Little Assassin(前編)
十一月に入ると、日増しに冬の寒さが厳しくなってきた。
ハロウィンが終われば、世間は早くもクリスマス一色に染まり始める。
家族や恋人と楽しく、あるいは甘く過ごす一大イベントに備え、あらゆる企業や店舗がここが稼ぎ所と言わんばかりに様々なイベントを企画しては激しいクリスマス商戦を繰り広げている。
同時に年末年始に向けての準備も始まり、年の瀬が迫る慌ただしさから今年もいよいよ大詰めであることが嫌でも実感できるだろう。
あー、クリスマスかー。
今年も仕事が恋人なんだろうなー。
……虚しい現実に気が滅入りながら、私は鋼和市北区の一角にある探偵事務所を訪れた。
「ここだ……」
クロガネ探偵事務所。
市内でも(悪い意味で)有名な探偵が経営する探偵事務所だ。
何かと物騒な依頼や事件を請け負っては周囲にまで被害が拡散してしまうケースが多い故に、トラブルメーカーのレッテルが張られている。
だが、世間での評判は著しく低い一方で、荒事に巻き込まれた依頼人の問題を解決する実力は確かなものらしい。
「ここなら、きっと」
私が持ち込む依頼も解決してくれる……はず。
期待と不安、そして相手がトラブルメーカーという前評判から来る僅かな緊張と恐怖を胸に、玄関ドア横に備え付けられたインターホンのボタンを押そうとした――まさにその時。
「いらっしゃいませ、依頼人の方ですか?」
背後からの声にびくりとし、振り向く。
そこには、私と同年代の若い男が居た。
黒の上下に少し癖のある黒髪、やや鋭い目付きを隠すかのように眼鏡を掛けている。
「こんにちは、クロガネ探偵事務所の黒沢です」
そう自己紹介した男は、私がこれから会おうとした探偵だった。
先のトラブルメーカーのイメージも相成って、その眼差しは凛々しくもどこか刃物のように鋭く冷たい印象を感じさせるものがある……のだが。
右手に提げたトイレットペーパーが入った袋と、左肩に掛けた大きく膨らんだエコバッグから飛び出してその存在を主張する長ネギが、いかにも『買い物帰りの主夫』を彷彿とさせる。
先程まであった筈の不安やら緊張やらがまとめて消し飛んで唖然となる私だが、とりあえず訊ねてみる。
「あ、えっと……ここの探偵さん?」
「はい」
主夫改め探偵は頷いた。
「トラブルメーカーで有名な?」
「はい」
思わずしてしまった失礼な問い掛けにも平然と頷く。
言われ慣れているようだったが、この後すぐ謝罪して依頼の相談に来た旨を伝えた。
「それでは詳しいお話をお伺いしましょう。どうぞ中へ」
黒沢鉄哉――通称クロガネがそう言うと、タイミングよく玄関ドアが開いた。
探偵事務所のドアを開けて私を出迎えたのは、見た目高校生くらいの少女だった。それも、世間を賑わすトップアイドルに匹敵するようなとびっきりの美少女!
「こんにちは、クロガネ探偵事務所にようこそ」
蛍のような綺麗な緑色の義眼が印象的な美少女が凛然と一礼した。
……なんてこった。
こんな超絶美少女に出迎えて貰えるなら、メイド喫茶でなくても毎日ここに来ちゃう。
煩悩という名の本能が疼いたが、流石に相手方に迷惑なので自制する。
事務所内で黒沢と改めて挨拶と名刺交換をする。
ちなみに私を出迎えてコーヒーを運んでくれた美少女も自己紹介してくれた。
彼女の名前は安藤美優といい、黒沢の助手とのことだ。
ちなみに見た目通り女子高生であるらしい。バイトかな?
