ぬいぐるみとパン

あたまろ

ぬいぐるみとパン


1月31日。

数字にバツをつける日々の終わり。

カレンダーの端で一つだけ描かれた丸印が、最後の聖域のように残っていた。


あれから、何度もカレンダーを見直した。


その日は、雪が降らないでほしいと思っていた。

今日は、雪が降っている。


太陽が見えてほしいと思っていた。

雪の向こうに、曇り空が見える。


僕はカレンダーと向かい合うことをやめた。

今度は時計の針が呼んでいたからだった。


そう、行かなければならなかった。

無心で服を着替え、身だしなみを整え、食パンを齧る――


瞬間、君との記憶が心臓を貫いて、僕は跳ね上がった。

頭の中を、君の笑顔が脳を埋め尽くしていた。


****************


一年前。君と出会った日のこと。

朝の挨拶を終えて、人を最も期待させる高校教師のひとこと――転校生という言葉――に教室がざわついていた。


本来誰もいないはずの廊下から音が響き、教室の扉が開く。


「東雲凛々。よろしく。」


在校生の誰よりも長く伸びた美しい黒髪に、気だるげな表情。

ゾッとするほど整った顔立ちの中に、お茶目な創造主が、目の下に黒子をひとつ添えていた。

名前に一言を添えただけの簡潔な挨拶が、世界で一番似合う少女だった。


その言葉から少しだけ間を空けて、教師は僕の隣を指差して何か呟いた。

知らないうちに、持ち主を失った机と椅子がそこに置かれていたようだ。


彼女は僕の方に向かって――当然僕ではなくその空席に向かってだが――歩きだす。

近づくにつれ、その容姿がより詳らかになる。

確かな芯のある歩きの中に、不思議と近寄りがたさを感じさせない柔らかな表情。

人を救う天使がいるのならこんな姿だろうかと、そんな風に思っていた。


彼女はそのまま歩みを進め、僕の座った目線の頭一つ分上、そこで目が合った。

その大きな目を見たとき、いや、見られたとき。僕の中は隈なくすべて見通されたような気がした。

今までに得たことのない感情。彼女が席に着くまでの一瞬で、彼女から出た光が血中を流れていくかのような、そんな気持ちだった。


そのあとホームルームのあいだ、彼女は海外暮らしが長いから、とか教師が言っていた気がする。

僕はなんだかぼやけた視界のまま、何もない空間を見つめていた。きっとそれは、彼女の光の中にいたんだろう。

そのままホームルームが終わった。

クラスの野次馬たちがそこに集まってくるよりも先に、意外なことに彼女が口を開いた。


「咲也くん、朝食はパン派でしょ。」


それが僕に告げた最初の一言だった。彼女はそのまま笑っていた。

数秒、言葉の意味を理解できずに固まる。貧弱な脳が活動を再開して、ようやく僕はあわてて言葉を返す。


「もしかして、服にパンくずとか付いていた?」


「日本人って、朝ごはんはパン派とご飯派で五分五分らしいのよ。だから、初対面の人に50%で当たる簡単な賭けをしてるの。」


……再び凍りつこうとする脳を必死で叩き起こした。確かにこの日は寒かったけれど、あまりにも頭が追い付かない。海外では初対面でこういうのが普通なのだろうか?


