2章 オレサマ竜と小夜の雫

1.オレサマは、探しものは得意だからな。

 湯気が立ちのぼるカップにふうふうと息を吹きかけた。おそるおそる口をつけ、ほんのひとくち飲みこむ。

 あったかい。

 やさしいミルクの甘味とほのかなハチミツの香りを口内に残して、柔らかな熱がじんわりお腹に落ちていった。こくんこくんと喉を鳴らし、イェルクはカップを空にした。

 縁飾りが美しい丸皿には焼き菓子がお行儀よく並んでいた。イェルクの手は皿と自身の口を何度も往復した。

 ――大きなため息が響いてきたのは、クッキーを半分ほど攻略した頃だ。

 冬晴れの穏やかな陽射しが降りそそぐ温室の一角。イェルクの向かい側で浮かない顔をしているのはこの屋敷に住む末娘マリーだった。お日さま色のなめらかな髪や薔薇色の頬は今日もきらきら輝いてとても綺麗だ。けれど桜色の小さな唇は両端が下がり、夜明け前の空を思わせる瞳には悲しみの色が宿っていた。

 むぐむぐ口を動かしながらイェルクは首を傾げた。


「食べないのか? オレサマが全部食べるぞ」


 手にしているのは木の実を混ぜこんだクッキー。香ばしい風味はもちろん、木の実を薄くスライスしたものとザクザク刻んだものとでは歯触りが違って楽しくて、最近特に気に入っているひとつだった。

 いつもあっという間に平らげてしまうので「ひとりで食べないで!」と怒られるのがお決まりだ。それが今日のマリーは眉尻を上げてみせることもなく、ただ「いらないわ」と首を横に振った。


「イェルクが食べてちょうだい。わたくしあまり食べたくないんですもの。傷心なのよ」

「ショウシン? ショウシンってなんだ。病気か? どこか痛いのか?」

「違うわ。クロッカスが咲いたの。とっても見たかったのに、勝手に咲いてしまったのよ」

「あ? くろ……」


 イェルクの眉間にしわが寄った。胸の前で両腕を組み、顔を真横にうーんと倒した。くろっさく、くろっすく……小さく呟きながら頭の中をひっくり返してみる。聞き覚えがあるような、ないような。咲く、ということは花だろうか。


「あら、クロッカスをご存じない?」


 マリーがおもむろに席を立った。温室の隅へ向かったと思うとシェルフに乗っていた小ぶりの鉢植えを抱えて戻ってきた。深緑色をした細長い葉が何本も伸び、その真ん中で白い花が顔を出していた。

 イェルクの目がまん丸に見開かれる。


「あーっご存じだぞ! 向こうの山にいっぱい咲くやつ! 慌てん坊なやつだなこいつ。山は雪が降ってたぞ」

「わたくしのクロッカスよ。庭師にお願いしてわけてもらったの。毎日わたくしがお水をあげて、頑張ってお世話したのよ。つぼみが少しずつ膨らんできて、いつ咲くかしらって楽しみに待っていたのに」

「うん、咲いてるぞ。よかったな」

「よくないわ! 花びらがんだもの。わたくしがいないときに咲いちゃだめよ」

「うーん?」


 イェルクはもう一度首を傾げた。咲くのに少女の許可が必要だとは。ヒトに聞こえる声を持たない花にとって、それはなかなか難しい注文ではないだろうか。

 マリーは時々よくわからないことを望む。枝から落ちる松ぼっくりを空中でキャッチしてみたいだの、人差し指を掲げて待てば蝶が留まるようになってほしいだの。そこになんの価値があるのかイェルクにはさっぱりわからない。

 とはいえ笑った顔は可愛らしいし、性根がまっすぐで気立がいい。マリーに真摯な眼差しで「これが見たい、やりたい」と言われれば二つ返事で叶えたくなってしまうものだ。

 よし、とイェルクは席を立った。


「貸せ。もう一回咲かせてやる」

「あらだめよ! だって魔法でしょう? クロッカスに負担がかかるのよね?」

「平気だぞ、咲かせるだけなら簡単簡単」

「だめったらだめなの! 失敗したらお花が可哀想だわ。スミレのときみたいに」


 マリーは上半身を捻り、植木鉢をイェルクから遠ざける。イェルクはむっとして両手を腰に当てた。


「オレサマは竜だぞ! 失敗なんかしない!」


 花に関する失敗はたった一度、少女の欲したスミレをうっかり萎れさせてしまったときだけだ。それだってイェルクからしてみれば失敗というものでもない。花はちゃんと咲いたし、スミレの香りの風だって吹かせてやった。花そのものが欲しかったマリーとはだけで、いつまでも根に持たれては困る。

