まよい路の三爺

田井田かわず

第1話 日暮れの路地

 小学校の終わりの会のときから、みゆきは憂鬱でした。日直をしている同級生や、先生の声が聞こえますが、みゆきの耳には右から左へ抜けているようです。

 みゆきは顎を机の上のランドセルにのせたまま、日直の頭上の時計を見ました。この会が終わるのは、あと数分。家に帰るのに、ゆっくり歩くと二十分ほど、それからまた三十分立てば、お習字教室に行かなければいけません。毎週この曜日には、朝のうちにお稽古カバンを用意するので、帰れば玄関で猫のイラストのカバンが迎えてくれる事でしょう。それを考えるだけでため息が出ました。今日は友達との約束だってできないのです。

 ぼっーっと時計を眺めているとチャイムが鳴りました。日直の声とともに、立ちあがって帰りの挨拶をします。多くの子どもたちが、早く帰って出来るだけ沢山遊ぼうと、一斉に教室を飛び出します。

 みゆきも友達に、またね、と、手を振りましたが、足どりは重く、ずるずる踵を引き摺りながら教室を出ます。

 校門をくぐっても家に帰る気になれなかったみゆきは、少し遠まわりをしようと思いました。夏休み前の今は、まだいくらか風も涼しいですし、良い気分転換になる事でしょう。

 校門を出て一つ二つ道を挟んだ先には線路が走っています。その線路を越えて家に帰るためには、学校の近くの駅の下をくぐるか、線路沿いに少し歩いた先にある、神社の前の踏切を通らなければいけませんでした。

 みゆきの家は、神社とは反対の方向にあるので、いつも駅の下をくぐって家へ帰っていました。お母さんとの買い物も、その駅をくぐった先に伸びた商店街くらいしか行った事がありません。みゆきは神社側の道に興味がわいてきました。そちらの方向は、二度か三度、友達に連れられて通ったくらいですが、みゆきは、自分は迷いはしないだろうという自信がありました。

 時間までにはきっと帰れる、そう思って、みゆきは神社の方へ線路沿いに歩き出しました。

 神社の前まで来て道を折れ、踏切を越えると広い道が横切ります。それに沿うように立ち並ぶ小さいビルの陰から、車一台がやっと走れるくらいの細い道が伸びていました。道に入ると、色んな家がまぜこぜに建ち並び、車道は家々を避けるように身をくねらせて伸び、時折、人しか通れないような小路が民家の脇に浸みこんでいました。友達に連れられて来た時には、そういう小路に入る事が無かったみゆきは、知らない道を探検したくなりました。

 熱くなって脱いだ、薄いジャンパーを腰に巻きつけ、どんどん奥に入って行きます。

 道から道へと歩いて行っても、すれ違う人はいませんでしたが、建ち並んだ家から、たまあに、赤ちゃんの泣く声が聞こえたり、少し気の早いごはんの匂いがしたりします。

 ふと見上げれば本当に色んなお家があって、蔦を絡ませた家や二階建ての小さなアパート、洋風に建てられた家、もう誰も住んでいなさそうな壊れた家、あるいは、まさに長屋といったような、いくつも連なった平屋の並ぶような小道がありました。そんな道はコンクリートではなく砂利が弾いてあって、みゆきを驚かせました。

 入り組んだ道だけに、行き止まりに突き当たってしまう事もあって、そのときには引き返したりしながらも、ひと気のない路地を、家へ向かって独り歩いていきました。

 しばらくすると屋根の向こうに竹林が見えました。

 あの竹林をみゆきは知っていました。あそこを正しい方向に抜けたら、商店街の横腹の入口までの、近道になるはずです。

 しかし林の中に、道らしい道はありませんでした。人が歩いたあとが、芝を枯らしてうっすら残っているほどです。しかもうっそうとした林の中は、ゆるやかな坂になっていて、先を見通すのは難しそうでした。ちゃんと真っすぐ商店街までたどり着けるのでしょうか。迷ってしまったら、尋ねる人もいません。