「つまり、当てずっぽうということ?」


「いいえ。咲也くんのそのキーホルダー、パンのシールと交換できるやつでしょう?」


彼女は僕の筆箱についていた、いつか家で見つけたパンのキャラクターを一瞥した。

客観的に見て、お世辞にも可愛いとは言えないキャラクターだと思う。しかも僕のは傷モノだ。

僕の貧相な頭は咄嗟に、『庶民的なことも知っているんだな』と的外れな理解をしたことを覚えている。


「じゃあ、私はパン派だと思う?ご飯派だと思う?」


「いや……わかんないよ。それこそ五分五分じゃないのかな。」


「お揃いよ。ほら、かわいいでしょ?」


そういって鞄から筆箱を取り出して、さりげなく笑っていた。

僕の持っているものと違って、何か顔にシミのようなものが付いていた。

一瞬彼女の顔を見て勘違いをしてから。そのキーホルダーを横目に見ながら、ぎこちなく頷いた。


思い返すと、初対面にしては不思議なやりとりだった。

一言目が『ご飯とパンの話』だったのはもちろんおかしいのだが――それ以上に不思議だったのは、僕を苗字ではなく「咲也くん」と名前で呼んだことのように思う。

僕の持ち物の何れかに名前が書いてあって、ただ海外流に名前で呼んだとか。

あるいは僕をからかおうとした……彼女のことだからおそらく、そんなことなのだろうけど。


僕にとっては特別な心地だった。

名前で呼ばれるのは母親からくらいのもので、ほとんど異性には苗字で呼ばれるような、寂しい人生だった。

もしかすると幼少期には、そうではなかったかもしれないけど。不幸なことに、僕は事故にあって、その頃の記憶はない。

それを初対面にして上回ってきた彼女に心を動かされるのは、当然だったのかもしれない。


その日から早速、僕の生活は一変した。

空いた時間には小説を読み、たまにギリギリで宿題をやるような。そんな孤独だが平和な生活はどこかに行ってしまった。

彼女に話しかけられ、彼女に連れまわされ、彼女に利用される。

そんな『彼女を中心とした』と言っても過言ではないような日々が始まったのだった。


例えば――そう、これも出会ってからの数日間のことだ。

休み時間の度に濁流のように押し寄せるクラスの野次馬たちを、処理させられたとか。


「好きな食べ物は?」


こんな単純な質問から、


「今まで付き合った人数は?」


こんな答えにくい質問まで勢ぞろいの、バーゲンセールだった。

よくも初対面の相手にそこまで聞けるなと感心していたのだが、彼女の対応はそれを大きく超えてきた。


「――咲也くんはどう思う?」


その質問全てを『僕に代わりに答えさせた』のだから、たまったものではなかったのだ。


当然初対面の僕は彼女のことを知るよしもなく、適当に「パスタ」だとか、「2人」だとか捻りださざるを得なかった。

その結果、元々印象の薄いキャラであった僕のほうが、変に注目を集めてしまい。彼女と僕は『セットで転校してきた二人』みたいな扱いになっていた。


予言かのように「パン派?ご飯派?」という聞き覚えのある質問もあったのだが、そこは「ご飯派」と答えておいた。

彼女がこの名前も知らないパンのキャラクターが好きなことは――なんだか、僕だけが知っている秘密にしたかったからだ。

そう答えたときだけは、彼女がまたさりげなく笑っていたように見えた。

勝手な独りよがりのつもりだったけれど。少しだけ通じ合えた気がした。



****************



出会った日から二週間が経った、ある日の放課後。

皆が部活や課外活動に出払った空の教室で、僕と彼女は「転校生らしく」部活についての話をしていた。


「凛々さんって、部活とかには入らないの?」


「そうね、前の学校ではバドミントン部に入っていたわ。ちょっと日本の部活とはイメージが違うかもしれないけど。」


彼女の白く華奢な腕からは想像もつかない答えだった。

てっきり僕と同じく、万年帰宅部のインドア仲間だと思っていたのだが。


「へえ、少し意外だ。運動とか嫌いなのかなって思ってた。」


「運動は嫌いね。だから入って1か月で辞めたのよ。」


「……なんで入ったの?」


「親が部活に入れってうるさいのよ。スポーツ会社の人だから。

団体戦のレギュラーになったら辞めていいって約束で、レギュラーになったから辞めたわ。」


スポーツ漫画でも中々見ないような展開だ。

事実は小説よりも……いや、漫画よりも奇なりとはこのことだろうか。


「まさかそれを一か月で?」


「正確にはレギュラーの子に勝ったから、ね。ひどい嫌味を言われたけれど。」


この出会ってからの二週間で薄々気づいてはいたのだが、どうやら彼女は天才と呼ばれる存在なのだろう。

小テストなんかを見ても明らかに学業の成績はトップクラス、それに運動もすぐにこなす、ときたものだ。


「で、咲也くんは万年帰宅部と。今も暇そうだし。」


「否定したいところだけど、事実だね……」


彼女はこういう時、性格の悪い笑みを浮かべる。悪魔的と言って差し支えがないだろう。

身長的には下からの目線なのに、不思議と見下されているようにすら感じる。


……一応保身をしておくと、僕は幼少期に事故にあったらしく、あまり激しい運動は控えるよう医者に言われている。

だからこうして部活に入っていない、のだが。それがなくとも同じ状況になるのは、想像に難くない。


「じゃあ、部活の見学にでも行きましょうか」


「……どういう流れなの?」


どのあたりが「じゃあ」なのだろう。頭がいい割に接続詞を知らないのか。


「たまには運動しないと。見学ということにして、咲也くんと私で対戦させてもらいましょう。」


