ガドリング・フィールド

猫パンチ三世

第一章 猫を拾った日

第1話 キャットガール

 煙草くさい部屋の中で男は寝ていた。

 床には書類や下品な雑誌があちらこちらに広がり、所々錆びの浮いたブラインドから差し込んでいる陽の光は空中を舞う埃を嫌味なほど鮮やかに照らしている。

 年季の入った机と背もたれが破けて綿が飛び出したソファーは、脱ぎ散らかした衣類にそのほとんどを覆われてしまっていた。

 男が向かっている個人用の机も、山積みにされた書類や本がうず高く積まれ奇跡的なバランスでどうにか形を保っている有様だった。部屋の隅の気まぐれに置かれた大きな観葉植物は、どこか呆れた様子でこの荒れ果てた自堕落な部屋を眺めている。


 時刻は朝の七時、いつもなら鳴らないはずの呼び鈴が鳴った。


「バグウェット! 起きてますか!?」


 勢いよく古ぼけた茶色い扉が開け放たれ、元気のいい声が響く。

 年の頃は十二歳ほど、上品さを感じる短くカットされた金髪と美しい翠眼が印象的な少年が部屋に飛び込んできた。その端正な顔立ちに似合わない少し大きめの庶民的な黒いパーカーは、少年の存在をどこか浮かせている。


「随分早い目覚まし時計のお出ましだな、時間を早めたつもりは無いんだが?」


 机に突っ伏したまま嫌味を言う声は、煙草で少し擦れたような低く不思議な響きのある声だ。

 その声色から、彼の機嫌が良くない事を少年は敏感に察する。

 

「まぁーそんな事は良いじゃないですか、早起きは体に良いですよ?」


 少年は察したが特に気にする様子はない。

 目の前にいる男の寝起きが悪くなかった事など、数える位しかないのだから。


「るせえ、眠いのに無理くり起きる事のどこが体に良いってんだ」


 そう言って仕方なさそうに、バグウェットは机から顔を上げる。乱れた薄赤色の髪、野暮ったく目つきの悪いブラウンの瞳、顎にある無精髭は酷くだらしない印象をこの男に抱かせる。

 着ているワイシャツもどれくらいアイロンをかけていないのか、そう相手に考えさせる程度にはくたびれていた。

 

「で? なんだって今日はこんなに早いんだよ、まさか遊園地にでも行こうなんていう訳じゃねえよな?」


「何言ってんですか、今日は腕を見てもらいに行くから早く起こせって言ったのはそっちですよ」


 ああそうだったかと、頭を掻きながらバグウェットは記憶を辿る。

 アルコールと睡眠不足でまともに動ない頭の中、その奥の片隅にぼんやりとだが確かにそう伝えた記憶がある。

 それを思い出したバグウェットは、決まり悪そうに頭を掻いた。


「あー……そうだったな。悪い悪い、飴やるから勘弁してくれ」


「まったく、勘弁してほしいのはこっちの方ですよ」


 そう言って少年は差し出された棒付きの飴を受け取った。受け取った飴はしっかり自分の好きなグレープ味、詫びの品としては上々だ。

 バグウェットは何かあった時の為に、机の中にワオスイーツという製菓会社のグレープ味の飴を大量に仕込んでいた。バグウェットは、まさかこんなに早く使う羽目になるとは思っていなかったが、嬉しそうに飴を咥えた少年の姿を見て胸をなでおろした。


「そうそう、ソファー少し片づけますね」


 飴を口に咥えたまま、少年はソファーの上にあった衣類をひとまとめにするとバグウェットに投げつけた。

 一体どうしたと言うのか、自分の衣類を頭からかぶりながら彼は考える。いつもだったら少し嫌味を言うくらいで終わると言うのに、今日は片付け始めた。


「どうしたんだ急に?」


「猫を拾ったんです、可愛いですよ」


 

 バグウェットは煙草に火を点ける。

 そして火をつけるや否や、思いっきり吸いこんだ。普段ならばこんな吸い方はせず、だらだらと吸うが今は少しでも現実から目を背けたい、そんな気持ちがバグウェットの煙草をより早く燃やさせた。

 

「またドレットノート? いい加減飽きません?」


「これが一番うめえんだよ、ガキにゃ分かんねえだろうけどな」


 甘く吸いごたえもあり何より安価なドレットノートという銘柄の煙草を、バグウェットは煙草を吸いだしてからずっと愛用していた。

 若い頃は色々と吸っていたが、結局彼はこれに戻ってきてしまう。一本目を手早く吸い終え山盛りになっている灰皿にどうにか押し込む、部屋には特有の甘苦い煙が漂っていた。

 

