第2話
*** 2 ***
久しぶりに、あの日の夢を見た。
目に見える世界はもはや、赤と黒ででたらめに塗りつぶされていた。
都市を飲み込む炎が踊り、無骨な瓦礫の山を平らげていく。鉄骨の間から見える手首は崩壊した家屋からありえない方向に伸びていた。すすり泣く様な声も、助けを求める叫びも、もう数日は聞いていない。そこから立ち上る煙は同じように真っ黒な空へ向かって、やたら緩慢に登っていく。星も月もない空にじっくりと染み込むように広がるので、いつ霧散したのかもわからない。
いや、赤と黒だけではなかった。
軋む体と折れかけた心に無理を強いて、視線を上げる。ビルの崩壊したマンハッタンにあって、見上げるものはもうそいつしかいない。
――“堕天使”。
これだけの戦闘を経てなお新品の絹のような、あまりに白すぎる体躯が無遠慮にそびえ立っている。
見せつけられる彼我の差は、歴然としていた。
『ねぇ
靄の向こうから聞こえるような不鮮明な声。
あの日、あの地獄の中で彼女が最後にした問いへ、まだ答えの出せない僕を責めるように。
それは何度も、何度も、何度も――
「――
不穏な文言と共に、三半規管が回転を感知する。意識が覚醒へとひっぱりだされるよりも、衝撃が右肘を中心に鈍く広がるほうが早かった――これに関しては、しかたない。この時間に起こすよう命令しておいて、起きなかったのは僕だ。
毛布の出口を求めて振り回した左手から手応えが消える。頭を脱出させれば眼前に形の良い膝小僧が見えた。見上げる。仄かに色素の薄い髪が肩上で切りそろえられて揺れている。半開きの茶色がかった目は不機嫌そうにも眠そうにも見えるが、これもいつも通り。どちらかといえば僕をひっくり返す口実があったので機嫌はいいほうだと思う。
「……おはよう、レイ」
「おはようございます、トーリ。朝ごはんができています」
にこりとも笑わず、僕らは挨拶を交わした。
「それで、慣れない早起きまでして今日はどちらに向かっているんですか、トーリ」
左の車窓に流れていく神奈川の海岸線にかぶりついていたレイが、飽きた様子で後部座席に寝転がる。そういえば海はまだバーチャルフィールドでしか見せたことがなかったかもしれない。
「別に早起きが苦手なわけじゃないよ。寝るのが好きなだけ。それとシートベルトをしなさいレイ」
「貴方がその気になれば必要な睡眠を三分に圧縮可能かと思いますが。無駄は不要です」
どうやら最後のはシートベルトのことも言っているらしい。レイの持つ魔力と肉体強度を考えればそうなのだが、できれば交通法で前科がつくのは避けたい。
「確かに、魔術師はその気になれば大抵のことは省略できる。だからこそ、その在り方には無駄がなくちゃだめなんだ」
「トーリの部屋にあった魔術教本の記述と矛盾します。科学にしろ魔術にしろ、技術とは人間が効率よく生きるために編み出された知恵であるはずではないのですか?」
「同じことだ。効率よくできれば余暇が生まれる。そうすれば無駄なことに時間を使える。それだけ」
煙に巻く様な事を言ってみると、案の定ミラー越しのレイの口元が不満足げにくいっとゆがむ。僕も世界を回って結構な人間を見た自負はあったのだが、レイほどきれいにへの字口を作る人間をぼくは知らない。
――いや、レイは正確には人間ではなくて、ドールなのだが。
あの日神秘省からドールを持ちかえって、今日でだいたいひと月ほど経つ。個人の魔法陣でできることは一通り検証が済んでいる。結果から言えば、不可解なことが百程度判ったのに対し、新しく判ったことは贔屓目に数えても三か四といったところだろう。一年という猶予がある以上、あまり悠長にはできない。
「今日の行先は昔の知り合いのところだ――名前はウルスラ・“ラボ”……肩書は科学者」
「……それは本当にトーリの知り合いですか? 記憶が正しければ彼女はつい今朝の新聞にも出ていたばかりの名前ですが。確か『世界最高の科学者』『
後半二つに関しては僕としても異論はない。なにせ世界有数の大学がチームで五十年間取り組んで解明できなかった理論の証明を、トイレ休憩のお供にかたづけるような人間だ。これから会いに行くというのに、そんな話を聞くだけで昔の事を思い出して眉間にしわが寄っていくのがわかる。いささか早計だったか、と嘆息したが、どうせいつか会いに行くなら、なるたけ早いほうがいい。もう一人の方……芸術の第一人者には会えない以上選択の余地はない。
「そうだ。それで着く前に一つだけ君に忠告をしておくことがあるんだった。いいか、ウルスラには絶対に『参』を見せるな」
「約束や命令ではなく忠告、ですかトーリ?」
レイがむくりと起き上がり、怪訝そうな顔を見せる。