それとなく反対してみたがその甲斐なく、僕たちはバドミントン部を見学に行くことになってしまった。


そのまま更衣室でジャージに着替えて体育館へ。

サイズの少しだぶついたダサいジャージすらも、彼女は不思議と着こなしているように見えた。


顧問の先生との交渉は、なぜか僕が担当させられた。


「咲也くんは在校生なのだから、当然じゃない。」


彼女はそう言っていたが、先生は僕と話して怪訝な顔をしたあとに、少し遅れて来た彼女を見て明らかに態度を変えていた。

どう考えても、僕だけでは上手くいかなかったに違いない。

彼女は当然ご飯派だとかパン派だとか、そういった話をすることもなく。

優等生のようなすました顔をしながら、猫撫で声で機嫌を取っていた。随分演技派だと感心したものだ。


そのおかげで交渉は順調に進み、隅のコートを借りて二人で試合をさせてもらうことができた。

結果は当然惨敗……かと思いきや、意外にも善戦。今まで知らなかった才能に気づかされ、本当に入部しようか少しだけ迷ったりもした。


「ふうん。でも、私は入部しないわよ。」


なぜか不満げにそう言われた。よほど結果が悔しかったのだろうか。

最終的には僕が負けたんだから、いいじゃないか。


その帰り道。

家の近い僕たちは離れるタイミングもなく、夕暮れの中二人並んで歩いていた。

終わりかけの太陽が長い影を伸ばし、長い黒髪が一層幻想的に見えた。


一緒に帰るのはこれが初めてだった。

僕のスマッシュが実はアウトだったとか、コートが少し狭かったとか、そもそも背が高いからズルいとか、そんなくだらない話ばかりをしていた気がする。

こんなにも他人と話すことが楽しいとは。僕はそんな、しばらく忘れていた当たり前の感情を思い出していた。

帰り道だけでは話し足りず、僕たちは不思議と公園に吸い込まれた。


ベンチでは先客のカラスが、パンくずを食べていた。少し迷って、子供みたいにブランコに座ることにした。

ブランコなんて、これまた何年ぶりだろうか。そんなことを考えている僕を尻目に、彼女は平然とブランコを漕いでいた。


「……ねえ、壊れない?大丈夫?」


僕は不安げに見守っていた。その音から察するに、ブランコはそこそこ老朽化の色を見せていた。もし怪我でもしたら、なんと説明すればよいのだろうか。


「大丈夫よ。大した負荷はかかっていないでしょう、やんちゃな小学生の全力よりは、ね。」


そう言う彼女の姿は小学生の女の子ほどに軽やかだった。あまり意識していなかったが、かなり体重は軽いのかもしれない。

そのまましばらく会話をしながら漕ぎ続け、ようやく満足げにブランコを止める。

そして思い出したように一言呟く。


「今日、バレンタインよね。」


おもむろに鞄から袋を取り出して、僕に手渡した。


「えっ」


気の利いた一言でも言えると良かったのだろうが、あまりに唐突な展開に頭が付いていかず、フリーズ。

これまで縁のない僕の頭は、今日が特別な日ということをすっかり忘れていたのだ。


「咲也くん、貰ってなかったでしょ。それじゃあ。」


その言葉と、意地の悪い笑みだけ残して彼女はそのまま去ってしまい。

冴えない高校生男子が一人、公園に取り残されてしまった。


家に帰って封を開けると、中から見たことがない謎のパンのキャラクターが出てきた。

チョコパンをモチーフにしたもののようで、僕たちが持っていたキーホルダーとはまた別物のようである。

細部の作りの甘さと、またも微妙に可愛くないキャラクターの表情を見るに、海外で購入したもののように見えた。

はてさて、これはバレンタインのプレゼントと呼べるのだろうか。あるいはパンが好きなだけだろうか。


そんなことを考えながら今日一日を振り返り、はっと気づかされる。

彼女は、はじめからこれを見越して部活の見学に誘っていたのかもしれない。

部活で一緒に汗を流し、公園に誘導して、プレゼントを渡す。そしてその間、僕がチョコを貰えるか、監視しておく。そこまで筋書きに書いてあっても、おかしくはない。


さて、これは僕の妄想だろうか。

じゃあ、このプレゼントの意味するところは、なんなのだろう。

それこそ経験の少ない僕には、何もわからなかった。


出会って二週間。

見えてきたかに感じていた彼女の姿が、少しだけ霧を被って佇んでいた。



****************



春。

窓から吹く爽やかな春風がそっと触れて、長い髪を揺らしていた。


「ずいぶん暖かくなったわね。まあ、教室の景色は代り映えしないけれど。」


新しい学年になり、新しいクラスになっても、僕の隣の席には彼女がいた。

彼女の何らかの策略か、あるいは単純に転校生への計らいか。おそらくそんなところだろう。


「それ、もしかして嫌味?」


「変わらない方が良いことだってあるのよ。」


彼女の表情もいつもと変わらない、少しだけ緩んだ優しいものだった。

しかし、春休み前から変わっていることが一つだけあった。彼女が髪留めをつけて、髪を結んでいるということだ。


「髪型、似合ってるね。」


「でしょう。ちなみにハーフアップって言うのよ。覚えておきなさい。」


……無知な僕には手痛い指摘だった。

もう少し具体性のある褒め方をしろとか、そういうことだろうか。頭の中で復習しておこう。


ハーフアップ。綺麗な髪がよりまとまった印象で、更に優等生らしい見た目を確立しているように見える。

――その髪留めにパンが付いているということ以外は。


白状するとこの食パンのついた髪留めは、ホワイトデーのお返しで迷走した僕が渡したものである。