「で? こりゃ一体どういうことだ? 説明してくれるんだろな、シギ君よ」


 二本目の煙草に火を点け、ソファーを覗き込んだバグウェットの目に映るのは一人の少女。

 腰の少し上まで伸びた細い黒髪、この辺りではあまり見ない薄い褐色の肌、年の頃は精々十八といった所だろう、まだ顔にはあどけなさが残る。


「事務所の前に倒れてたんです」


「バカか! こんないかにも訳ありな奴を事務所に入れんじゃねえよ、本物の猫ならまだしもよ」


 バグウェットは頭を痛める、一体この少女が何者なのか、まずはそこが問題だった。

 確かにこの街では路上に人が倒れている事はそう珍しい事では無い、問題と言えば『自分の事務所の前』で『この辺りで見た事のない少女』が倒れていたという事だ。どう考えても怪しく危険な少女、今この瞬間にでも大爆発を起こしそうな少女にバグウェットは怯えていた。


「……駄目だ、今すぐどっかに置いてこい。できれば二百メートルくらい離れた所に」


「この子カップラーメン食べますかね?」


 バグウェットが煙草を吸いながら考えを巡らしている間に、シギはカップラーメンにお湯を入れて持ってきていた。どうやら最初からバグウェットの意見を聞く気は無いらしい、冷蔵庫から勝手に水も持ってきている。


「お前は話聞いて無かったのか!? 置いて来いって言ってんだよ! つかこれ俺のラーメンと水じゃねえか!?」


 バグウェットは両拳をシギのこめかみにぐりぐりと押し当てる、言って分からないならこうするしかない。

 

「痛い痛い! それやばいって、マジで痛いですって!!」


 大声で喚いたシギは地面に倒れ込んだ、こめかみを抑えたまま呻いている。

 

「置いて来いって言いますけどね、この街でこんな女の子を道に置いとくってどういう事か分かってるでしょう……?」


 シギのいう事が分からないバグウェットではない、この街でどこかに置いてこいというのは猛獣の檻に眠ったまま裸で放り込むのと一緒だ。

 あっという間に、それはそれは無惨な事になるだろう。


「分かってるがな、こいつがイノボって可能性もある。こいつが事務所の前にいたのも、俺らに恨みのある奴らの差し金って可能性もある。変に情けをかけてもいいが、天国までぶっ飛ぶのは俺たちなんだ」


 バグウェットたちの仕事は誰に恨まれてもおかしくないものだ、ここではなんでも武器になる。

 いたいけな少女を歩く爆弾にして送り込んできそうな人間もごまんといる、この街で一番大事な事は『自分が死なない事』なのだ。


「分かったらどっかに置いてこい」


「はいはい、分かりましたよ」


 ちぇっと小さく残念そうに舌打ちをしてから、シギは立ち上がった。事務所に運び入れるのも大変だったのに、骨折り損だったなと思いながらソファーに向かう。

 彼がソファーの前に立ったと同時に、ゆっくりと少女が目を覚ました。ぼんやりとした瞳で天井を見ている。

 その瞳は燃えるように激しく、澄んだ赤色をしていた。その美しさに、思わずシギは見入ってしまう。


「何やってんだ、手伝ってやるから。さっさと運び出すぞ」


 いつまで経っても動かないシギにしびれを切らし、バグウェットは少女を抱きかかえた。


「あっ、起きてますよその子」


「は?」


 バグウェットが少女の顔を見る、彼女の赤い瞳と彼のブラウンの瞳が重なる。

 部屋の時間が、一瞬だけ止まったような気がした。


「おい、お前……」


「きゃーーー!」


 バチンという乾いた音が部屋に響き、バグウェットの言葉は遮られた。

 彼は心底シギを恨んだ。

 

「だから置いて来いって言ったんだ、お前のせいだからな」


 右頬を赤く腫らしバグウェットは心底うんざりした表情で煙草を吸う、機嫌悪げに煙草の煙を吐き出した彼をシギは申し訳なそうに見ていた。

 

「いやーほんとに申し訳ない、思ったよりも凶暴な猫さんでしたね。あはは」


 ぶっ飛ばしてやろうかとバグウェットは拳を握るが、シギはどうせ大して反省しないだろうと諦めている。また煙草の一つでも買いにいかせりゃいいか、そう自分を慰めながら右頬をさすり、しみじみと天井を見つめていた。

 

