牛肉

星空ゆめ

牛肉

家の食卓の主役といえばもっぱら鶏肉で、牛肉なんてものは産まれてこの方お目にかかれたことがありませんでした。


なんせ牛肉は高いもんですから、食費をケチって豚肉さえ買うのを渋っている始末でございます。眠れない時には羊を数えるものですが、あれはきっと羊肉が不味いからに違いない。寝る前に美味しい肉の味など想像してご覧なさい。たちまち空腹と惨めさで、却って目が覚めること請け合いでしょう。


そんなわけで、わたしは牛肉の味というのを牛脂くらいからしか知る術がないのです。嗚呼、毎日牛肉を食べられたらどれほど幸せでしょう。わたしは寝る前に決まってそう希うのです。羊を数えて眠りについても、夢で見るのは牛のことばかり────



しかしそんなある日、わたしにとってはもちろんのこと、世間にとっても驚くべきことがおこりました。牛丼チェーン店、「ちゅき家」の誕生です。

これまでもいくつか牛丼屋というのはありましたが、牛丼といえばどこも高級で、とてもとても私のような貧民が立ち寄って良いような場所ではございませんでした。


ところがです、どうか聞いて驚かないでいただきたいのですが、このちゅき家、なんと300円も出せば牛丼を食べられるというのだから驚きです。いやはや、300円あれば牛が食べられるとは、良い時代になったものだと、皆口を揃えて言い合っていたものです。


とは言うもののわたしも半信半疑でして、しかしそれも仕方のないというものです。なんせあの牛丼が300円ですから、信じろというほうが土台無理な話です。ところがその疑いも、ちゅき家の牛丼を食べるまでの短いものでした。この牛丼がまぁ美味いこと美味いこと。



初めてちゅき家の牛丼を食べた時のことは今でも鮮明に覚えております。鶏とは違った繊細で上品な舌触り、特筆すべきは豚にはないあのあまい脂でしょう。舌の上でスーッと広がり溶けていく牛肉の脂というのはまこと他の肉では到底味わうことのできない代物です。


その日からというものの、私の昼食は決まってちゅき家の牛丼になりました。いつかはこの味に慣れてしまうのかと恐れもしましたが、そんなものは甚だ杞憂で、食べても食べても飽きることなく、それどころかたまの贅沢にと食べていた豚肉が不味く感じる始末でした。



そんなちゅき家三昧の毎日を謳歌していたある日のことです。ちょっとした用事があって街へ繰り出していたところ、偶然、高等学校の生徒だったころの友人に出会わしたのでございます。彼は北沢くんと言って、今ではなにやら食品メーカーで働いていると聞いておりました。


なんでも北沢くんの勤める会社の取引先にはあのちゅき家も含まれるそうで、私は以前から長らく抱いてある疑問を思い切ってぶつけてみることにしたのです。


「それにしてもちゅき家は美味い割に安すぎる。あの安さにはどういったカラクリがあるんだい、よければ教えてくれないか、北沢くん」


すると北沢くんは自慢げな顔をして私にこう話したのです。


「なんだい君、そんなことも知らないのかい。あれは豚肉を牛脂で焼いているんだよ、だからあんなに安いのさ。君が食べてきたのは牛丼じゃなくて、牛肉風味の豚丼ってわけだね」


翌日、久々にわたしは昼に妻の作る愛妻弁当を摂りました。


(おわり)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

牛肉 星空ゆめ @hoshizorayume

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