2.リッシュ②

 育児本はなんの役にも立たなかった。

 ミルクを温めるだとか、離乳食に移行する時期だとか、オムツの換え方だとか、そういう手間がないのは楽だと思う。服も要らないし、予防接種も要らない。

 ただ、泣き止まない。いつまでも泣き止まない。不安になる。数々の手間がない一方で、彼女にはなにか決定的に足りないものがあるのではないか。抱きかかえてあやすといった方法があるらしいが、そもそも触れることができない。このまま成長するのかも疑問だ。

 そして、彼以外にリッシュの姿は見えていないこともわかった。彼に「知り合い」と呼べるほどの関係を持った人間はいなかったが、街を歩くだけでも宙に赤子が浮いていれば嫌でも目につくはずだ。だが、奇異の視線を感じることはなかった。


 彼は根無草の生活を続けていた。赤子連れの生活だったが、その赤子は抱く必要もなければ乳母車も要らない。一人旅に近い感覚で街から街へと転々とし、野宿だったりホテルだったりもまちまちだ。どこかに腰を落ち着けたいとも思った。ただ、店のテレビだったり、新聞を目にするたびにその考えは失せていった。

 異能者の危険性が世間に認知されはじめてきたからだ。すでに四十九件、異能者のものと思われる事件が発生している。日本でも同様らしい。軍が秘密裏に開発していた人間兵器が流出しただとか、宇宙人だか異次元がどうとか新人類の覚醒だとか、陰謀論やオカルトも吹聴されていた。


 いずれにせよ、彼が異能者であることが知られればただでは済まないだろう。ましてや、「異能者を増やす異能者」であると知られたなら。


 ***


 育児本も多少は役に立つと思った。

 おおむね書かれているとおりの発育をしている。動くものに興味を示し、ただ泣くだけでなく「あー」とか「うー」とかいわゆる喃語が出てきた。彼も暇を見てそれに応えた。

 そして、妙に腹が減りやすいことにも気づく。どうやらリッシュのぶんまで食べる必要があるらしい。小さいようで、ずいぶんよく食べる。


 原理はわからないが、見えない臍の緒で繋がっているような関係だろう。そうなると気になる点もある。たとえば、赤子には蜂蜜を食べさせるべきではないと聞く。実際に食事を口にしているのは彼自身だ。おそらく気にする必要はない。あるいは、妊婦の食事が参考になるかもしれない。

 鉄分やカルシウムを意識的に摂ることにした。アルコールやカフェインはよくないらしい。コーヒーを飲むのはやめにする。食中毒にも気をつける。実体を持たない彼女にどれだけ意味のあることかはわからないが、できることはしておく。


 そうして、リッシュはたしかに成長していた。

 ただ、触れ合うこともできず、コミュニケーション可能な人間が一人しかいないのは発達上大丈夫なのか――と、彼は訝しんでいた。


 ***


 リッシュがいない。

 あれ以来、四六時中霊のように付き纏っていたリッシュが、その姿を消した。

 朝、目が覚めた直後だった。

 彼は叫んだ。枕をひっくり返したり、シーツを裏返したりして探した。その日は小さなホテルに泊まっていた。隠れるような場所もない。残る部屋はせいぜいバスルーム。どこを探してもいない。いつだってすぐそばにいたはずなのに。