「
黒沢が訝し気な表情でPIDに表示された電子名刺と私の顔を交互に見た。
トラブルメーカー故、これまでにゴシップ記事の恰好の的になっているからか、記者に対して不信感や警戒心を抱いているのかもしれない。
「今日は記者としてではなく、個人的な依頼をお受けして頂きたくてこちらに伺いました」
先に依頼人であることを強調しておく。
それならば、とこちらの話に耳を傾ける黒沢。仮に取材が目的だと知った時には追い払われるかなと思いつつ話を続ける。
「事前にアポもせずに伺って申し訳ありません。依頼内容は人捜しなのですが、実はこちらに伺う前に別の探偵の方に伺ったところ、『内容的にクロガネ探偵事務所に相談した方が適切だ』と言われまして」
「……もしかして、白野探偵社でしょうか?」
「はい。そこの社長さんから紹介状を書いて貰いました」
ショルダーバッグから『白野探偵社』と印字が捺された封筒を取り出して黒沢に手渡す。
紹介状に目を通した黒沢は、何とも微妙な表情を浮かべた。
同業者で評判の良い商売敵に思うところがあるのだろう。彼の傍で控えている助手の安藤も少し苦笑していた。
紹介状を畳んで封筒に戻して懐にしまうと、黒沢は改めて私に向き合う。
「……当社が適任かについては、その人捜しの依頼の内容を聴いてから判断させてください」
「解りました。それでは、順を追ってお話ししますね。あれは、十三年前――」
いきなり始まった昔話に、黒沢の表情が僅かに強張ったのは言うまでもない。
***
――十三年前、冬の寒い時期のこと。
当時十才だった私は、よく近所の児童館で同年代の子供たちと遊んでいた。
その中に見慣れない、風変わりな男の子が居たのを憶えている。
歳は見た感じ私と同じか少し年下、だったと思う。
お兄さんかお姉さんのお下がりか、オーバーサイズの黒いパーカーを着込んでいた。
その子は私や他の子と一緒に遊ぶどころか誰とも関わろうともせず、話し掛けられても応えず、部屋の隅で膝を抱えてぼんやりと過ごしていた。
男の子は音楽でも聴いているのか、片耳に無線式のイヤホンを着けていた。そのため周囲を拒絶というより無関心な男の子に、私はそれ以上の興味を持たず、他の子と遊んでいた。
事件はその時起こった。
大人たちの叫び。
子供たちの悲鳴。
そして銃声。
突然、身体の大きな外国人が何人も土足で館内に上がり込み、その手にはテレビや漫画でしか見たことのない拳銃が握られていた。
訳も解らない内に子供たちは全員外に連れ出され、盗んだと思しき宅配トラックの荷台に乗せられた。私も、あの男の子も乗せられた。
数人の外国人が荷台に同乗し、「声を上げたら殺す」と片言の日本語で脅してきた。それが通じなかった子供が騒ごうとした寸前、近くに居たあの男の子が素早くその子供の口を手で塞いだ。
それを見た外国人が向けていた銃口を下ろして睨み付けると、口を塞がれた子供もその周囲も自分たちが置かれた状況をようやく把握したのか、怯えながら口を閉ざした。
――当時、開発されて間もない鋼和市は現在ほどAIセキュリティが整っておらず、本土から離れた人工島であることと世界的に税関の緩い日本の国柄も重なり、国内外の犯罪者が市内に潜伏してしまうという社会問題を抱えていた。
今回の事件は白昼堂々の集団誘拐。
標的は年端もない子供たち。
彼らを『商品』として取り扱う人身売買組織の犯行によるものだ。
勿論、警察も動いてはいるが、裏に海外の有力マフィアが複数関与し、それに政治的なものが絡んで捜査は進展せず、事が発覚した時点で既に手遅れである。
大人の情欲を満たすための性奴隷。
解体されて多額で取引される臓器。
戦争の駒として洗脳された少年兵。
攫われて売られた子供たちの末路はどれも悲惨なものだと知った時の衝撃は、まだ子供だった私には到底信じられないものだった。
やがてトラックが静止して荷台から降ろされると、そこには大小様々な金属製のコンテナが置かれた肌寒い建物の中に私達は居た。
当時の私は幼さ故の無知とパニックになっていたこともあってよく解らなかったが、そこは建物ではなく、密輸入品を隠すためにバラストタンクを改装した貨物船の中だったらしい。
攫われた子供たちはそのまま『商品』として海外に売り飛ばされる予定だった。
船内には日本人の大人も居たが、全員が誘拐犯の仲間らしく、子供たちを見る目は冷ややかだった。
人間らしい温かな感情はなく、ただ『商品』を見る目。そしてその先にある札束を見ていたのだろう。
暗い船倉に閉じ込められた子供たちは、当然ながら泣き出した。
私も不安と恐怖と絶望のあまり泣いた。
唯一人泣かなかったのは、あの男の子だ。
彼は泣きもせず淡々としており、時折片耳に着けていたイヤホンを一定の間隔で何度も指先で叩いている。
この期に及んで音楽を聴いているのか?