「つーかよ……てめぇはなんで何事も無かったようにラーメン食ってやがんだ!」


 思い出したように机から叫ぶ彼に構うことなく、少女はソファーの上でカップラーメンを凄まじい勢いですすっている。

 伸びきった麺を一本も残すかと丹念にすくい、汁も残さず飲み干した。

 ペットボトルの水も蓋を開けると、一気に半分ほど飲んでしまった。


「ふう……ごちそうさま。あんまりおいしくなかったけど、腹の足しにはなったわ」


「やっぱりそれあんまり美味しくないですよね」


 少女が食べたのはバグウェット一押しのカップラーメン、豚骨チーズケーキ味。こんな美味い物があったのかと、彼は初めて食べた時に衝撃を受けた。

 その衝撃がどれほどだったかは、初めて食べた3年前からバグウェットはこの味以外のカップラーメンを食べていない、と言えば伝わるだろう。

 ただこれを気に入る人間はそうはいないらしく、以前シギは怖いもの見たさで一口食べてみたが、その味に彼は言葉を失った。

 

 これでもかとぶち込まれた脂に加えて、ほんのりとだが確かにその存在感を放つチーズケーキ、さらに一口食べれば腹が膨れてしまいそうな極太麺。

 それらすべてが微妙なバランスで混ざり合い、不協和音を奏でながら口の中にギトギトの甘い脂を残し胃にずり落ちていくのだ。

 この悪ふざけで作ったとしか思えない一品を、バグウェットはバクバクと平らげてしまう。


「ったく何なんだてめえはよ、どっから来た? 目的は?」


「リウ・バスレーロ、リウでいいわ。あなたたちは?」


 やはり得体がしれない、バグウェットの知り合いにバスレーロという姓の人間はいない。こいつは一体何者だ? 易々と名前を教えるのもまずい気がする、バグウェットは何と答えるべきか悩んでいた。


「僕はシギ、あっちの煙草臭いのがバグウェット」


 シギはバグウェットが悩んでいる間にペラペラと話してしまう、それを見てなんだかどうでも良くなってきてしまったバグウェットは、吸い殻の山を崩したり積み上げたりして遊びだしてしまった。


「お姉さんはなんで倒れてたんですか?」


「それが……私グランヘーロから歩いて来たんだけど、道がわかんなくなっちゃて」


「歩いて来ただぁ!? グランヘーロからフリッシュ・トラベルタまでか!?」


 バグウェットの驚いた拍子に吸い殻の山が崩れる。

 彼らが暮らす都市フリッシュ・トラベルタから、リウが来たと言うグランヘーロまでは車で三日もかかる程離れている。移動方法は飛行機、車、リニアとあるはずなのになぜ徒歩を選んだのか? 二人は本当にリウが狂人か何かではないかと、静かに背筋を冷やしていた。


「ずっとじゃないわよ、最後の方は車に乗せてもらったから。歩いたのは精々三日ってところ」


「そんで着いたはいいが腹が減ってぶっ倒れた……って事か?」


 恥ずかしそうに顔を赤らめてリウは頷いた。

 呆れも果ても尽き果てる、良く無事だったなと運の良さに関心している間にシギが入り口から何か持ってきた。


「これお姉さんの?」


 机の上に重そうな音を立てて置かれたのは銀色のアタッシュケース、中身に何が入っているのかは分からないがかなり重量があるようだ。


「んなもんを持ち込むんじゃねえ! 爆発したらどうすんだ! 早く離れろ!」


 バグウェットは椅子の後ろに隠れてギャーギャーと騒ぐ、その様子を冷めた目で見るリウを見てシギは苦笑していた。

 

「あれってあんたのお父さん? だとしたら気の毒ね」


「嫌だなぁ違いますよ、僕の父親はもっと頭の良い人ですって」


 バグウェットは、自分がしれっと悪口を言われている事に気付いた。だが今はそんな事はどうでもよかった、この街ではアタッシュケースは爆発するものと相場が決まっている。


「大丈夫よ、これはあたしがパパから預かった物だから」


 ありがと、そうシギに礼を言ってアタッシュケースを受け取る。随分と大事な物なのだろう、リウはアタッシュケースを優しくソファーの上に置き、愛おしそうに撫でた。

 とりあえず爆発はしないらしい、椅子の後ろから恐る恐る出てきたバグウェットの姿は実に情けなかった。


「ったく、これから俺たちは出かけるんだ。仕事相手でもないお前にこれ以上時間かけられるか」


 そう言ってバグウェットは、後方のハンガーラックから黒いチェスターコートをひったくるように取った。ずいぶん長く使っている物らしく、少し色褪せてしまっている。


「仕事? そういえば二人でしてるって言ってたけど何の仕事をしてるの?」


 バグウェットは面倒くさそうにコートを着る、どうやら答えてくれる気はないらしい。代わりに目の前に座っていたシギがその質問に答えた。


「なんでもですよ。お客様のご要望とあらばなんでもね」


「それが僕たち便利屋『クロートザック』の仕事ですから」


 おっさんと少年が営む便利屋クロートザック。

 彼らとの出会いが自分の運命を大きく変える事を、少女はまだ知らない。

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