当然最初はパンを使ったお菓子が無難かと考えたのだが。

よくよく考えてみれば、『彼女がパンを食べているところを見たことがない』のである。

お昼は白米のお弁当を食べているし、放課後にもパンを食べているのは見たことがない。

見過ごしているだけでないと言えるほどの時間は、共に過ごしてきたつもりだった。


というわけで悩みに悩んで、食品は避けることにした。

本当はキャラクターグッズでもあればよかったのだが、それも見つけられず。無難なところを探しあぐね、髪留めを選んだというわけだ。

プレゼントのセンスがあるとかないとかは置いておいて、別の髪型を見られたのだから僕としては満足だ。



数日後。

この日は新任の教師の機嫌がすこぶる悪く、朝から持ち物検査が行われていた。

新しい学年になって浮かれていたのか、クラスの被害は甚大だった。

僕が持ち合わせているのは小説くらいのもので、特に没収には至らなかったのだが、彼女の髪留めがその的になっていた。

『髪留めは装飾の付いていないものに限る』という校則だったからだ。要するに、パンが悪かったわけだ。


当然クラスは黙ったままではなく、没収物の奪還作戦で一致団結していた。

彼女には髪留めは大した額のものでもないし、いつでも買い直せる旨を伝えたのだが、


「咲也くんは分かってないわね。女子高生が使った髪留めは、プレミアがつくのよ。」


なんて理由で彼女も奪還作戦に参加していた。

というか、まとまらないクラスの動きに業を煮やし、気づけば真面目な顔をして作戦のリーダーとして指揮をとっていた。

僕からすれば『リーダーとしての演技』にしか見えなかったが、バラバラだったクラスメイトは驚くほどの秩序を取り戻していた。


「まずは回収されたものがどこに置かれているかの調査ね。咲也くんはマークされていないはずだから、尾行をよろしく。」

「ロッカーに置いてあるのなら、代わりにそこを埋めるものを考えましょう。置き場がなくて、教師が物を返したくなるような状況を作ればいいわ。」

「例えば、大きめのプレゼントの類を渡せばいい。機嫌を良くしつつ、先生のロッカーが埋まれば何でもいいのよ。」

「もちろん、これも没収された私たちが渡すのはダメね。無理に機嫌をとっているように見えるから。」

「じゃあ、この実働もよろしくね。咲也くん。」


しかしなんだ、当然、僕も巻き込まれていた。

事態は無事というか何というか、彼女の引いた設計図通りに進んだ。

僕はその緻密な指示に従い、教師に対して簡単なアプローチをかけていくだけだった。


そしてものの数日で、全ての没収物が返ってきた。

クラスメイトからは英雄扱いだった。もちろん僕がではなく、彼女がである。

教師も僕も、そしてクラスメイトまでも。言ってしまえば、彼女の掌の上だったのかもしれない。


作戦が終了したその日の帰り道。

やけにテンションが高い彼女は、鬱憤を晴らすとばかりに存分に髪留めを使って遊んでいた。


「問題。さて、この髪型はなんと言うでしょう?」


「知ってる。ハーフアップだ。」


「不正解。もっと勉強しないと、夢のクイズ王にはなれないわよ。」


前回の髪型と同じように見えたのだが、若干の違いがあるらしい。

そんな説明を受けたが、正直よくわからなかった。


「次。これはなんでしょう?」


「あ、それはわかる。ツインテール。」


「ふうん。何もわからないわけじゃないのね。」


彼女はたくさんの髪型と共に、たくさんの表情を見せてくれた。

それはいつもと少しだけ違って。クラスメイトに見せる優等生の表情とも違って。


僕に対する好意の為すものなのだろうか。と、勘案する。

あるいは全てが勘違いで。

ただ不思議な少女が、面白いおもちゃを見つけたという、それだけの結末を恐れているのだった。



****************



「私、花火が見たいわ。」


夏休み前のある日、彼女はそう呟いた。

直前に僕が数学の問題について質問していたはずなのだが、どうやら聞いていなかったらしい。あるいは聞いていないふりだ。


「いや、この問題なんだけど……。」


たまには負けじと対抗してみることにした。いつもはこうしてペースを握られてしまうのだ。

出会って半年に差し掛かり、そろそろ対等な関係を目指してみたい僕だった。


「花火大会に行きましょう。」


「ここの式変形がわからな……」「花火」「はい」


負けた。その鋭い目は、まさに獲物を捕らえるライオンだった。

僕は狙われた草食動物のように、敗北を察して消え入る声で応えていた。

想像していた対等な関係はまだほど遠そうだ。


「他の子から聞いたのだけれど、夏休み中にこの近くで開催されるのでしょう。」


彼女は持ち物検査の一件からクラスメイトによく話しかけられるようになっていた。恐らくそれで情報を仕入れてきたらしい。

それでいて話しかける相手が変わらないあたりに、僕は悩まされているのだが。


さて確かに、この時期は毎年騒がしいような気がする。当然これまでの僕は蚊帳の外だったわけだが、誰を誘うだとか誰に誘われただとか、そんな話を皆がしていたように記憶している。


「確か、場所は神社の近くだったはず。確かお知らせのチラシも入ってたかな。」


ここはぼっちいじりを避けるための、無難な回答をしておく。


「行ったことは?」


……それを突く、直接的な質問。


「……あるけど。」


「友だちと?彼女と?」


「家族と。」


「ふうん。いいじゃない。」


なんだそれは。友達がいないのを差し引いても、家族思いで加点なのだろうか?