その冷静で自然体な姿が頼もしく思う前に不気味だった。
「怖くないの?」
恐る恐る私は訊ねると、彼は表情を変えずに頷いた。
「大丈夫」
初めて交わした会話でも、彼は指先でトントンとイヤホンを叩いている。接触不良でよく聴こえないのかな?
「私たち、どうなるんだろ?」
「売られるんだよ。みんな、外国に連れて行かれて、そこで売られる」
淡々と無情な現実を告げる彼に、必死になって否定する。
「ウソだよね? そんなの絶対ウソだよ」
泣き出す私をよそに、彼は変わらずイヤホンを一定の間隔で叩いている。
「家に、帰りたい」
「帰れるさ」
力強い即答に顔を上げる。
イヤホンから手を下ろした彼が断言する。
「僕らは売られる前に助かる。そして帰れる」
「本当?」
縋る思いで訊ねる私に彼は頷いた。
「もうすぐ、助けが来る。それまでの辛抱だよ」
「どうして」
解るの? と訊ねる前に、船倉の扉が開いて犯人たちが入ってきた。
邪魔だとばかりに近くに居た年少の男の子を蹴飛ばし、女の子だけを選んで立たせていく。
ここで男女を選別し、別々の場所に隔離するのか。
あるいは犯人たちの妙にギラついた目からして、女の子だけに特別な用事があるのか。私も腕を掴まれて強引に立たせられ、品定めするように服をめくられた。
怖くて身動き出来ずされるがままになっていた私は、例の男の子を見る。彼は冷静に犯人たちの手や脇、腰回りなどに視線を配っていた。
この時、彼が犯人の人数と立ち位置、そして武器の所在を確認していたことを知るのはすぐだった。
最初に蹴飛ばされた五歳くらいの男の子が、ずっと大声で泣き喚いていたのが気に障ったのか、犯人の一人が拳銃を抜いて躊躇いもなく引き金を引いた。
乾いた銃声が室内に響き、頭から血を噴き出してその男の子が倒れ伏した。
私を含め他の子供たちが短い悲鳴を上げて言葉を失う。
暗い室内でも解る真っ赤な血が床に広がり、ピクリともしない男の子。
初めて人が撃ち殺された光景を見てしまって頭が真っ白になった時、プシュッと空気が鋭く抜けるような音がしたと思ったら、男の子を射殺した犯人が胸から血を噴いてその場に崩れ落ちた。
その後も立て続けに音が鳴り、その数だけ室内に居た犯人たちは胸や頭から血を流して次々と倒れていく。
気付けば、例の男の子がゾッとするような無表情で拳銃を構えていた。
子供の手でも収まるような小型拳銃の銃口には、銃声を抑制するサプレッサーが取り付けられていた。
彼は倒れた犯人たちの頭を次々と撃ち抜いて念入りにトドメを刺しながら、年少の子供を殺した犯人の元に歩み寄る。
半死半生の犯人は男の子に銃口を向けようとするも、即座に銃弾を心臓に二発、頭に一発撃ち込まれて息絶えた。
自分と同年代の男の子が、大の男達を一方的に殺していくという非現実的かつ恐ろしい光景を前に私達は皆言葉を失っていると、
「ここで待っていて。もうすぐ助けが来てくれるから」
淡々とそう言い残した男の子は慣れた手付きで弾倉交換をしてナイフまで抜くと、船倉から出て行ってしまった。
――その後、児童館で子供たちが誘拐されたとの通報を受けた警察が貨物船に特殊部隊を突入させるも、その時には既に人身売買組織の実行犯グループ全員が射殺、或いは鋭利な刃物で刺殺されていたらしい。
誘拐された子供たちは射殺されてしまった一人を除いた全員が救助されたと報道された。
……その中に、私達を助けるために手を汚してくれたあの男の子の存在はなかった。
報道だけでなく、あの児童館にはそのような少年は最初から存在していないことになっていた。
当事者である私達が証言しても、まだ子供で度が過ぎた恐怖体験による錯覚や幻覚として扱われ、丁重にカウンセリング治療を受けることになる。
警察も犯罪組織の追及を主に捜査を始めてしまい、彼の行方を追ってはくれなかった。
