渋々と、コーチ就任

 約束をしていた土曜日を迎える。

 雨が降ってくれれば練習も中止になるのに、というささやかな願い事も神様は聞き入れてくれないようで、朝からピーカン照りだ。

 上はTシャツ。下はシャージ。高校時代のグローブと麦茶の入った水筒だけを持って家を出る。

 玄関を出たとたんに頭上から降ってくるのは、毛根を根絶やしにしそうなほど苛烈な日光と蝉しぐれ。じめっとした八月の熱気が肌にまとわりついた。


「うへえ、暑い……」


 学校までは徒歩で行ける距離なのだが、この暑さのなか歩くのも酷だと自転車にまたがった。

 突き抜けるような青空に立ち昇る入道雲は、まるでソフトクリームのようで涼しげだ。むろん、そう見えるだけだが。熱せられたマンホールの蓋で、目玉焼きでも焼けるんじゃなかろうか。

 これも全部暑さのせいだと、くだらない妄想を天気のせいにしながら、自転車のペダルを漕ぎ続けた。


 やがて、懐かしい校舎の姿が見えてきた。鉄筋二階建てのそれは、外壁の雨染みが多少増えたようにも思えるが、記憶のなかに残っている姿とさほど変わってなさそうだ。久方ぶりに見る校舎に、懐かしさと同時に不思議な新鮮さも覚える。

 駐輪場に自転車を停めてグラウンドの方に向かうと、早速、霧島七瀬が声を掛けてきた。


「ごめんねー。本当に来てくれたんだ」


 なんだよ。社交辞令だとでも思っていたのか? 俺はこれでも義理堅い男なんだぞ。


「まー暇だしな」


 本心では、あんまり来たくなかったけどな。そんな皮肉を言わずに飲み干す。暇であることだけは事実なので、ちょっとばかり物悲しい。

 グラウンド整備をしている小学生の何人かが、「おはようございます」と挨拶を送ってきた。礼儀作法はわりと行き届いてるようだ。

 感心しながら、辺りに視線を配っていった。


 港北小に野球専用のグラウンドは存在しない。校庭の片隅にフェンスを立て、その前方にホームベースとマウンドをこしらえてある。内野はそれなりに土質も整備されているものの、外野に至っては散々だ。簡易式のフェンスは存在しているが、半分ほどのスペースは陸上競技場と兼用している状態だ。

 お世辞にも良質な練習環境とは言えないが、それでも、練習できるだけマシだろうか。

 自分が小学生だった頃と変わっていない景観を懐かしんでいると、三十代半ばくらいの男性が話しかけてくる。


「初めまして、坂谷さかやと申します」


 坂谷と名乗った中肉中背の彼が、どうやらチームの監督であるらしい。


「なんともお恥ずかしい話なのですが、私、野球は中学までで辞めてしまったものでして。指導力にはそこまで自信がないんですよ。なので、進藤さんが来てくれるかもと聞いて、心強く思っておりました」

「そうなんですね。霧島先生の同級生で、進藤と言います。正直、どのくらい顔を出せるかまだわかりませんが、宜しくお願いします」


 霧島先生か。

 霧島は、確かに昔から頭が良かった。だがこうして改めて口にすると、未だに信じ難いというか、教師になっていることを聞かされたときの驚きが蘇ってくる。


 部員たちがランニングをしている様子を見ながら、監督から選手の紹介を受ける。こちらからも、各選手の特徴などについて二~三質問をした。

 ランニングを終え、練習がスタートする。

 軽めのキャッチボールから始まり、遠投。バッティングピッチャーを準備しての打撃練習。続いてシートノックへと移行していく。

 ここまでの流れを見て思ったこと。部員数は総勢十五名。戦力的には中の下、という感じだろうか。投手の質と打撃力は悪くないが、守備面では少し荒が目立つ。特に外野の両翼が弱いと感じた。シートノックに入ったどの選手も、打球が上がってからの初期判断が悪くて守備範囲が狭い。

 適正を見て、何人かシートの変更をした方が良いかもしれない。

 気になった選手は何人かいる。


 まずは一番センターを任されている三澤みさわ君。

 彼は体格にこそ恵まれていないが俊足であり、打球判断の良さもあって外野での守備範囲はとても広い。比較的弱い両翼を補って余りある能力は、強力なセンターラインを形成する一翼である。