というか『彼女と』は余計じゃないか。


「じゃあ、当日会場で会いましょう。」


また『じゃあ』だった。一体どういう繋がりの文章で……。

そう逡巡している間に、彼女は席を立ちどこかへ行ってしまった。


少しだけ冷静になって考える。もしかして、デートのお誘いなのだろうか――

目線を下げると、手元に残った書きかけのノートが視界に入った。

ああそうだった。数学の質問に答えたくなかっただけ、なのかもしれない。


花火大会当日。

待ち合わせについて何も聞けないまま、その日を迎えてしまった。

場所も時間もない、いい加減な待ち合わせをしたせいで、僕は大変体力を使う羽目になった。

開始の1時間前から会場を探し回り、さらに開始時間を過ぎ。「冗談」というワードが頭をよぎったところで、当然のように彼女が現れたのだった。

その頃に僕はもう息が上がっていた。デートなんて思って舞い上がっていたけれど、彼女はいつもの調子だった。


「あら、浴衣を期待していたかしら。」


開口一番そんなことを言われた。どう見ても疲れている相手に対して、労いの言葉とかはないのだろうか。


「いや……僕の方こそ、普通に私服だし。」


確かに浴衣が見たい気持ちがないこともなかったけれど、正直私服が見られただけで満足していた。

一見無難な白いワンピースのように見えるが、よく見ると食パン柄、という不思議な服を着ている。

そこにパンの髪留めが合わさっているのだから、もはや猛烈なパン好きにしか見えない。


「もう少し早く来たらよかったわね。ほら。」


彼女は顔を照らしながら呟いた。花火はもう序盤の山に差し掛かっていた。

僕の待っていた時間の苦労を考えると本当にその通りなのだが、その横顔に免じて反論しないことにした。


「そういえば、海外では花火は見られるの?」


「私のいたところではあったわよ。音楽とかも流して、もっと騒がしかったわ。」


「じゃあ、こうやって話とかできない?」


「そうね、聞こえないもの。だから日本の花火の方が好きなのよ。」


僕の方こそ、こうして彼女の話を聞くのが好きだった。

知らない世界を広げてもらえるような、そんな風に思えるからだ。


しばらくそのまま彼女の話を聞いていた。

今まで聞いたことがなかった、彼女がどう生きてきたのかについて。


幼少期は日本で暮らしていたこと。

子供の頃から変わった子で、友達が少なかったこと。

親の会社の都合で海外転勤になり、日本での暮らしが絶たれたこと。

海外でも友達ができず、人付き合いには苦しんでいたこと。

そして再び日本に戻ってきて、今に至る。


人付き合いに困っていると聞いて、僕は不思議と安心していた。

何か独占欲のようなものなのか、あるいは仲間意識のようなものか。


「もう日本を離れたくない」と呟いていたのが印象的で。

もしそうなったら、僕は――。


そう思ったとき、ようやく自分の気持ちに気づかされた。

意識していなかった。その存在の大きさに。

彼女にいくら振り回されようとも。からかわれようとも。僕には、彼女が必要だったんだ。


「花火、綺麗だね。」


「私が?」


図星だ。そのつもりだった。

いつだって彼女のほうが、先回りをしていた。


「花火が」


「私のほうが」


「花火」


「私は花火じゃないわよ。」


いつもの調子に見えていたけれど、ほんの少し、微妙に、違和感があった。

半年の付き合いで分かってきた、彼女の言葉……何かが、足りない。


そう思うとなんだか気まずくて、沈黙して空を見上げていた。

二人、主役の光が消えるまで、煙空を見上げていた。


無言で家への道を歩く。

言葉はなくても、そこにある公園へと勝手に足が進んでいた。


ブランコに座った瞬間。古い映像が脳内をよぎった。

彼女がブランコを漕いでいて、話をした記憶。バレンタイン。

あのときのように、もし彼女の中に筋書きがあるのなら、この先は――


そう考えて。僕の中に決意が芽生えた。

彼女の先を行く。それをして初めて、僕と君の距離が縮まると思ったんだ。

加速する。君に並ぶ。そして、追い越す。

決意が結実して、口を飛び出そうとした。


瞬間。彼女の電話が鳴る。

彼女は珍しく申し訳なさそうにしながら、それを耳に当てた。

「遅くなってごめん、もうすぐ帰るから。」

聞く限り、どうやら親からの電話のようだった。僕への態度と違って、それはまるで年相応の子供に見えた。

話ぶりを聞くに、どうやら厳しい親というのは本当らしい。おそらく、門限なんかもあるのだろう。


「えっ。どうして……?」

これまた珍しく、彼女の困惑した声が聞こえて。そのまま、電話は切れた。


「ごめん。親がうるさくてね。」


行き場をなくした僕の決意の塊は、星空に逃げて行ってしまった。

そのまま彼女を見送ることしか、できなかった。


****************


夏休みが終わり、秋になった。

あれから彼女とは、あまり話さなくなっていた。

僕のほうは特に変わっていなかったのだが、極端に彼女に話しかけられる機会が減っていたのだ。


もちろんこちらから話しかければ無視されるということはない。

だが、これまでとは違って対応が軽く、若干避けられているとさえ感じる。


そして冬休み前のある日。

ノートの端にいつの間にか、力ない字で「いつもの公園で」とだけ書かれていた。


雨の降りそうな曇天の中、彼女はブランコに座り佇んでいた。

いつかのバレンタインとはまるで纏う空気が違っていて、別人のようで。

か弱く、細く。

しかし、不思議と違和感はなくて。元々そうだったかのようにさえ、見えたのだった。


それはブランコを漕いでいないからなのか、この曇天のせいなのか、あるいは――


横に座った、瞬間。激しい揺れ。

その場所は、軽く漕げば壊れてしまいそうなほど、絶望的に不安定に感じた。


人形のような少女が、語りだす。


「昔々、この街に。一人の女の子がいました。」


「女の子は少し変わった子で。人付き合いが下手で、中々友達が出来ませんでした。」


「彼女の両親は仕事が忙しかったので、女の子はいつも誰もいない家を飛び出して、公園のブランコを漕ぎながら、空を眺めていました。」


「ある日、一人の男の子が隣に座っているのに気づきました。」


「男の子はいつも、ブランコに座りながら本を読んでいました。」


「女の子は不思議でした。『なぜブランコを漕がないの?こんなに楽しいのに。』と質問します。」


「男の子は答えます。『本のお話はもっと面白いからだよ』と。」


「それから毎日のように、二人は公園のブランコで話をするようになりました。」


「女の子は人生で初めて、楽しいと思えることに出会えました。それは、男の子が語る本の物語を聞くことでした。」


「どんなお話でも、他人と関わりの少なく、本も読んだことのない彼女にとっては、新鮮なものでした。狭い世界を広げてもらえるような、そんな素晴らしい体験だったのです。」


