》は巻き舌のエルだ。


 それも何とか言える。後は?

 頭部を打撲した時に、昔の記憶を呼び覚まそうと確認する行為を試みる。


 (An old Greek story……)

 (One morning, a pretty ……)

 (Жили были кот……)

二十年も三十年も、それ以上昔に暗唱させられた英文と露文の短文を思い出して言ってみる。


 ほんの少しは覚えていた。昔取った杵柄は健在だった。

 

 (今日のお昼ご飯……夕飯……大丈夫。思い出せる。若年性の認知症ではないかな?)


 帰巣本能はある。が、どうやら家に帰る事自体が、妙な感覚らしい。


 とにかく家を目指そう。途中で具合が悪くなりそうだったら、その前に救急車を呼ぼう。


 女は荷物を抱え直して、重い躰と頭を自宅へとゆっくり向かわせた。


 道はいつもと変わらぬ印象であった。

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