 だが反面、打撃面では非力さが目立つ。

 ミート力もあるしバント等の小技も出来るが、長打力に乏しく、外野に到達する打球が殆ど見られないのだ。


 続いてチームの二枚看板である投手の坂谷君と鈴木すずき君。

 坂谷君は監督の息子でもあり、チームのエースを任されている存在。制球力も良く、大崩れしなさそうな好投手だ。

 だが、身体の線が細いこともあってスタミナ面で難があるという。ついでに言うと球速が無いので、ゲームの終盤になると連打される場面が目立つらしい。

 そして、二人目の投手鈴木君。

 マウンドに登らない時はショートを守っている彼は、恵まれた体格から投げ下ろす速い直球を持ち味とした本格派だ。

 反面、制球力に難がある。

 ブルペンでの投げ込みを見た感じとしては、五球に一~二度くらいしかストライクが入ってこない。積極的に打ってくる相手なら誤魔化しもきくが、一度様子見をされると、四球を連発してしまうだろう。

 良い球筋を持っているのに、控えに甘んじている理由がそこにある。

 それから……。


「セカンドの守備についている女の子は、なんという名前ですか?」

「ああ、本上さんかな。本上雪菜ほんじょうゆきなさんだよ」


 野球やります! という感じにも見えない、髪を二つ結いにした女の子が一人混ざっていた。

 女の子が野球なんてやるのか? と思う人もいるだろうが、小学生の野球クラブでは時々みかける光景だ。


「身長はあるんだけどねえ……。女の子だからいかんせん非力で」


 こう言って、監督は襟足のあたりをかいた。

 非力、か。本当にそうなんだろうか?

 その説明に妙な引っ掛かりを覚えた俺は、打撃練習の二順目に入ったタイミングで、本上さんに声をかけた。


「使っているバットを、少し見せてもらえる?」

「あ、はい。いいですよ」


 彼女はいったん、打撃練習の列から外れる。使用していたバットを受け取って目を落とす。


「これは、家の人に買ってもらったバットなのかい?」

「いいえ? 私のお兄ちゃんが使っていた物のお下がりです」


 自分の兄も、数年前までこのチームに所属していたんです、という彼女。野球を始めたのも、兄の影響なんだとか。

 彼女のバットは、長さ八十センチのトップバランスだった。確かに、真芯でボールを捉えることができれば飛距離は出るだろう。だが──。

 そう考えた俺は、そばにいた三澤君のバットも見せてもらった。

 彼が使っている物は、七十六センチのミドルバランス。こっちの方が、彼女の体格を見ると適しているんじゃなかろうか。


「三澤君、ちょいと悪いんだけど、このバットを少しの間だけ本上さんに貸してもらえないかな?」

「あ~、別に良いですよ」


 三澤君はバットを俺に預けると、練習の列から外れて見学に回った。

 俺は彼のバットを本上さんに渡すと、何度か素振りをさせてみた。


「今のフォームだと足を上げる時にテイクバックを始めてるんだけど、左足を踏み込むタイミングでテイクバックするよう、ちょっと意識してみて」


 こう意識を変えることによって、突っ込み気味だったバッティングフォームが修正されるはずなのだ。


 フォームに改善の兆しが見えてきたあたりで、実際に打撃練習に入ってもらった。

 一球目は、修正したばかりの慣れていないフォームに戸惑うように空振り。だが二球目。彼女の打球に早速変化の兆しが見える。

 キーンという乾いた打球音と共に放たれたボールは、一塁方向への痛烈なゴロになった。漫然と守備に入ってた斎藤さいとう君が、慌てたように捕球体勢に移る。

「誰の打球かと思ったら本上かよ」と、驚いた声を上げた彼に監督の激が飛ぶ。「ぼやっとしているな斎藤!」「はい! すいません」

 その後、二~三球ゴロを放ったのちの六球目。遂に真芯でとらえたボールは、痛烈なライナーとなってセンターへ飛んだ。「わあ」と打った彼女からも驚きの声が漏れる。

 その様子を目を細めて見守りながら、やはりな、と俺は思った。

 彼女の身長は全部員の中でも高い方だ。しかし、筋力に合わない重めのバットを使っていたことと、前に突っ込む癖のあるフォームにより、著しくスイングの軌道に乱れがあり、タイミングも取りづらそうに見えていた。

 バットを軽くしたことによってスイングスピードが上がり、フォームの矯正によってタイミングが取れるようになったことで、強い打球を飛ばせるようになったのだ。むしろこれが、本来の彼女の力。


「今度お母さんにでもお願いして、新しいバットを買ってもらってね」と本上さんに声を掛けてから、バッドを三澤君に返却した。「貸してくれてありがとね」


 それと彼女には、もう一点気になっていることがある。


「監督、本上さんをセカンドの控えに入れているのはどうしてですか?」シートノックをしている手を休めて、俺は隣にいる監督に尋ねた。

「ああ、彼女は肩があまり強くないからね。一塁までの送球で負担が軽いセカンドを担当して貰ってるんだ」


 ふむ……。確かに、肩力で劣る女子部員を二塁手として起用するチームは多い。サードやショートの肩が弱いと、足の速い打者に対して容易に内野安打を許してしまう。そう考えると、やむを得ない部分もある。

