26.ヴァディム・ガーリン②
【00:57】
デッドロックという現象がある。
処理Aが処理Bの終了を必要とし、処理Bが処理Aの終了を必要とする。互いに互いの終了を待つためにどちらの処理も終了しない、行き詰まりの状態である。
異能でも同じことが起こりうる。
たとえば、目が合っている間だけ相手を拘束することのできる異能があったとする。互いがその異能を有していたとき、互いに身動きが取れなくなる。目線を切れば解除できるが、目線を切るための身動きができないからだ。
そのような状況が発生することは極めて稀だ。同じ発生条件で同じ効果を持つ異能者同士が出会うということがまずないし、仮に出会ったとしても外因によって解除される。第三者が視線を遮るなり両者のいずれかを動かすなりすればよい。つまり、第三者の排除された環境でなければデッドロックは起こらない。
その二つの「稀」を補うのが魅々山迷杜の異能〈隔世〉である。囚われたものは互いに異能を共有する。つまり、一人が該当の異能を持っていればよい。そしてその発動条件が「目を合わせる」ことであるなら、魅々山のものと重なる。〈隔世〉の発動条件が「目を合わせる」ことであるため、その開始時点では「目が合っている」ことになる。
それでも「稀」だ。多種多様に存在する異能のうち、そのような異能をたまたま引く確率は高くない。そして普段であれば事前に相手を調べたうえ、「なさそうだ」という判断も加える。
今回は緊急時ゆえに後者を怠った。
(だけど、だからといって……!)
動けない。指先一つ、瞬き一つできない。
彼女はそのような異能者がいることを知っていた。事前調査で、〈不死〉と同じように相手にすべきではない異能としてリストに連ねていた。名前も知っていたので、その名がランキングから消えた日には安堵したものだった。
(同じような異能者がいないとはかぎらない、けど、よりによって……!)
だが、違和感があった。異能の共有には「そのような異能が使える」という実感が伴う。この類の、発動条件の明確な異能はそうだ。わかりにくいのは、発動条件が特殊なもの。自身以外の異能の存在を前提とするもの。魅々山がいま感じているのは、そのときの感覚に似ていた。
「что?(なんだ?)」
ヴァディムが、ふいと目を背けた。突如巻き込まれた異常な光景――白紙の世界に戸惑っている。魅々山はそのような相手をこれまでも何度も見てきた。
結果、魅々山は解放される。
(あれ?)
ただ、いつもと異なるのは、魅々山もまた戸惑っているということ。魅々山も知らない、なにか異常なことが起こっている。
(羽犬塚はこいつについてなんと言ってた? 食われそうになった。得体の知れない。一人じゃない……)
その意味が、こうして面と向かい、同じ〈隔世〉に入ったことで、朧げながらわかってきた。
「えーっと、ヴァディム? こんにちは。こんばんは? この世界についてだけど……」
「Я не понимаю японский(日本語はわからない)」
(うわ……)
あまりに相性が悪い。
実感しがたい異能。通じない言葉。魅々山の有利は尽く潰されている。
(せめて、あいつの異能がわかれば……)
ついさっき身体が縛られていたのは異能の効果に違いない。だが、その発動条件は「目を合わせる」ことではない。「目を合わせる」であったならヴァディムも動けるはずはないからだ。魅々山も自らの異能を長らく「触れる」ことが条件だと偽ってきた。ヴァディムも「目を合わせる」以外になんらかの条件を満たしていた可能性がある。
(あの状態でヴァディムだけが満たしていた条件。いったいどんな……? いや――)
なにかが違う。前提から間違えている。そんな直感があった。
「Хорошо(まあいい)」
ヴァディムが右腕を振り上げ、左に捻る。手刀のような構えだ。そしてそのまま、手刀のような所作で斜めに空を切って振り下ろした。
「え?」
明らかにそれは遠隔攻撃系の異能動作だった。初見であっても、動きを見れば軌道を読めなくはないものだ。しかし、異能は一人一種。なにより、そのような動作で発動できる異能であるなら、魅々山にも当たり前に使えるはずである。
例外的な「異常」を前に、歴戦の彼女も判断が大きく遅れた。
結果が、両足の喪失である。
「あああああ!?」
両足を切断され、彼女は地べたに倒れ伏した。痛みはなく、出血もない。そういう異能であることは明らかだ。
(なんで? あいつの異能は拘束系じゃ……そうじゃなくて、いや――)
思考がまとまらない。ヴァディムは倒れた魅々山のもとに歩み寄ってくる。そして、彼女はようやく筋の通る仮説に辿り着く。
(羽犬塚は食われそうになったって……食う? 食らうことが発動条件の異能? つまり……)
異能は一人一種。これは絶対条件であるはずだ。
しかし、それが「異能を奪う」異能であったなら?
