二章の五 神無月/野狐①

 九尾の狐の尻尾が伸びてかなでを襲う。守護霊が立ち尽くす奏の腕を引っ張ると、


「逃げるよ!」

「逃がすか!」


 野狐やこの猛追にあってしまう。

 奏はなんとか九尾の尻尾から走って逃げていた。が、尻尾に気を取られ過ぎていた。気付いたときには眼前に野狐やこの顔がある。奏がしまった、と思った時、


団扇うちわをよこせ!」

「馬鹿者!」


 短い唸りを上げた野狐やこと奏の間に守護霊の老婆が割って入る。そして老婆が何かを短く呟くと当たり一面が眩しい光に包まれた。


「こっちだよ」


 老婆は奏にだけ聞こえる声でそう言うと、奏はその声に導かれるように眩しい白の世界を進む。奏はその白の世界の中で扉らしきものを押して外へと出ると突然、文化祭の喧騒が戻ってきた。

 奏が振り返ると、そこには守護霊の姿も野狐やこの姿もなかった。押し開いたはずの扉も存在しない。あるのは文化祭の賑やかさだけだった。

 奏はしばらく呆然とそこに立っていたが、はっと気付く。


 あずさが危ない。


 奏は手近な生徒へと声を掛けていた。


「バスケ部の出し物は終わったのかしら?」


 奏の焦りに気圧されながらも、その生徒はおずおずと答える。


「はい、ついさっき……」

「ちっ」


 奏は思わず舌打ちすると、体育館の方向へと人波を逆走する。通り過ぎる生徒たちは奏の行動に迷惑そうな視線を投げているが、今の奏にはそれに構っている余裕はなかった。


「あずさちゃん! いる?」


 奏は体育館へと入ると同時に叫ぶ。すると奥からあずさの声が聞こえてきた。


「いるよ~」


 その声を聞いた奏はほっと胸をなでおろす。


「着替えたら出てきて頂戴」


 奥へと声をかける奏に、声だけであずさは、はーい、と返事をした。


「奏、どうしたの~? そんなに慌てて」


 着替えたあずさがパタパタと奏に近寄ってくる。奏はどこか話が出来るところ、知らない? と聞くと、あずさがついてきて、と答えてどこかへと足を向ける。あずさが連れてきたのは人気ひとけの全く無い屋上だった。


「そんなに血相変えて、どうしたの? 奏」


 あずさに聞かれた奏は、先ほどまでの出来事をあずさに話した。


「吉田くんが、野狐やこ?」

「そうなのよ! あずさちゃん、団扇うちわ、持ってる?」

「うん」


 あずさが団扇うちわをかばんから取り出す。それを見て、奏はほっと胸をなでおろした。しかしそこへ、


「見つけた」


 吉田結人よしだゆいとが姿を現してきた。


「まさか、あずささんの方が『教授』の方だったなんて。灯台下暗し、ですね」


 にっこりと微笑んで結人が言う。


「さぁ、それを僕に寄越してください」

「嵐を!」


 結人の手が伸びたとき、あずさが叫んで団扇うちわを振った。すると辺りが一気に暗くなる。


「何をする気です?」


 結人は余裕の笑みを浮かべている。屋上の上には雨雲が集まり、突風が吹き荒れている。


「嵐を呼ぶだけが、その団扇うちわの力だと思われては困りますね」


 結人の余裕の笑みは崩れない。また一歩、あずさと奏の元へと歩を進めてくる。


「あずさちゃん……?」


 行方を見守っている奏に、あずさは額に汗を流しながら続けて団扇うちわを振った。


「雷!」


 叫んだあずさの目の前、そこに雷が落ちる。砂煙の向こうに人影があることを奏は見逃さなかった。


「呼んだか?」


 砂煙のむこうから澄んだ男の声が聞こえてきた。砂煙が収まる頃には、髪の毛を逆立てた一人の男が奏たちと結人の間に立っていた。


「え? 誰……」


 呟いたのはあずさだった。


「我は、武甕槌命たけみかづちのみこと。我を呼んだのは、そなただな」


 武甕槌命たけみかづちのみことと名乗った男に、結人が血相を変える。


武甕槌命たけみかづちのみこと、だと……?」


 武甕槌命たけみかづちのみことは雷神だ。あずさの呼んだ雷は、武甕槌命たけみかづちのみことを呼び出すものだったのだ。奏は唖然としている。結人は武甕槌命たけみかづちのみことの登場に、さすがに人間の姿では勝てないと判断したようだ。姿を変えて、九尾の狐の姿に戻る。


「なんだ、野狐やこか」


 武甕槌命たけみかづちのみことの声は至って冷静だった。九尾の狐の姿をした野狐やこの結人は低い威嚇の唸り声を上げている。


野狐やこごときが、この私に牙をけるか」


 形勢は一気に逆転していた。この武武甕槌命たけみかづちのみこと、雷神である上に刀剣、弓術、武、軍の神として知られている。つまり、戦闘はお手の物なのだ。余裕の笑みを浮かべる武甕槌命たけみかづちのみことを前に、野狐やこはひょいっと屋上の柵を乗り越え、逃げてしまうのだった。


「所詮は臆病な野狐やこの一匹だな」


 武甕槌命たけみかづちのみことは、ふん、と鼻を鳴らした。


「これは、どういうことなの……?」


 奏は呆然と声を上げた。それを聞いた武甕槌命たけみかづちのみことは言う。


「この者には、そなたの様な守護霊が存在しない。代わりにツクヨミとアマテラスが守護をしていたのだ」


 しかし今、二柱は出雲へと出かけている。留守中、何かが起きたときのための守護を任されたのが、この武甕槌命たけみかづちのみこと、と言うことだ。


「あずさちゃん、それを知ってて雷を呼んだの?」


 奏の言葉にあずさはふるふると首を振る。どうやら偶然のようだ。


「そなたは神々が守護する人間だ。その団扇うちわを振るうことで、神々が反応し、そして呼び出すことも出来るようになった」


 武甕槌命たけみかづちのみことはそう言うと、また何かがあれば呼んでくれ、と言って姿を消した。今まで暗かった空はいつの間にか晴れている。


「神々の守護を受ける者って……。あずさちゃん、凄いのね」

「え? 私、大したこと全然してないのに……」

 屋上には呆然とする二人の姿が残っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る