「実際に会って、その上でどうするか。最後に判断するのはレイに任せる。少なくとも余程の自信があっても今の段階ならやめたほうがいいだろう。十中八九……いや、九分九厘こっちが情報抜かれて大損喰らうだけになる。『弐』までなら見せてもいい」
「……確認ですが、生身の人間ですよね?」
「ウルスラは。ただ、向こうに君と同じ欠片持ちがいてもいなくても、『参』はだめだ」
僕の答えが予想外だったのか、レイは黙り込んで後部座席で考え出してしまった。脅しすぎたかと思ったが、学生時代のウルスラ相手なら『壱』すら見せる気はなかったので、これでも評価にだいぶ手心を加えている。
「トーリ、欠片持ちのドール……“兄弟”は本当に彼女のもとに?」
「それは保証してもいい。何らかの事情で手放していなければだけど。……レイ。君は兄弟と戦うことになっても――」
「くどいです。その問いには既に以前答えました。私は“魂”に辿り着きます。誰よりも早く」
少し驚いたのは、僕の問いに被せ気味の答えに、レイにしては珍しく語調の強さが滲んでいたからだ。
まだ名前も名乗っていないころにした問答を思い出して、愚問だったな、と反省する。
「そのためにはあなたとだって組むのですから、ご心配なくトーリ。今心配していたのは、あちらの兄弟が酷い名前を付けられていないかということです。私のよう――」
レイの恨み言は、瞬間視界に溢れかえった閃光と爆音が遮っていった。
攻撃が来た、と認識するよりも前に、フロントガラス一面に出発前刻んでおいた魔法陣が反応。六芒星を基本とした複雑な文様が紫色の輝きを放つ。術式が飛来した攻撃を弾き、原因の逆探知を仕掛けているのを確認し、思い切りアクセルを踏み込んだ。そのまま江の島へ向かう大橋を一気に進む。
「レイ!
「――いました、距離約三〇〇……あれは、」
煙が晴れた向こう、ビル八階分くらいの高さに、それはいた。
大人にしては小柄な上背と華奢な手足。肉体らしいものが見えたのはそれくらいだった。顔を覆うようなフルフェイスヘルメット、胸部に装着されたユニットからは排熱だろうか、白い蒸気が上がっている。背中から伸びている三対の光学量子翼。埋め込まれた欠片の大元を考えれば、悪趣味な装備だ。腰から下もごてごてとした装甲が敷き詰められている。
そして。その折れそうなほど細い右腕に軽々と、その上背を超えるような無骨な円錐の武器――
「あれが、“科学者のドール”……!」
窓を開けたレイが上半身を乗りだし、宙にとどまるそれを見上げる。運転席からではその表情までは見えない。一体、どんな気持ちでこの遭遇を迎えたのだろうか。
そこまで考えて、自分が漠然と感じていた違和感に気づいた。少し考えてから、スーツの内側に手を入れ拳銃型の魔法具を取り出し、窓から空に向かって打ち上げる。高く駆け上がった光線が一定の高度で停止すると、周囲で混乱している車や人めがけて枝分かれして走り、当たった傍から適当に五キロくらい離れた内陸へと転送していく。
「“転送”。いや、あれは――」
『――あれはウルスラの趣味じゃない!……って思ってる頃かしら?』
僕が疑問を口にするより早く――正確には、僕が疑問を口にするのに正確に被せる形のタイミングで、江の島の鳥居から声が響いた。驚きの対象が移ったレイが声の響いたこちらの方に振り向き、僕と目が合う。
「トーリ、説明を。今の声は……」
「今のがウルスラ……『最悪の科学者』ウルスラ。襲撃犯は“科学者のドール”じゃない。つまり――他の第一人者からの刺客だ」
『流石よく私の事わかってるじゃない! ごきげんよう! 息災かしらマイフレンド“ワイズマン”!』
派手なファンファーレとともに、江の島が、割れた。
「とぉっ!」
あっけにとられる僕らの前を、山の中腹から飛び出した二つの人影が高速で射出されていく。そのうち見慣れた方がこちらに気障な挨拶を向けてくるが、無視して僕は、車を停車させると運転席から江の島に降り立った。もう一つ、ウルスラと並走するように飛び出した影が、きっと彼女のドールだろう。
「どうしますトーリ。ウルスラとは共同戦線を?」
身を乗り出していた窓からレイが器用に車上へと飛び上がる。肩幅に両足を開くと、集中のために目を閉じる。僕はレイの様子を確認して――僕の体から、魂を持たないレイの体へ。
可視化されるほどの生命エネルギーを、流し込んでいく。
「レイ、命令だ。『壱』を使え。そのあとは自分の判断で動いてみろ」
「
レイが青い目を開き、軽く息を吐いた。
「
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