 途方に暮れ、ベッドで腰を落としていたとき、ふわふわと壁を抜けてリッシュは現れた。

 リッシュには質量がない。ゆえに、壁だろうとなんだろうとあらゆる障害物を無視し、平気で抜けられる。壁の向こう――カップルの泊まっていた部屋が気になっていたようだ。

 そのままふわふわ浮かぶリッシュを観察する。いい気なものだ。どうやら、彼を中心に10m内なら自由に動き回れるらしい。


 誤飲だとか階段から転げ落ちるだとか、その手の事故とは無縁と思っていた。好奇心が芽生え出すとこういうことも起きるのだ。

 彼は肝に銘じた。


 ***


「おい、待て! 行くな!」


 リッシュは猫を追いかけている。彼はリッシュを追いかける。

 10m以内なら問題ない。だが、それ以上まで離れようとすると、リッシュの存在感が薄れていくことに気づいた。

 最悪の可能性が頭をよぎる。

 つまりは、死ぬのではないか、と。


 実験してみるには想定される代償があまりに重い。せめて、それが痛みを伴うものならリッシュも下手には動き回らないだろう。だが、その様子はない。生まれつき痛覚を持たない子供は自らをスーパーヒーローと誤認し二階から飛び降りて傷だらけになる。そんなエピソードをどこかで聞いた。彼女もそれと同じなのではないか。


 ゆえに追いかけざるを得ない。平気で壁を抜けるリッシュを追いかけるのは、ときに非常に困難なものとなる。やがて猫を見失い、リッシュはあたりをキョロキョロと見回していた。

 猫も同じように壁を抜けられると思ったのだろう。路地裏まで迷い込んだ先で、リッシュは勝手に建物の中に入ってしまう。


「おい! リッシュ! くそ、入口は……」


 見当たらない。

 リッシュはいわば彼に〈憑依〉している状態にある。

 このまま彷徨い続け、10m、20mと離れ――「接続」が切れてしまったなら。

 そんな想像をしてしまう。

 

「仕方ない」


 レンガの壁を殴って破壊し、穴を開ける。ボイラー室のなにかのようだった。リッシュは機械を興味深そうに眺めていた。


「リッシュ。あまり俺から離れるな」

『おー?』


 言葉はまだ伝わらない。ただ、感情は伝わるはずだ。何度も、言い聞かせるしかない。

 開けてしまった穴は仕方ない。速やかに立ち去って逃げていった。


 ***


 小腹が空いて喫茶店に立ち寄る。リッシュのせいか、妙に腹が空く。

 頼んだものはメドヴィグと紅茶。甘くなった口内を食後に苦味でリフレッシュするのが好みだ。


(食事は、人生において喜びの一つだ。だが、リッシュは?)


 食事というものの意味を解体するなら、それは栄養補給だ。食事を喜びと感じるのは栄養補給を促すための仕組みになる。つまり、リッシュには不要なものだ。彼女はそういった「欲望」から解放された存在であるともいえる。「飯が食えない」ことは憐れむことより羨むことではないのか。彼にはわからなかった。生きるために食うのか、食うために生きるのか。


(ならば、せめて美味そうに食おう)


 事実、美味い。ハチミツの練り込まれた複数のクッキー層にクリームが挟まれ多層的な味わいがある。こうして、なんとはなしに昼間からスイーツを突くのはささやかな幸福ですらある。

 だが、彼は。

 目の端で、妊婦を見た。

 食後の紅茶がまだ届いてもないのに、彼は会計だけ置いてそそくさと店を立ち去った。

 妊婦は奥の席に座っていた。距離は10mほどだったか。

 彼は彼自身の異能について、その正確な発動条件を知らない。気軽に実験できるようなものでもないからだ。

 10mという距離は範囲内だったのか。あるいは、接触時間はどうか。

 確認しようもないし、確認しようという行為は発動の確率を上げる。

 彼はただ、逃げた。

 リッシュは不思議そうな顔をしていた。


 ***


「こんばんわ」


 貸し切り状態だった小さなレストランを彼は訪ねた。表の若い警備を静かにしてもらった。丸机を囲む四人の男たちは煙々もくもくと煙草をふかしながら、眉をひそめながら部外者の若者を睨みつけていた。


「なんだ、てめえは」


 なにか面白い反応でも期待していたが、返ってきたのはあまりにもありきたりでつまらないものだった。かといって、彼自身もさほど気の利いた挨拶ができるわけでもなかった。


「お前たちを軽くタコ殴りに」


 さすがは暴力の世界で食っている男たちだ。敵意を向けられてからの反応は早かった。だが、動きがあまりに遅い。懐に手を伸ばし、拳銃のグリップを掴み、引き抜く。その動作が完了するより早く、彼は軽く床を蹴って跳び上がり、足で中央の男の首を挟んだ。両手を机について支点とし、椅子から引き抜いて投げ飛ばす。太った男は半回転して頭から床に叩きつけられた。殺すつもりはなかったが、受け身もできている様子もなかったから死んだかもしれない。