 みゆきは少しためらいましたが、覚悟を決めて上着をはおり、薄暗い中に足を踏み入れました。知らない道を歩いて、いつもより疲れを感じていたみゆきの足に、土の道は柔らかく感じられました。

 しかし、それも少しの事でした。

 竹林の真ん中でみゆきは立ち止りました。自分が進んでる方向が正しいのかどうか、わからなくなってしまったのです。

 時計が無いので、どのくらい時間が立ったのかわかりませんが、足はとっても痛いし、林の中をもうずいぶん歩いたような気がします。そもそも林に入る前、入り組んだ路地を歩いていた時から、みゆきはどこを向いてるのかよく分からなくなってしまっていました。

 みゆきは途方にくれました。

 いつの間にか、日も傾いたような気がします。みゆきは、早く帰ってお習字に行かなければいけなかったのに、ちゃんと間に合うのでしょうか。

 黙って遅くに帰り、お習字に行かなかった事を怒るお母さんの顔が浮かびました。お母さんは怒るととっても怖く、厳しいのです。それを思うとお腹が痛くなり、みゆきは一生懸命言い訳を考えていましたが、そもそも帰る道がわかりません。足が痛くて座り込んでしまいたかったけど、歩かないと帰り路を見つける事も出来ずに日が暮れてしまいます。

 カラスの鳴き声が、ずいぶん遠くで聞こえました。

 みゆきは気が急くのに帰り道がわからず、どんどん心細くなって来て涙が出そうでした。でも自分の招いた失敗のために自分を可哀想に思うのは馬鹿らしく感じたので、気の強いみゆきは悲しい気持ちを飲み込みました。

 それでも心細さと足の痛みは消えません。どちらに向かって歩いて行けばいいのでしょうか。

 また熱くなってくる鼻をこすりながら、肩に食い込むランドセルを下ろして、みゆきは足元を見つめました。

「お嬢ちゃん、どっか具合悪いのかい?」

 後ろから突然声がかかりました。みゆきは驚いて振り返ります。

「え、どっからきたんだい?」

 さっきまで誰もいなかった影から杖を持った三人のお爺さん達が現れました。心配そうにみゆきの顔を覗き込みます。

 一体いままでどこに居たのでしょうか。三人とも白髪を長くのばして和服を着ています。ちょっと変わった風貌にみゆきは警戒して口を閉じました。

「なあ、ヌルさん。この子は人の子じゃないか?」

 三人の中でも一番きちっとして、しわの伸びた和服を身につけ、絹のように真っ白な髪を襟もとで結ったお爺さんが言いました。

「ありゃ。そうかね。そうだったら場所を聞いても、きっとわからんなぁ。どうしよう。」

 隣に立ったお爺さんが顎の先に芝生のように生やしたひげをなでながら答えます。

 そのおじいさんは落ち武者のように前からてっぺんまで禿げていて、横に垂れた少し黄ばんでしまっている白髪を三つ編みに結っていました。皺を深く彫り込んだ目元を細め、杖を抱き込んで腕を組みます。

「ほれ、娘さん。なんとか言わんと、じじい達が困っちょる」

 杖の先にヒョウタンをくくりつけて鼻を赤くしているお爺さんが他の二人のお爺さんの挙動を見て、わははと笑いました。

 彼は一番体が大きく肩まである髪を前髪だけ後ろでまとめ、あとはぼさぼさと散らしていました。いっけん怖そうな見た目の割に太くて温かみのある声で、みゆきに声を掛けます。

 その声とお爺さんたちのひょうきんな様子に励まされ、みゆきは声を絞り出しました。

「……お爺さんたち、だれ、ですか」

 言ってみてから、ハッとして唇を触ります。きのう見たアニメで、「名を尋ねるときは、まず己から名乗るものだ」という事を、厳めしい老人が言っていたのを思い出したのでした。お爺さんたちに謝るか、名前を言うか、みゆきが迷っていましたら目元のしわの深いお爺さんが、そうだそうだと手を打ちました。

