第7話 エモーショナルバスルーム

「痒い所ある?」


「いえ……大丈夫です」


 一体何が起こっているのか、リウはそんな事を考えながら大人しく頭を洗われていた。頭の上の泡は嗅いだ事の無いような良い香りがする、ジーニャに引き込まれたバスルームは大人が足を伸ばして入れるほど大きな浴槽、リウが見た事も無い高級なトイレタリー用品が使いやすさ、見た目の良さを損なわないよう美しく並べられていた。


「もっと楽にしていいのよ? 私たちしかいないんだから」


「はぁ……」


 力なくリウは答える、確かに想像もつかないような展開だったがジーニャが悪人では無い事をリウは理解している。足の傷に気付いた事や、自分の頭をこうして洗ってくれている事から彼女が悪人では無い事は明白だ。

 

 では何故リウは自分の目の前にある鏡を見ることが出来ないのか、何故ジーニャの姿を真っ直ぐに見ることが出来ないのか。

 

 それは間違いなくジーニャの自分には無い色気のせいだろう。


 バスルームに満ちた湿気のせいか水気を少し含んだ髪、それは先ほどまでの美しく束ねられた髪と比べてしまえばいささか理性を欠くように乱れている。

 だが水気と少しばかりの憂いを帯びた金色の髪は、美しくまとめられたもののみに人は魅せられる訳ではないという事を暴力的なまでに教えてくれる。

 

 ジーニャはすでに化粧という鎧を脱ぎ捨てていたが、それは彼女の美しさを損なう理由になり得ない。むしろそれら全てが、彼女の魅力を隠してしまっていたような気さえした。


 更に特筆すべきは彼女の体である、白い肌はきめ細やかでありそれでいて情熱的な物を感じる。体に巻かれた布切れ一枚では隠し切れないほど、見る者の情欲を掻き立てる何かがバスルームにむせ返りそうなほど充満していた。


「大人だ……」


 ぽつりと呟いたリウの言葉は弱弱しい、比べる事すら失礼に当たるのでは無いかといらない心配をしながらまるで借りてきた猫のように洗われていた。

 ジーニャはリウの頭に付いた泡をシャワーで洗い流し、体を洗いだした。自分ばかり洗われていては悪いと思ったリウは、ジーニャに体は洗わないのかと尋ねると、店に出る前に洗ったという返事が返ってきた。


 リウは髪の時もそうだったが、自分で洗うという意思は十分に示した。だがジーニャの面倒を見させてほしいという圧に負け、その厚意を素直に受け取ることにした。


「いい背中、あなた頑張り屋さんなのね」


 柔らかい褐色の背中にジーニャは指を這わせた、彼女は仕事柄多くの人間と接する。店に迎え酒を注ぎそして語らい見送る、そうやって性別も人種も善悪すら無く触れ合えば人を見る目も肥えていく。


「あ、ありがとうございます」


 少しくすぐったく思いながらも、リウは彼女の言葉を嬉しく感じていた。背中を洗ってもらった後、前も洗うとジーニャは言ったが流石にそこまで世話になるわけにはいかないと、リウはやんわりと断った。

 体に付いた泡を洗い流し、ジーニャに髪をまとめてもらってから二人で湯船に浸かる事にした。


「足、気を付けてね。お湯がしみたら無理しなくていいから」


「ありがとうございます」


 リウはゆっくりと足を湯船に入れる、少し足の傷に痛みが走るがすぐに慣れた。

 それよりもリウは、温かいお湯に浸かってみたい感情が溢れ出しそうだった。院ではお湯などほとんど使えず、真冬でも冷たい水で体を洗うしかなかったからだ。たまに使えたとしてもバケツ一杯程度のお湯を分けて使っていたため、人が肩まで浸かれる量のお湯など見たことが無い。

 

 期待と興奮を胸にゆっくりと湯船に体を沈める、その瞬間すべての血液が体を駆け出した。

 院で使っていた水と比べればその温度には天と地ほども差がある、だがその熱さは決して不快なわけでは無くむしろ心地いい。

 全身の血が音を立てて流れていくのがリウには分かった、指先から爪先まで血が巡り体が熱くなっていく。

 はぁ、とリズは思わず湿り気のないため息を吐いた。


「湯加減はどう? 熱くない?」


 ジーニャは足だけを湯船に入れ、浴槽のへりに座り尋ねる。彼女は熱めの風呂が好きだったため、風呂をいつものように熱めの温度で入れてしまっていた。

 

