第6話 目覚めの時

 乾いた大地に足跡が二つ。


 海を目指して二人は荒れ果てた土地をひたすら歩き続けていた。

 ニゲラは焦っていた、日に日にアイリスは弱っていくのが目に見えるからだ。あの廃屋から五日目、吐き気と悪寒から始まり、遂には隠しきれない程の吐血を繰り返すようになってしまっている。体は今まで以上にやせ細り、自力で歩く事すら難しくなってきている。


「大丈夫……まだ大丈夫だから……」


 そう言ってアイリスは地面に倒れこんだ。

 もう動けない、気力の問題ではなく体がもう動ける状態ではないのだ。食事もまともに取れない上、藁は元々体が弱く短命だった。


 共通の症状として、吐血、貧血とそれに伴う眩暈や動悸。そして最後は体を動かす事さえ厳しくなり衰弱死していく。症状の進み具合はある程度の個人差はあれど、最後は逃れられない死に追いつかれる。


「ごめんね、すぐ立つから……」


 体を起こそうと地面についた腕が震える、身体が重い。

 自分のものではないような、いいや思い出せば元はこうだった。最近の身体の調子は良すぎたくらいだ。

 

「馬鹿言え、無理すんな」


「大丈夫だから、行こう……?」


 無理矢理体を起こそうとするアイリスの肩にニゲラは手を添えた。


「行くに決まってんだろ、でもお前は無理しなくていい」




「重くない?」


 背中のアイリスは自分の事よりも、背負ってくれているニゲラを案じている。


「重えよ、黙って休んでろ。目ぇ覚めたら海についてるからよ」


「うん」


 歩き続けるニゲラの上を火が飛んでいく、なぜかは分からないが以前見た時よりも憎らしく見えるのはなぜだろう。

 おかしい、歩くたびに足が重くなるのだ。体力は十分あり気力も尽きてはいない上そもそも死なないから体への負担など考えなくてもいい。なのに海に近づくほど一歩が重くなる。

 海に行ってはいけない、水平線から昇る太陽なんて見たくない。

 今すぐにでも引き返してしまえないだろうか。


 夜通し歩き続ける、朝が来ても、昼になっても歩き続ける。

 余計な事を考えないように歩を進める。アイリスの口数はだいぶ減った。

 食事はもう取れなくなってしまっていたため、どうにか水だけ飲ませながら進む。

 アイリスが吐血する事はもう無い、もしかしたら『吐く血』がもう無いのもしれない。


 アイリスを背負ってから四度目の朝を迎えようとしていた時、二人は海岸に座っていた。

 海に面した崖先であぐらをかいたニゲラの腕の中でアイリスは息をしていた。二人でどこまでも続く海を眺める、やがて水平線から太陽が顔を出した。

 さっきまで暗かった世界を照らす光は温かった、温かいのに冷たい。波が崖に当たり砕け散る、潮の香りが二人を包んでいた。

 この世界にはもう二人だけしかいないのではと、そう思ってしまうような美しさをこの光景に見出していた。


「綺麗だね」


「ああ……そうだな」


 ニゲラは腕の中にいるアイリスの体温を感じていた、忘れないように、失くしてしまわないように。少しずつ体温が失われていく彼女を強く抱きしめる。


「ニゲラ……今まで本当にありがとう……」


「おいおい、縁起でもねえ。やめてくれよ」


 だが、アイリスはやめない。わずかに動く唇を動かす。

 今言わなければ、きっともう何も言えなくなってしまう。


「私ね、ニゲラに会えて本当に良かった。ニゲラがいなかったら私は多分まだ闇の中にいた」


「やめろって」


 ニゲラは薄く笑顔をつくり、ふざけたようにアイリスの言葉を止めようとした。

 太陽を見終わったら、すぐに次に行く場所を決めさせなくては、アイリスはいつも時間がかかるから。


「ニゲラが私にここから出たい? って聞いてくれた時ね……本当に嬉しかったんだ」


「やめろ」


 言葉に力が入る、アイリスの言葉をどうしても止めたい。

 歩いてるときはまともに喋らなかったくせに、今になって喋りだしやがって。

 ああ、本当に仕方ない奴だ。


「私にたくさんの景色を見せてくれて……色んな場所に連れて行ってくれて……本当に……」


「やめてくれ!!」


「ニゲラ?」


 ニゲラは語気も荒くアイリスの言葉を遮る。

 聞いていられなかった、もう聞きたくなかった『最期の言葉』など。


「いい加減しろって、お前はまだまだこれからだろ!? 馬鹿みてぇに笑ってアホみたいに泣いて! どうせ死ぬんだったらなぁ! しわくちゃのババアになってから笑って死ねよ! そうじゃなきゃなぁ……報われねぇだろ……」


