ジャスミン
灰野柴犬
第1話 僕は黒が好きなんだ
大昔、いろんな知恵のある種族がそれぞれの国で暮らしていた。
エルフ族、
人間族のジャンは、母親と二人暮らしをしていた。年の離れた兄もいたが、出稼ぎの為に家を空けている。簡素な作りの学校に行って勉強をしながら、仕事に精を出す母を支える為、学校が終わると家事に取り掛かるのが日課であった。
母、ナタリーは看護師として小さな病院で働いている。
幼いジャンにとっては、ナタリーが時々仕事で帰ってこない事がたまらなく寂しかった。寂しさを紛らわせる為に、時々鍛冶屋のカイザンの元に行き、鍛冶の勉強と称してカイザンの仕事場に遊びに行く事があった。カイザンもまた、ジャンが寂しい気持ちを我慢して自分に会いに来ている事を知っていたのだ。
ある日、ジャンは町で仕事着の母を見かけ、嬉しくて駆け寄ろうとしたその時、ナタリーは自分より小さな子供を抱き上げ、病院の方へ歩いて行った。
ジャンは自分の服をぎゅっと力強く握りしめ、こみ上げる形容しがたい嫉妬心に襲われた。
今日の光景に息が詰まりそうになりながら、夕食の準備をしていると、ナタリーが帰ってきた。いつもより早い母の帰宅に、嫉妬心など忘れて喜んで出迎えた。
ところが仕事で疲れ切っていたナタリーは、寝室に向かいながらジャンの頭をなでてすぐに寝てしまった。
我が子が作った夕食も食べずに…。
ジャンは、寝ているナタリーに向かってつぶやいた。
「お母さん、いつもお仕事頑張ってくれてありがとう。でもね、たまには一緒にご飯が食べたいよ。」
翌朝、ジャンが目覚めると母の姿はなかった。もう既に出かけてしまったようだ。今日は学校が休みなので、ナタリーの勤める病院へ行って会いに行こうと考えた。
病院に着くと、ナタリーの同僚のマリナに会った。ナタリーは今日の仕事は休みだと言う。ジャンが去ろうとした時、マリナが話しかけた。
「あなたのお母さんはね、あなたの為に頑張っているから、支えてあげてね。」
ジャンは自分の服をぎゅっと握りしめ、
「分かってます。ありがとうございました。」
ジャンの顔は引きつっていた。
病院から出て、とぼとぼ歩いていると、学校の前で教師と話しているナタリーを見つけ、駆け寄ろうとしたが、他の子供がナタリーの足元に抱きついた。
ナタリーはあの日と同じように、病院から抜け出した子供を抱き上げた。
衝動的にジャンは禁忌の森へ走り出していた。
(僕は母に愛されてなどいない。僕なんて魔物に食われてしまえばいい。)
禁忌の森に入る事は、人間族にとって自殺行為と等しい事である。
息が切れてもう走れなくなったところで、ジャンはパタリと倒れ、むせび泣いた。辺りはとっくに暗くなっていて、うずくまるジャンの近くでホタルのように優しく光る微精霊たちが飛び回っている。湿った草木が踏まれる音が耳に入ってきた。
「あら、人間族の子供かしら。ねぇ、あなた…」
少し高くて落ち着いた優しい声だ。ジャンは走れないほど息が切れ、更に止まらない涙があふれていたので、十分に息ができていなかった。が、声の主へゆっくりと視線を送る。辺りが暗いせいか姿がしっかりと確認できない。
「お・・・か…さ…。」
ジャンは涙と一緒に意識が流れていった。
意識が戻った時、ジャンの体はやわらかいベッドの上だった。みずみずしく美しい植物とそれを彩るようにカラフルな微精霊たちが目に飛び込んできた。それらに見惚れていると、肌が冬の黄昏時の空と同じ青黒い肌をしたエルフが部屋に入ってきた。
(あの時見えなかったのは、暗いだけじゃなかったのか。)
「おはよう、
ジャンは頭痛とめまいがして、たまらずもう一度ベッドに横になる。
「あの、あなたが助けてくれたんですね。」
と、泣きすぎてカラカラになった声を発した。彼女は微笑みながら、銀の水差しからグラスに水を注ぎながら答える。
「そうよ、見つけたのはこの微精霊たちだけど。あなたのお名前は?」
「僕は…」
グラスを受け取り、水を一気に飲み干す。それから少しの沈黙の後、
「僕はネロ。人間族。」
彼女は黒い瞳が見えないくらい微笑んだ。
「私の体の色と同じ名前ね。私は、アーダレーアよ。ダークエルフだけど、悪いエルフじゃないわ。名前が長いからアーデって呼んでね。」
この日から、ジャンはネロになった。そしてネロはアーデに
「僕は黒が好きなんだ。」
と告げた。
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