「気持ちいいです、お風呂って最高ですね……」


 今にも気持ちよさから浴槽に沈みそうになりながらリウは答える、それほどまでに彼女にとって風呂は衝撃だった。気を抜いてしまえば全身の力が抜け、そのまま眠ってしまいそうなほどの気持ちよさ、それを形容する言葉を彼女はそう多く持ってはいなかった。


「なら良かった」


 ジーニャはそう言って優しい笑みをリウに向ける。

 リウは少しだけ正気を取り戻し顔を逸らしたが、口元はまだ風呂のせいか緩んだままだ。

 

 そんな時リウの緩んだ頭にある疑問が浮かぶ、それはバグウェットとジーニャの関係だ。

 味覚オンチでヘビースモーカーでデリカシーの無いバグウェット、綺麗で優しく良い匂いのするジーニャ、この間違っても関りが無さそうな二人がなぜ知り合いなのか? 彼女の疑問は至極真っ当なものだろう。

 どう頑張っても店長と常連客という関係性を超えることが無いような二人、言ってしまえば全く釣り合っていないのだ。

 だが二人はどう見ても浅くない関係性に見える、それがリウは不思議だった。


「ジーニャさんはどうして……」


「あいつと付き合いがあるのか、でしょ?」


 リウは驚きながら頷く。まるで自分の考えを読んだようなジーニャに驚いたが、いま彼女の前にいるのは曲者ぞろいのフリッシュ・トラベルタでバーを営む歴戦の女店主、思った事がすぐに顔に出るようなリウの考えている事を読むことなど造作も無かった。


「話してあげてもいいけど、まずはリウちゃんの話を聞かせてほしいな」


「私の話……ですか?」


「そう、何でもいいの。生まれた場所、好きな食べ物、何でもね」


 リウは言われた通り、自分の事を全て話した。グランヘーロの孤児院、なぜここに来たのか、今日あった事を二人との出会いから全て包み隠さず話した。

 ジーニャはそれを静かに聞く、人によっては興味が無いと聞くのを辞めてしまいそうな話でも彼女は聞いていた。もしかしたら、自分ばかりが喋ってしまい退屈させてしまっているのではないかと心配の眼差しを向けるリウに、続けてと言って話をするように促す。


「リウちゃんは本当に正直な子なのね」


 全ての話が終わった後、ジーニャはそう言ってリウを見る。その言葉は優しくもあり、どこか哀れんでいるような印象を受けた。だがリウはそれに気付くような場数を踏んでいるわけでは無い、ジーニャの言葉をそのまま誉め言葉として受け取り感謝を伝える。

 それが余計、彼女の自分に対する哀れみの感情を大きくするとも知らずに。


「じゃあ次は私の番かな」


 ジーニャも湯船に体を沈める、二人で入ったためにお湯は溢れ出し排水溝に飲み込まれていく。もったいないという思いからリウが体を上げようとしたが、ジーニャがそれを制し結果として二人は向き合う形で湯船に浸かる事になった。


 一言でも言葉を話そうものならその甘い吐息がかかってしまいそうな距離、いま自分の顔が熱いのが風呂のせいなのか、別の何かが原因なのかリウには分からない。


「ねえ、リウちゃんにはあいつはどう見えた? ちゃーんと正直に答えてね」


「えーっと……味覚オンチで煙草が好きで、デリカシーが無くて……」


 知り合ってから一日も経っていないような相手を、リウは素直にこき下ろした。

 今日の出来事を思い返しただけでも次から次に悪口が出てくる。流れるように悪口を言いながら、途中でジーニャとバグウェットが知り合いだった事をリウは思い出した。

 言い過ぎたかなと心配になりながらジーニャを見ると、彼女は口元を抑えて必死に笑いをこらえていた。


「ぷっ……!」


 こらえ切れなかった笑いは口から弾け飛んだ、ジーニャは本当に面白いといった具合に声を上げて笑う。

 笑いすぎて息が切れてからようやく笑いが止まる、彼女の目には涙が浮かんでいた。


「そうね、その通り。あいつはそういう奴よ」


「ごめんなさい……私」


「いーのいーの、実際そうなんだから。むしろ良く見てるって褒めちゃう」


 ジーニャのバグウェットに対する評価もリウとそう違わない、彼女はリウの事が本当に好きになってきた。

 

「じゃあ約束通り、あいつと何で知り合いか教えるね」


 リウは身構える、きっと二人の間には何かしらの因縁があるに違いない。少しの間を置いてジーニャが口を開く、そこから放たれるであろう驚愕の真実を受け止める準備をリウは終えていた。