「しかし一つだけ、困ったことがありました。恋のお話を聞くときは、なぜか顔が赤くなってしまうのです。」


「そう。女の子は、恋に落ちていました。」


「思いを伝えられないまま、時は過ぎていきます。」


彼女はここまで一息で話して、そのまま空を見上げた。

振り出した小雨と彼女の言葉が混ざり合って。

ぽつりぽつりと、僕の頭を打ち付けていた。


「幸せな生活は長くは続きませんでした。」


「ある日を境に、男の子がぱたりと公園を訪れなくなってしまったのです。」


「女の子は待ち続けました。来る日も来る日も。探し続けました。来る日も来る日も。」


「しかしある夜、出歩こうとしたところを親に見つかってしまい、外出を禁じられてしまいます。」


「女の子はそのまま、親の転勤と共に海外へ飛び立つことになりました。」


「そして、二度とあの男の子に出会うことはありませんでした。」


再び空を見上げる。今度は、遠くの空を見ているように見えた。


不思議と冷静な気持ちで話を聞いていた。

――――僕は、この話を、知っている。記憶のどこかに。

脳内を探る。ズキリと頭が痛む。それでも。


脳が、軋む。


何かを忘れてしまっていた。

とても大切な、何か。忘れてはならない、何かを。


彼女は、何を知っているのだろう。

そして僕は、何を忘れているのだろう。


彼女は曇り空を見上げたまま、普段の調子で話を再開した。


「問題。さて、このお話の『女の子』は誰でしょう。」


『女の子』。

記憶のない僕にも、おぼろげに推測くらいはできた。

「変わった子」、「両親が忙しい」、「海外に転勤」。

ここまで聞けば、彼女のことを少しでも知っていれば、推測ができる。


――じゃあ、『男の子』の方は――


鈍痛。視界が眩んで、意識が崩れそうになる。

僕の記憶には、やはり見当たらなかった。

だが、彼女の言い分を聞けば、おそらくそうなのだ。


身体を血が巡っていく。

僕が彼女に出会っていたこと。そして彼女が、僕を好いてくれたこと。

しかしそれを、僕が無下にしてしまったこと。

汗が噴き出した。僕は、君に何を――


そこまで考えて、僕は質問に答えることを思い出して。言葉を必死に絞り出す。


「凛々さん、だよね。」



沈黙。

強くなった小雨が、無抵抗な僕たちの頭を濡らしていく。



長い沈黙のあと、彼女はひどく悲しそうに呟いた。


「……やっぱり、覚えてないんだ。」


確かに、僕は忘れていた。この出来事について、覚えていなかった。

しかし。どういうことだ。

僕の頭の処理能力は、限界をとっくに超えていた。

『女の子』が彼女というのは、事実ではないのか――


「私ね、自慢じゃないけど、演技が上手いのよ。」


「だから、気づかなくても仕方ないわ。」


「私が、『あなた』と出会ってからの、私のことはね。」


「全部、『私の友人の』『女の子』のことだったのよ。」


脳が凍りついた。彼女と出会った、あの日のように。

頭がぐちゃぐちゃにになっていた。

君と僕が過去に出会っていたと思ったら、僕は君にひどいことをしていて。

でもそれは君じゃなくて。もう、何もわからなかった。

何も考えられないまま、宙を見つめる。


――じゃあ、何もかも、嘘だったというのだろうか。

これまでの半年間。

僕と出会って、僕と話をして、僕とデートをして。

そんなに長い間、僕を騙して、他人を演じていたというのか。


俄かには信じがたかった。

自嘲気味に笑うその顔こそが、演技のように見えていた。

君は、そんな笑い方を、しないから。


そして、僕自身が信じたくなかったから。

もし君と過去に出会って、僕を好いていてくれたのなら、これほど幸せなことはないように思えたんだ。


「冗談、だよね?だって、海外でも友達ができなかったって……」


彼女は僕の質問に答えず、そのまま話を続けた。

すらすらと、まるで台本を読みあげるかのように……。


「彼女とはね、私の地元の学校で出会った。日本から来た子で、珍しく気が合ったのよ。」


「普段は元気な子で、私とも活発に話してくれたわ。けれど、たまに彼女が遠い目をしているのに気づいたの。」


「それで聞いてみたら、話してくれた。この町での思い出をね。」


ひと呼吸置いて、彼女は僕の方に向き直る。

見たことがないくらい真面目な顔をして、僕を見つめる。


「私はね、『あなた』に、『彼女』を思い出させに来たのよ。」


――『あなた』。いつもと呼び方は違えど、それは僕のこと以外ありえなかった。