「こんな怪しい爺に囲まれてさぞ怖いに違いないね。あたしの名前は、“ヌル ”といいます」

 そう言って、あとの二人も促します。

「私は、“ムイ ”と言います」

 この三人の中では一番年上なんだよと、絹のような髪のお爺さんが手を差し出しました。みゆきはおっかなびっくり、その綺麗な手と握手をします。

「わしは“ノサ ”ってんだ。よろしくな」

 体の大きなお爺さんがみゆきの頭を撫でました。初対面の人に頭を触られるのは何となく嫌でしたが、あまり乱暴じゃなかったのと、ノサ爺さんの見た目がちょっと怖いので、みゆきはじっとしていました。でも手が離れた後でこっそり自分の短い髪を撫でつけました。

「お嬢ちゃんはなんていうんだい?」

 優しい目元のヌル爺さんは息を吐きながら、みゆきの前でゆっくり体をかがめました。すると、だいたい同じくらいの目線になります。

「……みゆき、です」

 声を小さくして、みゆきは名乗りました。

「みゆきちゃんかぁ。そんな子、近所におったかなぁ。ヨネさんちには娘さんがいたが、そんなハイカラな名前じゃなかったろ?」

「さっき、ムエさんが言ってたじゃんよぉ。ヌルさん、この子たぶん人の子だ」

 みゆきの縮こまった態度を意に介す様子も無く、立ちあがったヌル爺さんとノサ爺さんが話し出します。ヌル爺さんがヒゲを触るのは、どうも考え事をしてるときの癖のようでした。

 一体なんの話しをしてるのかわからないみゆきは、キョロキョロと三人を見ました。すると、ムエ爺さんと目が合いました。

 するとムエ爺さんが不安そうな少女に微笑みかけました。

「私たちはね、言うとこの、妖怪とか妖精とか、そういうものなんだよ。なんか変な格好をしているでしょう」

「お爺さんたちは、ずっとここに居たんですか?わたし、一人ぼっちだと思ってて…」

 みゆきは、どう聞けばいいのか考えながら、やっとの思いで尋ねました。

「ええ。ここに居たと言うよりは、そこの影の小屋で三人でお喋りして暇をつぶしていたんだけれどもね」

 ムエ爺さんがそう言って、まさにみゆきが来た方向を指さします。そんな所に小屋があったでしょうか。みゆきはまた考えこみました。

「それにしたって、こんなとこに人が来るなんて珍しいな、ムエさん」

 ヌル爺さんと、みゆきのランドセルがどうとか服がどうとか話していたノサ爺さんが言いました。

 どう言う意味なのでしょうか。みゆきはお爺さんたちの言うことに首をかしげてばかりいました。だってここは、たしかに道のない竹林ですが、人の通った跡がちゃんと残っていました。何より、ここら辺で二、三番目くらいには便利な商店街への近道のはずです。すぐそこは民家だらけだし、珍しいと言われるほど人が通らないはずないと、みゆきは思いました。

「お嬢ちゃんどうやって、こんなとこ来たんだい」

 ノサ爺さんに言われて、まったく見当違いの事を考えていたみゆきはハッとしました。今は、そんなこと気にしている場合ではないはずです。

「道に……迷って。だから、わからないんです」

「そうだったのかぁ…」

 ノサ爺さんが、悲しそうに太い眉をハの字にして言いました。みゆきはまた、自分が可哀想になってきました。

「こらこら、あんたが悲しい顔するんじゃないよ、ノサ」

 ヌル爺さんがそれを窘めて、しょぼくれたみゆきの背中に手をあててくれました。

「荷物を下ろして佇んでたのは、そういうわけだったのかい。どのくらい歩いてきたかは知らないが、疲れたろうね」

 ムエ爺さんが、そう言ってみゆきを労いました。

 知らないお爺さんに囲まれて、帰り道もわからず、不安だったみゆきは、少しホッとしたような気持になりました。

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