ゐずなや

猟奇學研究所

第1話

晴れ間よりぽつりぽつり垂れた雫は今や篠竹を束ねたような大降りで、狐の嫁入りには些か騒がしい空合いであった。廓より逃げ出した遊女がひとり襤褸傘を差し、雨の通りをしずしず歩いている。紅色の裾引きが箒の様に地を擦り、髷の解けた黒髪がしとしと濡れそぼっていた─。


起きがけ煙管を一服してから女はどうにも具合が悪かった。しかし指切りの契を交わした客を無下にする訳にもいかず、どうにか白粉を塗ろうと鏡を持った。するとそこによく知る顔は無く、代わりに長い髪の間から毛むくじゃらの尖った耳と、人にしては随分と長い鼻先がつんと出ていた。これじゃあまるで狐のようだと、女は切れ長の目を見開いた。まだ寝惚けているのかと、目を擦り頬をぴしゃりと叩き再び鏡を見ても、そこには半人半狐、黒髪の生えた獣の姿が映るばかりで、どうにも恐ろしくなり思わず表に飛び出してしまった。


伏目で傘を前に傾げ、どうにか人様に見られぬようにと足早に道を行くが、通りざまに二度三度と覗き見る者の気配があり、何処からかひそひそと囁き合う声がして、女は少しずつ小走りになり、仕舞いには傘も投げ捨て走り出してしまった。



人通りも寂しい街の外れへ着くと「ゐづなや」という看板が目に入る。妙な名に思わず立ち止まると、丁度表へ出て来た若主人が声を掛けてきた。


「いやあ、よう降りますなあ」


突然の声に女はびく、と肩を跳ね上げ、咄嗟に顔を隠そうとした。しかし困ったことに、今やその手も狐色の毛に覆われ、如何にしようともこのけったいな姿を隠しきれなくなっていた。いやに臀が冷えるのは、いつの間にか生えた尾を引き摺り歩いたからであろうか。


主人はそんな狐の化けたような遊女を見ても、別段驚いた様子もなく話し続けた。


「お風邪を召されちゃあいけませんからね、ご用向きは中でお聞き致しやす。ささ、どうぞお客さん」


客のつもりはなかったが、主人に押し切られるように女は店へと連れて行かれた。“ゐづなや”の中は立ち売りの天麩羅のような、何かを揚げる匂いが漂い、辺り一面大小様々な茶筒や煙草入れ、煙管に竹の水筒などが所狭しと並べられていた。随分と偏屈な店だと、女は思った。


お寒いでしょうから、と主人が茶を入れに奥へと引っ込もうとしたその時、雨で身体のすっかり冷えてしまった女はおもわず嚔をひとつ、「こん」とした。すると驚いたことに、口から白い煙のようなものがひゅっ、と飛び出した。それがまっすぐ店奥目掛けすっ飛んでいき、それを見た主人はおっと声をあげ、近くにあった茶筒をひったくり蓋を開け、飛び出たそれをぱくりと中へ閉じ込めてしまった。


呆気に取られる女に主人は笑いながら云う。


「いやあ、活きが良い“ゐづな”ですなあ!」


女は気づいた。嚔に口を抑えようとした手が人間の、自分のものに戻っている事を。そしてその手で触れた顔が、馴染みのある姿形を取り戻している事に。驚きながら女は尋ねた。


「あのう、その“ゐづな”と云うのは、何のことでありんすか?」


「ああ、お客さんあれですか、ご存知なかったんですかい。ゐづなってえのは所謂、“管狐”のことでございますよ。」


「はあ、で、その管狐とは……」


─管狐、又の名を飯綱。煙管に収まるほどの小振りさで、飯綱使いと呼ばれる者が占術や呪いなどに使役する、狐の姿に似た妖なのだそうだ。聞いたところでちんぷんかんぷんではあったが、ともかく先の嚔によって自分に取り憑いた飯綱が外へ出て、今は元通りになったのだという事を、女は鏡を見て知った。


「きょうび扱いきれずに飯綱を捨てちまう方もおりましてねぇ、野良が増えて悪さをするんです。ですからうちみたいなクダ屋……おっと、ゐづなやが引き取らせて貰っているんでさぁ」


主人によれば、クダ屋と言うといかがわしく評判が悪いのだそう。そもそも飯綱を使役する一族(クダ屋)は何処へ行っても忌まれがちで肩身が狭い。なのでこうして物売りの風を装って、野良の飯綱を買い受け、時に必要な人へ譲ったりしているのだという。


身も心も元の艶やかな遊女に戻った女が、礼には幾らあれば足りるかと訊くと、主人は算盤をぱちぱちやりながら、こんなもんでいかがでしょう?と言った。


銀5匁4分。これで先程の飯綱を引き取るという。助けて貰った返礼をするつもりが女は自分が銀貨を受け取る事になってしまった。


ぽつり置かれた茶筒の蓋をこそりと開けて、煙の様な色をした、それは小さな飯綱が二人のやり取りを上目でじっと見つめていた。それに気づいた遊女があれまあ、と声を発し、


「こうして見ると、随分と可愛いものでありんすなぁ」


と云った。すると、


「へえ、それでしたらどうでしょうか……」


主人が恭しく手もみをした。



─通りを悠々と歩む遊女の姿に幾人もが振り返るが、それは此処へ来るまでに注がれた、化け物を見るような好奇の眼差しではなく、その煌びやかな姿への羨望や恋慕に似たものだった。茶筒を大事そうに手で包みながら女は思い出す。店先で深々頭を下げる“ゐづなや”の主人の袴から、隠しきれずに飛び出た尾の事を。


銭を貰って帰っても、きっと葉っぱに化けたに違いない。あの店は、帰る場所のない飯綱たちが知恵を絞って考えたものなのだ。生きていくために。その健気さにどこか遠からぬものを女はおぼえた。


寒くはないかい? と、優しげな声が茶筒に降り注がれた。小さな飯綱が蓋の隙間から黒々とした目で覗き込む。雨はすっかり止み、曇り空から微かな明かりが射し始めていた。

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ゐずなや 猟奇學研究所 @ryoukigaku

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