時が流れ、年月が過ぎ、被害者である当時の子供たちは忌まわしい記憶を忘れ去って社会に復帰していき、事件そのものの記録も色褪せ、風化していった。
それでも、私はずっと憶えている。あの男の子のことを。
そして今でも、彼を捜しているのだ。
決して忘れようのない、あの恐ろしくも鮮烈な光景と共に、この目に焼き付いた私の命の恩人を。
***
「……つまり、その命の恩人を捜して欲しいというわけですか?」
話を最後まで聞いた黒沢がそう確認して来たので「その通りです」と頷く。
「あの事件からもう十三年。ずっと捜し続けているものの手掛かりらしきものは何一つなくて、もう手詰まりだったんです」
「それで
気難しそうな顔を浮かべる黒沢。
予想はしていたが、流石に「十三年前当時の男の子を捜して欲しい」という無茶な依頼に気後れしているようだ。しかも、犯罪者を躊躇なく殺す物騒な存在であれば当然である。
「それでどうでしょうか? この依頼を引き受けてくれますか?」
躊躇いがちに訊ねると、黒沢は「仮にですよ?」と断りを入れる。
「仮にこの依頼を引き受けて首尾よくお捜しの方を見付けた場合、貴女はどうされるのですか?」
「どうも何も」
私は即答する。
「あの時助けて貰ったお礼を言います。貴方のお陰で、今こうして私は元気で居ることを伝えます」
「……それだけですか?」
「はい、それだけです」
「それだけのために、十三年もその物騒な人を捜していると?」
「はい」
「もしかしてですが、記者になられたのも?」
「彼の手掛かりが見付けやすいかなと思ったからです」
黒沢は絶句する。彼の助手も同様だ。
――命の恩人にお礼を言う。
そのためだけに、私がこれまでの人生を捧げてきたことに呆れているのだろう。
まぁ、私の家族も友人も呆れていたから当然といえば当然の反応だ。
「私は、本気です」
呆れられても良い、笑われても良い、正気を疑われても構わない。
だけど。
彼の存在だけは、何人たりとも否定はさせない。
「……当時小学生の年齢だった子供が躊躇いなく人を殺したのであれば、今も昔もほぼ間違いなく裏社会に属する存在でしょう。
報酬金額もそれなりに掛かるとお考え下さい」
思わせぶりな黒沢の口ぶりに、希望で胸が弾む。
「それでは?」
「こちらが可能な限り調べられる範囲で、という前提になりますが、澤井さんの依頼をお引き受けしましょう」
待ち望んでいた言葉に高揚する。
「ありがとうございますっ、よろしくお願いします!」
彼を捜す味方が出来たことがとても嬉しい。
満面の笑顔を浮かべているのが自分でも解る。
「それでは契約書を取り交わしながら、具体的な調査期間と報酬額について詰めていきましょう。お時間の方は大丈夫でしょうか?」
「はいっ、もう何時間でも! 何なら日を跨いでも大丈夫です!」
「……それは流石に、こちらの営業時間を考慮して頂けると幸いです」
***
澤井詩歌が持ち込んできた人捜しの依頼を引き受けたその日の内に調査期間と報酬額について細かく打ち合わせた後、晴れ晴れとした表情で澤井はクロガネ探偵事務所を後にした。
気付けば既に陽が沈みかけ、冬の肌寒さと共に夜がやって来る。
「ちょうど店仕舞いだな」
クロガネは玄関の掛札を『CLOSE』にして施錠する。
そして万一にも盗聴器が仕掛けられていないか、澤井が座っていた来客用のソファーやテーブルの下を注意深く確認した。うん、異常なし。
キッチンで手を洗うと、冷蔵庫を開けて先程買い出した食材を改め、夕飯の準備に取り掛かる。
「クロガネさん」
「んー?」
その横で澤井に出したティーセットを洗っていた美優が訊ねてきた。
「澤井さんのお話に出ていた男の子って、クロガネさんのことですよね?」
「そうだな」