 ニゲラは自分が最低だと自覚していた。アイリスと共にいる時間を重ねるたびに『暇つぶし』などと考えていた過去の自分が許せなくなってきてしまった。

 アイリスはふふと小さく笑う。


「報われてるよ。ニゲラに出会った時からね……最後に笑って死ねるんだよ? 十分じゃん」


 またか、またなのか。何もできずにまた目の前で死なせるのか。

 この役立たずが、死ねばいいのに。


「馬鹿野郎……俺はなぁ……駄目なんだよ。お前がいなきゃ……俺を一人にしないでくれ……アイリス……お前は俺の希望なんだ」


 潰れそうなほど抱きしめた、強く強く抱きしめた。

 体が溶けあってしまえば良いと思うほどに抱きしめた。


「……一つお願いしてもいい?」

 

 

「ああ、なんでも言ってみろ」


 そんな奇跡は起きるはずがない、誰よりも知っているはずだ。

 今はただこの景色を、最期にせめて綺麗なものを見て終わってほしい。

 昇ってきた朝日が二人を照らし出す。


「名前を頂戴……アイリスだけじゃ寂しいから……アイリス・ヨーネンフェルクって名前いいでしょ? 前に読んだ本に載ってたの、名前を分かち合えた相手とはずっと一緒にいられるって」

 

 アイリスはニゲラを見て弱弱しく笑い、ゆっくりと右手をニゲラの頬に伸ばす。

 その小さな手を握った。既に体温などと呼べるものは残っていないはずだった、死んでいると言っても差し支えないだろう、そんな手を握っているはずなのに触れ合っている場所は温かい。


「ああ……ずっと一緒だ」


「ねえニゲラ……」


 アイリスが驚いたようにニゲラの顔を見た、驚きと嬉しさを混ぜたような顔で見ている。


「なんだよ?」


「泣いてるの?」


「えっ……?」


 ニゲラは自分が泣いていることに気づいていなかった。言われて初めて気が付いた、思わず顔に手をやると指先が濡れている。

 何年、何十年ぶりの涙だろう? これが本当に自分の目から流れ出た物か? そう疑ってしまうほど透明な涙が次から次へと流れていく。


「ごめんね、もっと一緒にいたかった。色んな場所を見て見たかった」


「おい……!」


「ありがとう……大好き……それとね……手紙」


 そう言いかけてアイリスの手がするりと落ちた、落ちた手をニゲラはまた握りなおす。冷たい手にはもう温かさは残っていない。

 昇りきらんとしている朝日をニゲラは一人で見つめている。

 今は何の感情も湧かない、悲しみも悔しさも何一つ。

 今まで通りの自分でいよう、人の死を見ても何も感じない、ただ無意味に生き続ける自分でいよう。


「……埋めてやんねえとな」


 崖際に穴を掘り、寝かせ、土をかけ、墓標の代わりの石を置いた。

 作業は一時間ほどで終わった。驚くほどあっさりと終わってしまい少し驚いた。


「はあ~また一人か……まあ慣れてんだけどな」


 そうだ、また一人に戻っただけだ。

 もうあちらこちらに振り回される事も無い、面倒ごとに首を突っ込まなくていい、文字を夜遅くまで教えなくていい、食料に困らなくていい。

 そうだそうだ、最高じゃないか。

 あの泣き顔をもう見なくていいんだ。


 もう見なくていいんだ、もういないんだ。

 自分が死んで泣いてくれる人はもういないのか。


「……寂しいなあ、ちくしょう……」


 墓の前にニゲラは崩れ落ちた、もう立てる気がしない。

 へたくそに泣いた、声を上げて無様に泣いた。

 太陽は堕ちたのだ、彼の太陽は今堕ちたのだ。

 そうだ、だからシオンの事も忘れた。無理矢理忘れた、あの喪失に耐えられなかったから忘れようとしたのだ。

 十分だったのに、自分が化け物でも人間でなくてもそれで良かった。

 

 俺が笑って、お前が笑う。たったそれだけだ、でも俺にはそれで十分だったんだ。


 

 墓の前でうずくまるニゲラは、アイリスの言葉を思い出した。

 手紙とはいったい何の事だ? アイリスの読んでいた本のほとんどは一緒に埋めてしまったが、いつも使っていた絶景の写真が載っていた物だけは、名残惜しく手元に残していた。

 雑誌を開くと、薄汚れた便箋が一枚落ちた。

 たどたどしい字で書かれた手紙を読む、それをポケットに乱暴に押し込むとゆっくりと立ち上がった。


「……行くか」


 

 彼の目は曇ってなどいない。

 静かに心に火が点いた。

 

 乾いた大地に足跡が一つ。

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