やはり僕が、その『男の子』だったのか。

なぜ、女の子を傷つけるようなことを、してしまったのだろうか。


その答えは、僕自身の中にあった。

僕は、10年前に事故に遭っている。

記憶の中にはないが、事故に遭ったときに何かを持っていたと聞いた。

きっとそれは、君と一緒のあのキーホルダーで。僕を守ってくれたのかもしれない。


だが、それを今ここで言ったとして、何を弁明できようか。

その『女の子』が彼女自身だとしても、彼女の友人だとしても。

ただの言い訳にしか、ならないじゃないか。

僕には、口を噤むことしかできなかった。


「だからね、私の目的はこれで終わり。」


「じゃあ。もう、会えないけれど。元気でね。」


もう、会えない。それは――


「……どういうこと、だ?」


這う這うの体で、言葉をひねり出す。


「私、また海外に帰るから。」


「もう、忘れないで。」


その言葉は、今の僕に向けられたものなのか。10年前の、僕に向けられたものなのか――。

僕は彼女を追いかけられないまま、見送ることしかできなかった。

去り際の彼女の目には、大粒の涙が浮かんでいたように見えた。


この日。僕は。

知らなかった、過去を得た。

その代償として、未来を、失った。


ある意味の、償いなのだろうか。

過去の自分がした、罪の。それが過失だとしても、罪は罪だ。

償い。

残された時間で、何ができるのだろうか。


いや、もう時間は、残されていないのかもしれない。

そう思えど、足は動かなかった。



****************



冬休みを終えて、再び学校が始まった。

隣の席に一縷の望みをもっていたのだが、それが当然かのように彼女はいなかった。


教師から、彼女が海外に戻るということが告げられた。

「1月の末までは日本にいる」と、言っていた。


十分すぎる猶予だった。

その時間で、彼女に会いに行くことだって、可能だったのに。


何の覚悟もできていなかった。どんな言葉で別れを告げればよいのか。

僕の罪と、彼女という存在と。その狭間で、押し潰されていた。


そして、ついに別れの日を迎えた。


朝のパンを齧ることを諦めた僕は、その足で駅へと向かっていた。

身体を動かすと、不思議と少しだけ頭がクリアになった。

これまで考えたことを整理する。


出会っていた『女の子』その人が彼女ということを、僕はいかにして証明できようか。

僕は必死でそのことを考えていた。

例えば、僕と彼女の共通して持っていたキーホルダーが思いついた。

だが、もし彼女が「友人から貰い受けたもの」だと主張するのなら、それでおしまいだ。

きっと刑事事件なんかであれば指紋とか、そういう手段があるのだろうけれど。


彼女には鉄壁の守りがあった。

そもそも彼女の主張を是とするのならば、僕は「本当の彼女」のことを何も知らないのだから。

そこから10年前のことを証明するのは、それはどんな未解決問題よりも難しく思えた。

何より、その時のことを僕自身が何も覚えていないというのが一番の問題だ。


そして更なる問題は、彼女自身が何者かだった。

もし彼女が『女の子』本人だったとしても。あるいは友人の願いを聞き入れたのだとしても。

信じがたいほど優しい人間ということに、間違いはないのだ。

好きだった男の子に裏切られて。あるいは友人の願いを聞いて。

そうしてここにやってきたのだから。

――君を好きになるのも、当たり前じゃないか。


「好き」だ。

そう自覚した瞬間、何かが弾ける音がした。

とても自己中心的だと思った。

でも、きっと。これが一番、重要なことだった。


それから僕は、とんでもなく馬鹿げたことを考えていた。

彼女に言えば、絶対に笑われてしまうような、本当にふざけた作戦。


僕は駅に行く途中で、百貨店に立ち寄った。

自分でも笑ってしまうくらい、人生で最もバカな買い物をした。

そういえば、ここで髪留めを買ったんだった。それを思い出すくらいの余裕は出来ていた。


よく考えると、彼女が駅にいるという確証もなかった。

僕はそれすらもわかっていなかったらしい。

花火大会を思い出しながら、しぶとく待ち続けた。

本当に、何を思い出しても。彼女と過ごす時間は楽しかった。なんて、思っていた。


そうして僕は見つけた。

1か月以上会っていなかったが、その姿を見ればすぐにわかる。

すぐに駆け出したくなる衝動を抑えて、片手で軽く手を振った。


横にいる男の人は父親だろうか。