 少女もむうっと唇を尖らせた。ガーデンシェルフに鉢を戻すとイェルクと同じように両手を腰に当てて眉根を寄せた。出会ってから季節が二度巡り、マリーの目線はイェルクより少しだけ高くなった。その双眸はどこか怒っているように見える。


「虹もだめだったじゃない」

「あ?」

「空いっぱいに大きな虹をかけてくれるって言ったわ。わたくしが歩けるくらいの」

「あー……。空いっぱいは、難しい……」


 イェルクは肩を落とす。数日前の話だった。虹を出せるかと聞かれ、手をくるりと捻って上向けた。宙に小さな虹がぱっと咲いたがマリーの笑顔は咲かなかった。


「おとなは、空いっぱいできる。だから、オレサマも大きくなったらできる!」

「そんなの待っていたらわたくしお婆ちゃんになってしまうわ。わたくしは、今、渡りたいのよ。虹の橋なんてとっても素敵だもの」

「じゃあ探す! 虹が出そうなところはニオイでわかるから、雨が止む前に飛んでいけば」

「雨!? だめよ、また風邪を引くわ。ずっとベッドに閉じこめられて、退屈で退屈で死にそうになるのよ。絶対、だめ!」


 マリーが両手で頬を押さえた。

 沈黙が訪れた。しばらく睨み合い、先に目線を外したのはマリーだった。静かに席に戻った少女にならってイェルクも席につく。


 ――そうだった。ヒトは。我こそはと豪語する者でさえ、竜と比べれば雲泥の差だった。マリーなど何もなくてもすぐ熱を出すのだから話にならない。本当はもっと一緒に遊びたいし、いろんなところに連れていきたいのに。

 クッキーをもそもそかじっていると「ごめんなさい」と小さな声がした。カップを両手で抱え、しゅんと項垂れる少女の姿があった。


「またワガママを言ってしまったわ。淑女たるもの、分別と思いやりを持つようにと言われたばかりなのに」

「あ? シュク……もつ……」

「イェルク、スミレのときは素敵なお花畑を見つけてくれたもの。だから虹だってきっととっても大きなものを探してくれるでしょう?」


 マリーが上目遣いでそっとはにかんだ。イェルクは首を真横に傾けてちょっと考える。虹が見られる時間は花とは違い、うんと短いだろうけど。


「探す」


 こっくり頷いた。

 虹が大きければ大きいだけ、空にかかっている時間は長いだろう。そうすればすっかり消えてしまう前にマリーを虹のへ連れていくことだってできるはず。――そうだ、うんと大きな虹を見つければいいんだ。すごく簡単じゃないか。なんだ安心した。

 少女がぱあっと顔を綻ばせた。途端にあたりの空気が明るく軽やかになった。マリーが少し笑顔を見せただけでこんなにも世界が変わる。イェルク自身もまるで身体の奥から力が湧いてくるようだ。やっぱりマリーはすごい。

 イェルクはクッキーのかけらを口に放りこみ、えへんと胸を張った。


「マリーが言うなら、なんでも見つけてきてやるぞ」

「まあ……、なんでも!? 本当になんでも見つけてくれるの?」

「あ?」


 少女の声色がにわかに華やいだ。青藍の色をした彼女の瞳に星がきらきら輝いて見える。

 マリーはあっという間にテーブルを回りこんで隣にやってきた。イェルクの空いた方の手を両手でぎゅううと握り締めた。


「虹もとっても気になるのだけど……。わたくしね、絵本で見てずっと気になっているものがあるの。ただ、どこに行けばそれが見られるのかわからないのだけど」

「大丈夫だぞ。オレサマは、探しものは得意だからな。すぐに見つけて持ってきてやる」

「まあ! ありがとうイェルク」


 少女はぴょんと飛び上がりその場でくるくると回った。それからイェルクの耳元に顔を寄せた。


「あのね、――」

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