眠れる森の赤い館
広茂実理
失われた記憶
1
――それは、突如として耳を
静けさの中で、異質に轟く音が、脳内を蹂躙する。
深く沈んでいた意識が、抵抗する間もなく無理矢理に掴み上げられ、急浮上させられた。
はっと目を開けるも、未だに部屋中を反響し、鳴動し続けている不快なサウンド。
体を起こすと、くらっとした。ずきりと後頭部へ走る痛みに、顔が歪む。口から、短い呻きが漏れた。気持ちが悪い――心臓を無遠慮にぎりぎりと鷲掴み、暗闇を切り裂かんとするそれは、しかし。覚醒した頭が、火災報知器の発するサイレンだと気付く。
落ち着かない呼吸。引き摺り出された焦燥感が、緊張を連れて駆け巡る。早く安堵を、安寧を。何か――聴覚にばかり向いていた意識が、ピントの合った視覚情報へとシフトした。
仄かに灯る、優しげなオレンジの照明。見慣れぬ天井。滑らせた視線の先、カーテンの隙間から漏れるのは、淡く青白い光――まだ夜明け前だ。
騒音に呼ばれているかのように立ち上がる。ふわりと包んでくれていた大きなベッドに残る温もりは、一人分だ。
ふるり……少し肌寒い空気の中、近くにかけてあった上着を手に取り、壁伝いに部屋の出口を探す。電気のスイッチは見落としたようだが、ドアを発見した。おそるおそる、ゆっくりと外を覗き込みながら、扉を開ける。
すると、その瞬間。見計らったかのように、ぴたりと静かになった。思わず聞こえなくなったノイズを探し、きょろきょろと辺りを見渡す。
眼前に広がる廊下には、やはり――わたしには、まったく見覚えがない。ここは、どこだ。
解放されたはずの心臓が、どくり。今度は質量が肥大して、肺を圧迫しているようだ。小刻みに幾度となく空気を吸い込んでいるというのに、安心できないでいる。普段はどのように息をしていたのだったか。
深呼吸を数度繰り返すも、心音は耳のそばから離れない。
ならばと、薄闇に慣れてきた目を凝らす。右側は、どうやら行き止まりのようだ。そろりそろりと、反対側――左方へ、足を進める。
しかし、すぐに突き当たってしまった。道の続いている右へ折れると、その先は吹き抜けになっている。そっと下を覗き込むが、ぽっかりと真っ黒い、大きな穴が空いているようにしか見えない。まるで、ブラックホールだ。吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥る。少なくとも、今いる場所が二階以上なのだと知れた。
無意識に握り締めていた手すりから離れて、右側へ顔を向ける。すると、階段を発見した。あるのは、下りのみ。他には、見当たらない。どうやら、ここは最上階であるらしかった。
止まったとはいえ、警報が鳴り響いたのだ。非常事態であることに変わりはない。留まらず、ここは階下へ降りるべきなのだろう。そう判断し、階段へと向かい歩く。
今のところ、火災や非常時らしき痕跡は一切見受けられなかったが……まあ、何もなければその方が良いに決まっている。
それにしても、何故こんなにもしんとしているのだろうか。
ここは自身の家であるのだろうか。誰にも遭遇しないとは、どういうことだ。わたし一人しかいないということなのだろうか。
そして、どうしてわたしは、何もわからないのだろうか。
ここがどこかも、何故この場にいるのかも、まったく判然としない。
わたしは、一切の記憶を失っている――
とはいえ、こんなところで考えていたって仕方がない。一人で思考し続けていたところで、何もわかりはしない。ならば、今はこの建物が安全であるかを確認することこそが、何よりも優先すべきことだろう。
階段を一段踏む。暗いので慎重に……と、そこで初めて、自身以外の声を聞いた。足が、ぴたりと止まる。耳を澄ませた――下からだ。それは、だんだんとこちらへ近付いてくる。どうやら、男女の話し声のようだ。
「――それにしても、いったい何だったのでしょうね、あの警報。一階へ着いた途端に、突然鳴り止むなんて……」
「さあなー。無駄足だったのはムカつくけど、とりあえず何もなさそうだったし、良いんじゃねえの? ……ったく、何かおもしれえことでも起こったのかと思ったのによー。つまんねえよなー」
「はは……相変わらず、ですね」
「んー、にしても眠い……まだこんな時間だし、あたしは寝直す」
「そうですね。きっと、誤作動だったのでしょうし、ボクも――おや?」
「あん?」
暗闇から現れたのは、男女二人組。四つの目が、わたしを捉える。
一度止まった足が、再びこちらへ近付いてきた。
「こんばんは。セナさんも、起きてこられたのですね。大きな音でしたものね。ボクも、飛び起きてしまいましたよ」
「だよなあ。でもよお、煙も何もなかったぞ。たぶんだけどさ、何だっけ? ――ああ、誤作動ってやつ? つーことだからさ、安心して部屋に戻って良いぞ」
フランクに話し掛けられたが、覚えがない。誰なのだろうか、この人たちは。
わたしを見たこの反応。相識の間柄と察するけれど……。
「あん? どうした、セナ」
階段を上がりきった二人が、無言でいるわたしの顔を見て、不思議そうな表情を浮かべている。
言葉と視線を向けられたわたしはというと、ただただ戸惑っていた。考えてみたけれど、やはり覚えがない。
それに、セナと呼ばれた。わたしは、セナというのか。
「あ、あの、申し訳ありませんが、お二人は、どちらさまですか?」
「どちらさまって……なんだ、寝惚けてんのかよ、セナ」
「セナさん、様子がおかしいですよ。何か、あったのでしょうか」
わたしの顔を覗き込んでくる、長身の女性。男のひとのような口調で話しながら、肩を竦めている。優しいというよりは、どっしりと構えた余裕の笑みを湛えていた。不遜な態度だが、そのさまがしっくりくるひとだ。ともすると、失礼な態度をとっていると捉えられてもおかしくない状況だというのに、わたしの言葉を冗談と受けているのだろうか。
一方で、わたしと同じくらいの背丈の男の子が、心配そうに眉尻を下げてこちらを見つめていた。隣の彼女に敬語で話していたということは、外見通り年下なのだろう。穏やかそうな顔をしている。
まるで、正反対の反応を向けられている――そう思った。
わたしは、そんな二人の顔を交互に見ながら、おずおずと切り出した。
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