「腐れ縁ってやつ」


「え?」


 ジーニャは言葉を続ける、二十年前にバグウェットの仕事の関係で知り合い、そこからダラダラとした関係が続いている。

 それはあまりにも拍子抜けする答えだった。

 

「素敵な出会いだったと思う? 相手はあいつだよ?」


「確かに……」


 ジーニャの言葉は正しい、あのロマンチックから一番遠い場所にいるような男相手に一体何を期待しろというのか。彼女の言葉には、有無を言わさぬ説得力があった。


「それに臆病、この街で一番ね」


「臆病?」


 臆病と言われればそうかもしれない、リウは初めて会った時の事を思い出す。確かにバグウェットはリウの持っていたアタッシュケースをやたらと怖がったり、その他にも何やら不可解な行動をいくつかしていた。


「思い当たる事がいくつかあるんじゃない?」


「そういえば……私の持ってたアタッシュケースを怖がってました」


「それは仕方ないわ、アタッシュケースって爆発するものだから。特にこの街ではね」


 グランヘーロから来たリウに、その言葉が理解できないのは仕方のない事だ。

 アタッシュケースは爆発するものと思え、というのがここに住む者ならば誰でも知っている常識だ。

 アタッシュケースだけでは無い、ボストンバックやナップザックも爆発する。


「だからこの街ではそういった物が道に置いてあっても誰も近づかないの、そんなのを拾うのは浮浪者か何も知らない観光客だけよ」


「でも……どうして街中にそんな物が?」


「この街はいくつかある都市の中でも企業や組織の数はトップクラス、大小合法非合法問わずね、加えてイカレた宗教団体もいくつもある。そんな奴らが一つの場所に放り込まれたら小競り合いも起きるわよ」


 彼女が言ったほかにも、愉快犯や殺人狂など個人で犯罪を起こす者も含めればその数は更に跳ね上がる。

 だからこそこの街の住人は落ちているバックを拾わない、バックに入っている金品を手に入れることの出来る確率は、体を吹き飛ばされる確率よりも低いからだ。


「ここじゃ日常の何気ない動作一つが死に繋がるの、自販機のボタンを押したら爆発、ゴミをゴミ箱に捨てたら爆発なんて具合にね」


 ここでは息を吸うように人が死ぬ、その事実はリウに言葉を失わせた。グランヘーロでは考えられない、いま自分がこうして生きている事が奇跡にさえ思えた。

 その時リウは、バグウェットの何気ない行動の理由が理解できた。シギが自販機に向かう時に棒を渡したのは、棒でボタンを押し爆発した時に少しでも被害を減らすためだったのかと。

 だがもしそうなら、あの時の花を受け取る自分の手を止めたのにも理由があったのではないか? そう思ったリウは続けて質問する。


「あの……街中で花を渡してくる子供の事って知ってますか?」


「知ってる、でもあんまり気持ちのいい話じゃないよ? 本当に聞きたい?」


 聞いてしまえばこの街の、深く濁った泥沼に足を踏み入れてしまうような気がした。だがそれでも知らないままではいたくない、そんな感情がリウの首を縦に振らせた。


「その子たちはイノボ、正しくは無垢な導き手《イノセントボム》っていう生体兵器」


 およそ人が考えついた兵器の中で、ここまで邪悪な物はそうは無いだろう。もしかしたらこれを考えついたのは人では無いのかもしれない。

 子供の体内に強力な小型爆弾を埋め込み、任意もしくは遠隔で起爆する。


 だがこれでは従来の子供を使った自爆テロとなんら変わらない、洗脳したとしてもふとした拍子に洗脳が解けてしまうかもしれない、強制したとしても命が惜しくなったり誰かに助けを求めるかもしれない。


 だから誰かが考えた、中身はいらないだけあればいいと。


 幼い子供の頭を開き、脳を摘出し代わりの脳を入れる。薬物と身勝手な教えで汚れた脳を幼子の頭に押し込むのだ。

 そうすれば洗脳の手間も無く、死の恐怖も感じない無垢な歩く爆弾が完成する。

 もはや彼らに感情は無い、ただ脳にインプットされた行動をするだけの爆弾となるのだ。


「そんな事って……」


「多分リウちゃんが会ったのは『星屑の花畑』っていう宗教団体のイノボ、同情を誘うような容姿で近づき花を渡す、相手が花を受け取ったらボンってわけ」


 星屑の花畑の教えは『心優しき者は一刻も早くこの汚れた現世を去り、楽園へと旅立つべき』というもので、花を受け取った相手を心優しき者として楽園へ導く事が彼らの役目だ。