(うそでしょ。つまり私は、あいつを食えばあいつの異能を奪えるって?)
魅々山の〈隔世〉に招かれたなら、両者の異能は共有される。ただし、その「練度」は別だ。一方的に慣れたルールに招き入れる彼女の異能はしばしば「卑怯」と罵られるが、彼女に有利な要素ばかりではない。彼女は慣れない異能で戦うことになるからだ。
そして、ヴァディムの異能もまた同様。彼が彼の異能で手に入れた異能は、いわば「練度」であり「成果物」である。ゆえに、それが共有されることはない。
(こんな、ここまで相性の悪いやつが……! しかも、なんで目の前に……!)
これ以上の不運はないと思った。だが、まだ一つだけ可能性が残されていた。
彼はこの〈隔世〉のルールを知らない。つまり「止めは素手」でなければならないというルールだ。それに反すれば「負け」となる。魅々山にとってはそれこそが最大の勝機である。
だが、ヴァディムは歩く。魅々山の両足を切断して動けなくしたうえで、接近してきていた。
(さっきの、手刀を飛ばすよくわかんないやつで止めを刺せばいいのに!)
素手では倒せない。そう思わせる必要がある。だが、先手を取られ両足を失い、世界の解像度も低い今ではイメージの具現もできない。
(ど、どうすれば……)
悩み、這いずり回るうちに、ヴァディムは背から馬乗りになり魅々山の頭部を鷲掴みにしていた。そのまま首でも折られるのかと恐れたが、しばらくはその態勢のままだった。
(なに……? いったい……)
「なるほど。そういうことか」
解像度が鮮明になる。彼と出会った曲がり角が見える。戦争の後の瓦礫が見える。石畳が剥げている。夜は深く、月が明るい。これはヴァディムがすべてを理解したことを意味していた。
「え、日本語……?」
「理解した。止めは素手で、か」
「ま、待っ――!」
細い首を、両手でただ力任せに握り締める。イメージの具現で振り払うつもりが、力は完全に拮抗していた。火花が散り、雷が落ち、隕石が降る。そのすべてが届かない。空気分子の操作も小人の軍団も針の筵もなにもかも。溶岩も吹雪も地割れも嵐も重力反転も意味がない。蟻も蜂も蛇も獅子も象も鮫も。王水も絶対零度も重力崩壊も核融合反応でさえも。己を巻き込んで消し飛ばすことを厭わぬほどの過剰攻撃の数々――のはずだった。すべてが虚しく泡のように弾けて消える。ありとあらゆる攻撃の夢想が掻き消されていく。
ヴァディムは〈隔世〉のすべてを理解し、その力を使いこなしていた。
(まさか、さっきの――〈追憶〉……!)