あっさりと認めつつ、絹ごし豆腐を取り出す。
今夜は質素かつ豪勢に見える湯豆腐にしよう。寒い日にピッタリだ。
「十三年前、当時八歳だったクロガネさんも関与していた児童集団誘拐事件。そして……」
不意に言葉を切った美優の後を、クロガネが引き継ぐ。
「俺が暗殺者デビューした一件だ。まさか、その当事者が今になって現れるとは思ってもみなかったけど」
鍋に水を張って出汁となる昆布を入れ、火に掛ける。
「これから、どうするのです?」
「出汁が取れたらそのまま豆腐を入れて」
「いや、そっちじゃなくて澤井さんの方です。お捜しの本人がここに居る以上、依頼自体達成されたも同然では?」
「うん、どうしようかな」
長ネギを刻みながらそう答えると、美優は洗ったティーカップを拭きながらその整い過ぎる眉をひそめた。
「自分が件の男の子であると名乗り出ないのですか?」
「当時の俺は現役の殺し屋だぞ。ゼロナンバーも絡む情報をおいそれと一般人に教えるわけにいかないだろ」
鋼和市の実質的支配者である獅子堂重工を、影から守る特殊部隊。
かつてクロガネはそのゼロナンバーに所属する凄腕の暗殺者であり、十三年前の幼少期はゼロナンバーの次代候補者だった。
当然だが、ゼロナンバーの存在は非公式であり禁忌である。その存在を知った者も知らせた者も前触れも例外もなく『処理』される。
「それなら、どうして彼女の依頼を引き受けたのです?」
「どうしてって……」
美優のもっともな質問に、クロガネはどこか気まずそうに答えた。
「十三年間も自分の大切な時間を削ってまで俺のことを捜していたんだ。俺から名乗り出ることは無いにしても、その努力には報いてあげたい」
それが自分に出来る精一杯の誠意であると。
「……相変わらず人が好いですね」
「そう?」
それならば、と美優は己が主の方針に従う。
「では、澤井さんの依頼は期限一杯まで調べるだけ調べるフリをして、『残念ですが、お捜しの方は見付かりませんでした』と言って報酬の最大値を毟り取りますか?」
「言い方よ」
誠意を示すにしても、澤井が納得する結果を出さなければならない。
例えそれが無意味な人捜しであり、最終的にクロガネ本人が名乗り出ることがなかったとしても。
「とりあえず」
沸騰し始めた出汁湯に、切り分けた豆腐を投入する。
「今後は俺のことを嗅ぎ回らないように、依頼人が納得する形で解決する方法を考える」
まずそれが前提である。
「期限一杯まで引っ張るのは、否定しないんですね」
「それはまぁ、こっちも仕事だからな」
ジト目で言う美優に、クロガネは曖昧に苦笑した。
***
鋼和市郊外にある一等地に一際大きな屋敷がある。
鋼和市という実験都市建設の
広すぎる屋敷には、当主である獅子堂光彦とその親族を守る影の守護者――
屋敷の二階奥にある会議室。
無線でのネット回線が断絶され完全にスタンドアローン状態であるこの部屋は、使用人も滅多に近付くことがなく、聞き耳を立てられることもない。更に壁には消音用の振動装置が備わっている。
ここでは世界経済の数%を握る獅子堂重工の重鎮たちの重要な会議や商談の他、ゼロナンバーの作戦会議室としても利用されているため、徹底した盗聴防止策は当然と言えよう。
その会議室内に三人分の人影があった。
一人目。
〈シエラゼロ/スナイパー〉の
二人目。
〈デルタゼロ/ドールメーカー〉が操るアンドロイド端末――出嶋仁志。
そして三人目。
小柄だが威風堂々とした隙の無い佇まいと支配者の風格を漂わせた壮年の男性――獅子堂家当主、獅子堂光彦その人である。
「――先月末に怪盗〈幻影紳士〉……〈インディアゼロ/イリュージョン〉が行った諜報任務において、調査対象だった邪神級指定HPL【混沌】が安藤美優・白野銀子の獅子堂家令嬢二名を拉致。この緊急事態に対処すべく〈シエラゼロ/スナイパー〉の謹慎を解除。以降は謹慎先だったクロガネ探偵事務所にて、安藤美優の常時護衛任務を行う……とのことで、よろしいですか?」