「……?」


 懐から銃を引き抜くことができた男たちも、なにが起こったのか理解できずに呆けていた。隙だらけだ。顎を蹴り飛ばして昏倒させる。さすがにこれくらいでは死なないだろう。


「終わりか。楽な仕事だ」


 食っていくには金が要る。

 そのうえ二人分だ。リッシュを下手に彷徨かせないためにも、興味を惹ける玩具や絵本が欲しかった。できれば部屋も借りたいが、長居はできないので余計に金がかかる。

 だが、身分証明の術を持たぬものにありつける仕事はかぎられている。すなわち、社会の裏側に属する仕事である。

 そんな条件で彼に生かせる職能スキルは「暴力」以外にはない。彼にとっては途方もなく楽な仕事でありながら利率もよかった。それは用心棒と呼ばれる仕事であり、あるいは殴り込みとも呼ばれた。

 銃や刃物で武装していても彼にとってはなんの脅威でもなかった。あまりに鈍い動きは欠伸しながらでも対処できた。苦労したのは、適度に手加減することである。

 今回の仕事は「標的を適度に痛めつける」こと。これだけで数ヶ月は食うに困らない。


「ん?」


 仕事を終えたはずの彼は違和感を覚えた。まだ言語化できない、直感的な違和感だ。その原因を探るため彼は倒れた男たちを観察した。

 一人、二人、三人、四人。全員倒れている。起き上がって反撃してくることはない。机を見る。椅子が五つ。


『さぶろー!』


 咄嗟に身構え、躱した。もう一人いた。トイレから戻ってきた男が影から拳銃を撃ってきていた。すぐに距離を詰め、がむしゃらな乱射を避けながら、男の頭部を柱に打ちつけて昏倒させた。


「……これで、全員か」


 油断していた。いくら相手が鈍間な人間でも、拳銃の威力が変わるわけではない。異能者とて、撃たれれば死ぬのだ。


「よくやった。リッシュ。お前のおかげだ。お前がいなければどうなっていたか……肝が冷えた……」


 リッシュには触れることはできない。撫でるような動作だけ見せる。彼女にはそれで十分のようだった。


「帰るか。……リッシュ?」


 一難は去ったはずだった。だが、もう一難。


「おい、リッシュ!」


 姿が見えない。彼は慌てて探し回った。

 なぜ消えた。壁や床を抜けてどこかへ向かったのか。なぜ。それとも、なんらかの要因で消滅したのか。彼女の異能には他に前例がない。長い付き合いだが危険性リスクをおそれて特性を見極めるための実験はしてこなかった。


(だとしても、なにが原因だ。俺がなにをした? 敵に気づかなかった間抜けをやった。リッシュが気づいた。それを褒めた。褒めたのが、悪いのか……?)

『にぇへへ』


 ひょいっと姿を見せたリッシュは、周囲にはもう敵はいないと告げた。彼女は、あからさまに褒められたがっていた。

 彼はそのさまに、愛おしさより危うさを感じていた。彼女はきっと、そのためならあるいは、どんな危険も辞さない。何十mも離れて、遠くまで、彼に喜ばれる情報を求めて彷徨うだろう。そんな光景が目に浮かんだ。


(そうか、そうなのか)


 リッシュには実体がない。食事の喜びがない。およそ人間としての喜びはほとんどが欠けているといっていい。そのうちで彼女が得られる唯一の人間的喜びは、つまり「サブロウ」なのだ。彼女と唯一コミュニケーション可能な、世界との接点。彼女にはそれしかない。


(俺は、どうすればいい)


 サブロウは、彼女を褒めることの重さを知った。

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