 でも――。


「本上さんを、レフトの守備で試してみましょうか?」

「レフト……ですか?」


 外野の両翼に関しては、どちらも似たようなもんだろう、と軽く考えられることは多い。だが、レフトとライトに求められる守備能力というものは、基本的には同じであるものの、異なっている部分もまた多いのだ。

 ライトは、外野手の中で特に肩の強さが求められる。ランナーが二塁にいるケースでライトフライが上がると、タッチアップされたとき距離のある三塁まで投げなくてはならない。万が一送球が逸れると一気に生還されかねないので、速くて正確な送球が必要となる。一塁に送球された時のバックアップも必要になるし、純粋な守備力以上に細かな判断力が求められる、

 一方でレフトに求められるのは純粋な守備力。左打者からの飛球がスライスしたり、右打者の打球にフックがかかっていたりと意外に難しい打球が多く、基本的に右打者が多い関係上、速くて大きい打球が飛んでくるケースも多い。そのため、飛球への素早い判断力が求められる。


 本上さんをレフトの定位置に移動させた後、シートノックを再開する。

 レフトへの最初の打球。意図的に浅めのポップフライを上げてみた。本上さんは打球が上がった直後一歩だけ後ろへ下がり、その後、一直線に前進してきた。しかし落下点には入れないと判断したのか、一度足を止めると、目の前で弾んだボールの上がり際をグラブで捕球しそのままバックホームした。


佐藤さとう君、中継!」


 サードの定位置に着いていた佐藤君に指示を出す。彼は、どこでも守れる貴重なオールラウンドプレイヤーだ。一人いると重宝するタイプの選手。

 本上さんからの送球をダイレクトで捕球した佐藤君は、振り向き様に本塁へとボールを送る。ボールはそのまま、キャッチャーミットに真っすぐ収まった。

 ふむ。

 レフトへの二度目のノック。今度は全力で追わないと届かないであろう場所に、ライナー性の打球を上げた。俺の見立てでは、左翼スタメンの谷口たにぐち君でもちょいと難しいフライだ。

 本上さんは迷うことなく全速力で後退していく、走りながら目線だけでボールの位置を確認すると、左手のグラブを目いっぱい伸ばした。打球は、グラブの先端になんとか収まる。

 つんのめるようにして踏みとどまった後の返球は大分乱れたものの、追走していったショートの坂谷君が中継に入り、ショートサードキャッチャーの連携でボールはホームまで返ってきた。

「ナイスレフトー」俺が声を出すと、キャッチャーの田中たなか君が呟いた。「なんであんなの取れたんだよ、本上の奴」

 やはりな……ここまでで俺は、幾つかの確信を得ていた。

 第一に、本上さんはチーム内での信頼が低い。女子だからなのかはわからないが、監督からもチームメイトからも、能力以下の評価をされている。

 第二に、彼女は打球判断が非常に早い。

 これはセカンドのノックをしていた時に気づいたことだが、特にフライがあがった際の動き出しはチーム内でもかなり上位だと思う。動体視力もだが、とかく判断力に優れている。

 だが残念なことに、彼女自身が自分の能力に対して自信を持っていない。そのため、弱気な心がプレーの端々に見え隠れしているというか、能力を活かし切っていない可能性がある。

 この子は、鍛えれば化けるかもしれない。


 その後はブルペンに顔を出して、鈴木君の足の踏み込み方と、腕の振り方。あとは顎を上げないようにと指示を出した。

 少し修正を加えてから投げさせてみると、飛躍的に……とまでは言えないが、ストライクが入る確率があがった。

 先発投手を坂谷君だけに頼らず、調子を見てローテーションできるようになれば、特に長丁場となるトーナメント型式の大会で有利になるはずだ。彼の動向についても、見守っていく必要があるな。

 俺がそう思い頷いているとき、事件が起こった。


「コーチ。全力で投げるところを見せてくれませんか?」


 好奇心旺盛な目を向けながら、坂谷君がそんなことを言い出したのだ。


「霧島先生から聞きました。昔は凄いピッチャーだったんですよね?」


 昔は……ね。いかにも子どもらしい正直すぎる物言いに、思わず頬の辺りが引きつってしまう。


「マジで」「俺も見たい」などと周囲から同調する声が上がり始めると、全身の血が冷え込んでいく感覚とともに、背中を嫌な汗が伝って落ちた。

 反射的に、離れた場所で練習風景を見守っていた霧島に視線を送ってしまう。俺が困惑しているのがわかったのだろう。彼女も微妙な顔になって俯いてしまう。

 結局。「今は肩を痛めていて、全力では投げられないんだ」と苦しい言い訳をして、この場をなんとか治める俺がいた。

 こうなるとわかっていたから嫌だったんだよな、と小さく溜め息を吐いた。


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