記憶を読む異能。頭部を掴むことで対象の記憶を得て、日本語まで習得した。そして、これまでのすべての戦績を今やヴァディムに読まれている。優位性は一つ残らず潰えてしまった。
できることは、ただ暴れること。どれだけ不恰好でも、力のかぎり暴れること。肉体の持つ力だけが、この状況を打開しうる。
「〈隔世〉か。私の保有する異能と組み合わせれば極めて強力だが――勝利した時点で相手は死亡するのか。それでは食えたものではない」
頸動脈が締められている。気道が圧迫されている。爪が食い込み、血が滲む。酸素が滞り、意識が混濁してきた。
(こんな……うそでしょ……死――)
「なにより、貴様は不味そうだ」
***
魅々山迷杜が倒れた。
彼女の目の前に大柄なロシア人――ヴァディム・ガーリンが立ち塞がった、その直後である。
「?」
であれば、彼を次なる標的とすることが、論理的にも筋が通っている。
「んーと、誰?」
「ヴァディム・ガーリンだ。二ノ宮狂美、貴様の異能が欲しい」
「? あげないよ?」
厳つい見た目の男だった。背は190cmを超えるほど高く、体格もガッチリしている。肩幅は広く、胸板は厚く、腕も脚も太く、腰は引き締まっている。彫りの深い顔立ちで眉は薄く、前髪は短く整えられている。そして、射殺すような碧眼。姿から威圧感が滲み出るようだった。
それでも、二ノ宮狂美にとってはなんの問題にもならない。羆ですら恐るるに足らない彼女にとって、人間の常識に収まる程度の体格差などあってないようなものだ。なにも知らぬ傍から見ても、斧を両手に持つ血塗れの女子と格闘家のような体格のロシア人と、どちらが恐ろしいかは議論の分かれるところだろう。
ゆえに、いつものように、両斧を思いっきり、背筋を目一杯に行使して振り上げて、高く跳び上がり、突っ込む。そのまま振り下ろせば、両鎖骨から恥骨まで一直線に人体は断ち砕ける。
が、その宙空の最中で彼女は見た。
言語によっては説明しがたい、“脅威”そのものを見た。
もはや宙に飛び出し慣性運動に任せる他ない刹那、このままではまずいと本能が警報を鳴らした。
「ぃやっ!!」
だから彼女は、斧を投げた。質量を放ることにより作用反作用で空中において身を翻した。攻撃のためでなく回避のために放った斧は、ヴァディムに命中することなく地面に深々と突き刺さった。
「ほう。あそこから避けるか」
心臓が暴れ回っていた。顔から滝のように脂汗が流れた。手が震え、息も苦しい。
それは、彼女が生まれて初めて得た感情。
恐怖、という名で知られるものである。
「な、なに? なんっ……どゆこと、あな、あなた、いったい――誰? なんなの!?」
「獣じみた女だとは思っていたが――本能で天敵を見極める嗅覚もあるのか」
二ノ宮狂美は得物を失った。それでも、素手で人を殺すくらい彼女にとっては造作もない。斧を持たずとも彼女は恐るべき狂獣である。
しかし。たとえ、どのような状態であったとしても。
(勝てない)
そして、殺されると直感した。
彼女は〈不死〉だ。であれば、彼女は決して死ぬことはない。
しかし、相手が「異能を奪う」異能であったなら?
「ひゃあ!」
狂美は、逃げた。
背を向けることも厭わずに、全速力で逃げた。
それをヴァディムは、ロシアの
空間ごと切り裂く、遠隔手刀である。
「あ……」
足首を断たれ、狂美は顔面を強かに地面に打ちつけ倒れた。
狂美は這った。這って逃げた。這いながら、逃げられない、と悟った。ならば、向かうしかない。
両足は失われている。彼女は腕の力だけで跳ね上がった。宙で回転し、加速し、その拳は敵の脳天を捉える。
ヴァディムにとって、その反撃は不意を衝かれたものであった。
しかし。
なにごともなかったかのように、狂美は力なく枯れ葉のように落ちていった。
「あまり傷つけたくはない。暴れるな」
狂美の背にヴァディムはのしかかり、手のひらを軽く目の前に翳す。それだけで、抵抗も虚しく二ノ宮狂美は深い眠りへと落ちていった。
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