彼女は何か一言言ってから、急いで僕に近づいてくる。


「何、してるのよ。」


明らかに動揺していた。こんなに動揺する姿を見るのは初めてだ。

ここぞとばかりに畳みかける。


「これ、あっちで凛々さんの友人に渡して。」


そう言って僕は、人の大きさほどもある、パンのキャラクターのぬいぐるみを手渡した。

これが僕の、作戦とも呼べないような、作戦。

話に乗る。友人がいるという仮定を是とする。

本当に性格が悪い思いつきだ。けれど、それで彼女自身を取り戻せるのなら。


「何よこれ……」


彼女が持つと、よりその大きさが際立って見えた。

口には出さないが、そのぬいぐるみが似合うのは、やはり彼女自身だと確信していた。


「僕からのプレゼントだって言って。10年前のお詫び。」


「お詫びって……急に現れたと思ったら、こんな大きなぬいぐるみを渡して。わけがわからないわよ。」


大きなぬいぐるみの横から顔を出して、ひどく話しにくそうにしていた。

僕は、そんな姿も可愛いなんて、思っているのだ。


「ごめん。でも、その子に会えないのなら、何か渡したくって。」


「えっと、咲也くんは知らないかもしれないけど。飛行機でこんなに大きいものを運ぶのは無理。追加でひと席買わないと……」


「だから、凛々さんの席に、代わりに乗せてもらってよ。」


「それじゃあ、私が…………」


彼女ははっとした顔をして口を噤む。

そう、彼女がすぐに気づくことを信じていた。

なぜならこれは、彼女が言ったこと。

没収された髪留めを取り戻すのに使った方法、そのままだった。


「…………」


彼女はそのことをきっと理解している。僕よりもずっと頭がいいのだから、当然だ。

唇を噛んで、ばつの悪い顔をしていた。

この顔も、見たことがなかった。やはり君のことを、何も知らなかったのかもしれない。


もう一つ。伝えなければいけないこと。

そして、本命の一矢。


「凛々さん、好きです。」


「あの『女の子』が凛々さんの友人だとか、凛々さん本人だとか。それは、わからないけど。」


「ただ、僕と1年間。同じ時を過ごした君が、好きなんだ。」


彼女は顔を真っ赤にして、ぬいぐるみに顔をうずめる。


「……バカ、バカ。」



****************



時は過ぎて、僕は大学生になろうとしていた。


あのあと、彼女は無理やり僕にぬいぐるみを押し付けて、父親のもとに戻ってしまった。

至極当たり前の話だ。

ロッカーの中と、飛行機の一席ではあまりにも価値が違うのだ。咄嗟に思いついただけのお粗末な作戦だった。


1か月後、手紙が届いた。

とてもシンプルな封に、聞いたことのない海外の地名と。『東雲凛々』という名前が書かれていた。

よく見知っている、綺麗な字だった。

久しぶりに、それを見返していた。


「まずは、ごめんなさい。」


「気づいていると思うけど、友人の話は嘘です。咲也くんが言う通り、私に友人はいませんから。」


「本当はね、無理を言って咲也くんに会いに来ただけなの。10年前の、本当のことが知りたかったから。」


「咲也くんがあのキーホルダーを付けているのを見つけた瞬間、嬉しかった。涙が出そうなほど。」


「でも、覚えてないみたいだったから。あとで調べたら、事故に遭っていたのね。これも、ごめんなさい。」


「本当はね。咲也くんに会えた瞬間に私は満足だったの。もう何もいらなかったの。」


「でも。欲が出ちゃって。君のことがまた好きになって。」


「それでまた海外に帰ることになって。バカみたいな嘘をついて。」


「そしたら。もっと君がバカみたいなことを言いだしたのよ。」


「ありがとう。」


「じゃあ、またね。」


今度は、僕が会いに行く番だった。



3月31日。

数字にバツをつける日々の終わり。

カレンダーの端で一つだけ描かれた丸印が、最後の聖域のように残っていた。


あれから、何度もカレンダーを見直した。


その日は、雨が降らないでほしいと思っていた。

今日は、雨が降っている。


太陽が見えてほしいと思っていた。

雨の向こうに、曇り空が見える。


それでも。

喜びで目が覚めた。

再会の日は、来た。

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ぬいぐるみとパン あたまろ @at_lhv

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