 星屑の花畑に限らず無垢な導き手は、様々な組織が使用する。

 子供の見た目は相手の警戒心を緩めるのに、非常に効果的だからだ。

 それでいて脳移植の技術も昨今ではそう難しい物ではなく、専用の器具とある程度の知識がある人間が数人いれば事足りるのだ。


「だからバグウェットは私を止めたんだ……」


「止めてなかったら、みんな死んでた。リウちゃんも、あいつも、シギ君も」


 リウは自分の迂闊さ、無知さに恐怖を感じてしまう。知らなかった事とはいえ、自分は大勢の人間を殺す手伝いをする所だったのだから。

 だがそれと同時に悲しさもこみ上げてきた、あの少年の声も去り際に見せたあの悲し気な笑顔も全て覚えている。

 胸が熱い、それは風呂のせいではない事をリウは知っている。水滴が水面に落ちる、それが自分の涙だと彼女が気づくのにそう時間はかからなかった。


「うっ……」


 泣き出したリウをジーニャはすぐに自分の胸に引き込んだ、水面はリウの心を表すように波打ち乱れる、彼女の腕の中でリウは泣いた。

 その腕の中でひたすらに泣いた、あの少年を思って泣いた。

 そして自分の無力さを思い知り、泣いた。




「落ち着いた?」


「はい……ありがとうございます」


 ひとしきり泣いた後、ジーニャに頭を撫でられながらリウは目をこする。涙こそ止まったが目はまだ赤く腫れていた。


「リウちゃんは孤児院育ちだから色々と思う事はあると思う、でも一度イノボにされてしまったらもう元には戻れない。私たちに出来る事はもうないのよ」


「でも……」


 割り切ってしまえば楽になる、事実この街の住人はそうやって生きている。死んだのは子供では無く人の形をした爆弾だと、そうやって日常の中に組み込んで生きているのだ。

 ジーニャもこの街に生きる者としてそうやって生きている、運が悪かったのだと僅かでも思いを馳せる分いくらか優しいとも取れる。

 だがそうやって生きれない人間がいる事も彼女は知っている、だからこそ彼女はリウがイノボの事を思って泣いた事を理解し、それを優しさだと、美しい事だと感じていた。


 ジーニャは真っ直ぐにリウを見た、自分の持てる限りすべての優しさを込めた瞳で見た。

 そこには正直で真っ直ぐで、現実を知らずまだまだ甘いだけの少女がいる。

 誰もが重いから、辛いからと捨てる荷物を捨て切れない少女がいる。

 この街で生きるには余りにも優しすぎる少女がいる。


「リウちゃんは本当に優しいのね、あいつが気に入るわけだわ」


「私を気に入る? バグウェットが?」


「そう、あいつはこの街に奇跡が無い事を誰よりも知ってる。銃で撃たれれば死ぬし、爆発に巻き込まれれば死ぬ、死んだ人間がもう二度と帰ってこない事も知ってるの」


 彼女がの言葉はただひたすらに事実を語る、医療技術が発展し体の半分を吹き飛ばされても助かる世界になり、この世界は少しだけ死を遠ざけられた。

 だがそれは死を克服したわけでは無い。死んだ人間は決して蘇らない、それは今だにこの人の世に揺るがない事実として存在している。


「だからあいつはあまり人と関わりたがらないの、でもそんな奴がリウちゃんをここまで連れて来たって事は、多かれ少なかれ気に入る部分があったって事だよ。リウちゃんはどう?」


 その問いかけにリウは思いを巡らす、思い出すのは口喧嘩をした場面がほとんどだ。だが確かに所々でうっすらと優しさを見せてくれてもいた、今までに会った事の無いタイプの大人で絶対に尊敬できるような人物ではないはずなのに、嫌いになり切れない自分がいる。


「気に入る……とかでは無いです。ただ……その……嫌いという訳では……無い……です」


 恥ずかしそうに途切れ途切れに喋るリウは、素直にバグウェットの事を褒める事ができない。思い返してみればそこまで悪い人間では無かった、だがそれを口にするのはなんだか恥ずかしく思えてしまった。


 そんなリウを見て、ジーニャは自分の中にある感情を抑えきれずにリウをまるで猫を可愛がるようにもう一度抱き寄せ、もみくちゃにした。

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