「うむ」
ナディアの横に並び立ち、ゼロナンバー隊長代理として辞令を読み上げて確認した出嶋に、正面の議長席に座した光彦は重々しく頷いた。
「――美優が私立才羽学園に通っている間は、同じクラスに潜入した〈イリュージョン〉が直接護衛を務めます。また、近日中に用務員として僕のアンドロイド端末が護衛に就く予定です」
「銀子の方は?」
「――引き続き〈イリュージョン〉が専属の護衛を務めます。また銀子様は知る由もありませんが、白野探偵社に女性従業員として僕のガイノイド端末を二体送り込みました。美優の護衛で〈イリュージョン〉が不在の時も万全です」
「護衛をいくら増やしてもHPLが絡んだら、まだまだ足りん……と言い出したらキリがないな。しっかり頼む」
「――御意」
主の激励に
と。
ここで話に一区切り付いたのを見計らったナディアが、おずおずと手を挙げる。
「アノ、ワタシも話して良いカ……良いですカ?」
「どうぞ」と促す光彦。
「謹慎が解除されてミユの護衛をするってことハ、装備はどこまでOKなのかなト」
「――携行性も考慮して、第三種装備までなら許可するよ」
「ライフルが使えるのカ」
得意分野である狙撃の解禁にナディアは表情を明るくする。
「――既に当局を初め関係各所に獅子堂の名を使って通達済みだ。仮に警察の職務質問を受けても、君のIDを見せればお咎めなしだーけーど」
出嶋は義眼を鋭くさせて、年若い狙撃手を見た。
「――有事の際は、可能な限り周囲に目撃されたり巻き込んだりしないように。火消しが面倒だからね」
「……チッ」
「――舌打ちしない。それと早速だが〈スナイパー〉、君に任務だ」
「ハ? 話の流れからしテ、ミユに纏わりついた悪い虫を撃ち殺せト?」
「――全然違うし、そこまで言ってない」
「もしそうなら
「――ご当主!?」
ガイノイドとはいえ、病死した愛娘が遺した孫娘同然の美優が絡むと多少ブレーキが効かなくなる困ったお爺ちゃんである。
「――ああ、でも纏わりついているのはある意味正解かな。と言っても、美優ではなくクロガネの方にだけどね」
「スグ殺ソウ♪ スゴク殺ソウ♪」
「――何その物騒極まりない殺伐としたチキ〇ラー〇ンのCMソングは? 色々な意味で危ないからやめなさい」
大好きなクロガネが絡むとアクセル全開で踏み抜くどころか、ロケットブースターまで点火させる困ったヤンデレ少女である。
まったく、と出嶋はPIDを操作して目的の資料ファイルのデータをナディアのPIDに送信。
受信したデータをすぐさま展開したナディアに、出嶋は任務の詳細を語った。
「――標的は女性週刊誌の記者だ。十三年前の児童集団誘拐事件の被害者の一人……なんだけど、どういう訳かこの事件に関与したクロガネの足跡を追っているらしい。
――当時のクロガネはまだゼロナンバー候補者だったとはいえ、我らが獅子堂に属する暗殺者だ。記録は念入りに抹消しているから有り得ないとは思うけど、万が一にも彼の経歴や素性を知られてしまっては困る」
ここで言葉を切った出嶋は、光彦の方を見る。
光彦が真顔で深く頷くのを見た出嶋は、改めてナディアを見る。
「――つまり君に与えられる任務の内容は……言わずとも解るね?」
問われたナディアは、バストアップで表示された女性の写真を暗い眼で見据えた。
「……この女ガ、クロに纏わりつく害虫カ……」
暗く黒い情念を胸に宿したナディアに、出嶋は続ける。
「――名前は澤井詩歌。彼女が今回の
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