第162話 流れ星ひとつ。3/4


そうしてみ切った表情、余分な想いは出し切って——僅かばかりの清々すがすがしい充足感と身勝手な自己陶酔じことうすいの負い目に力が抜けた。


「……分かりましたのです……では——」


さとい子は、確かに己の中にあるはかりかたむかせ——為すべき事を為すだろう。僅かに削れる穴蔵床の塵埃ちりぼこりの音が耳をく。背中越しに伝わる胎動の強弱が、じきに迫る必然的な災害の収束を報せて知ある者の安堵の足しにもなっていく。


ただ、ただ——、心は有るのだ。


「——……どうされました。足を止めても時は止まらない」


耳を澄ませて一歩と、二歩と聞こえた足音よりも雄弁に心を語る無音が響く。力なく銀の髪を揺らし、流す視線の先に在るのは少女のうつむきに僅かに丸まった背中が一つ。


「また……、お会いできるので御座いますよね?」


耐え難いものを耐えながら無意識に握られた拳は、込められ続ける力に震えていた。

声色は不安の二文字を如実に表し、聡いからこその負い目をも匂わせる。


おおよそと気付き、察しては居るのかもしれない。


「——神の御名みなの下で、巡り合わせが叶うなら」


 「……」


優先すべき事と、それ以外の事柄に対する渇望——己が為したいと思う事。

色々な意味合いも兼ねて置き去りにはし難い感情の機微が、重い足枷となって少女の足を微動もさせてくれない様相が薄蒼の朧気おぼろげな瞳でも見て取れてしまう。


分からなくもない、それが優しさを根源とするモノであると察すれば尚の事。


「お行きなさい。可愛い人の子……この先の未来でしか、出会いが訪れない事だけは確かだ」


「——……」


或いは、少女の境遇をかんがみれば——尚の事か。


だから、

「うぅうん‼ やっぱり、ダメなのです‼」


 「なっ——何を……」


風に逆らいながら孤独に先を征くよりも、吹きつける風に背を押されて戻る方が遥かに容易い。幾つかの葛藤を胸の内で終えた様子で返されたきびす、まるで盗み取るように拾われる天使の身体。


急ぎ慌てて動かされた為に、カラカラと結晶化した一部が服の袖から零れ落ち、軽い音の数々が洞窟内で木霊を始めて。


いやさ、それも覚悟の上か——それとも、ひとつの大きな身勝手ついでの開き直り。



「天使様を、こんな場所に置いてくのは嫌なので御座いますよ……そ、それにイミト様に御願いされた食べ物の場所‼ そうなのです、確かに天使様に聞けと仰ってましたですます‼」


もう——彼女の意思は関係ない。彼女の意向も関係ない。

他の誰の為ではない、身に付けていたあらゆる枷を千切り捨て、己の意志にのみ順ずる獣の心構え。


それほどに少女は必死だった。


「ワタクシサマ、忘れたりしないのですよ‼ このペンダントは、その場所も教えてくれるので御座いますですか‼」


言い訳を探して、己の行動を正当化する為の方便を巡って。

もはや容易く崩れ落ちてしまいそうな罅割ひびわれた天使の身体を遠慮も無く背負い、背負った勢いのままに枷が外れたかの如く歩みを始める。



言い訳を探して、己の行動を正当化する為の方便を巡って。


「この期に及んで何を……私は、直ぐにでも神の下へと戻らなければならないと——」


が出来るなら、別に此処でも滝の外でもので御座いますでしょ⁉ ここはイミト様の戦いの震動で崩れてしまうかも知れませんし、少しくらい遅れたって——」


行き当たったそれらの理由を矢継ぎ早に検証する時間も惜しみ、そのままと言葉に紡いでいく少女——みっともないのは少女自身にも解っている。


見るに堪えない単なる感情任せの我儘わがままで、背負う傷だらけの天使を救いたいからなど少女にとっては口が裂けても言えない事。


天使の意思を汲み取って、天使の意思を慮り、置いて去るのが立派で最善であろうと少女はもう決めていたのだ。


愚かとのそしりを受ける覚悟を決めていた。


「少しくらい、遅れたって……——」


 「……」


天使が見定めた少女のさとさは間違っていたのか。

見違えていたのか。


状況を読めぬ愚かな駄々を震えながらにねるのが、様々な説得の果ての変えようの無かった結末か。


いいや、正しいなど在るものか——間違いなど在るものか、そんな正誤の二択が数多の事情が渦巻く人の心に当て嵌まるものか、そんな正誤の二択で単純に済むものか。



「んっぐす……それに、また暫くお会いできないのなら、聞いておきたい事が沢山……沢山あるので御座いますよ、ワタクシサマ‼」


分かっている、解っている。みっともなく鼻をすすって、それから腰を大きく曲げて背負ったままの天使を落とさぬように片腕で耐えきれなかった涙をぬぐった少女。


再びと天使の太腿ふとももの裏に腕を回して抱え歩み出すや、無理矢理にと場の空気を換えようと声色を些かと高く盛大に響き渡るように明るく整えて空気読まずを演じて魅せる風体。


無邪気を装った少女の笑顔は、背後の天使には見える事は決してないが——しかして、その声色でおおよその想像がついた。


「例えば、例えば……そうだ、なんで天使様たちはイミト様の事を罪人と呼ぶのか、とか‼」


 「なんで、なんで——こんなにボロボロになってでもワタクシサマを助けに来てくれたとか、伝え終わってない事も沢山……沢山あって——」


故に——とても痛々しく、胸の奧を刺々しく荒立たせてくる声。

無理矢理な笑みなど、そう長くは続かない。続けられる程に、少女は器用でもない。



どうしようもない——どうしようもないほどに痛みが伝わってくるようだった。


少女の肩に乗せられていた罅割れた両腕が、自然とうずき何処にそのような力を隠していたのかと少女の首周りを自然と——いつの間にか優しく抱きしめている。


「またワタクシサマだけ……何も知らずに助けられて、一人ぼっちで走っていって……」


何処まで、解っているのだろう。

何処まで、解ってくれているのだろう。


「せめて——せめて安全な外までくらい、こんな暗い穴の中じゃない場所までくらい運ばせて欲しいので御座いますよ——」


嗚呼——何故に己は、こんなにも少女の事を愛おしいと思うのだろうか。

思ってしまうのだろう。


己の最期など——この寂しがりの少女に見せたいとも思わないのに。

何故に、この少女の選択を——嬉しく思ってしまうのだろう。

さもすれば密やかに期待していたとすら思える。


「それが、ぐすっ……神様に逆らうような悪い事でも、ワタクシサマは悪い事だなんて思いませんのです、ます‼」


忌々しい男の、己に呪いを掛けた悪魔の顔を思い出す。

信心の欠片も無く、敬愛すべき神を畏れる事も無く、敬うにはあまりに眉根をしかめさせる身勝手な悪態を晒す——このような時分に思い出したくも無かった顔。


ただ——嫌いには成りきれなかった。最後の最期まで。


「……そうですか。では、もう少しだけアナタに付き合いましょう……滝の外まで、少しの間だけ——お話ししましょうか」


「——そうして……欲しいのです。もっと我儘を言っていいなら、今日の夜御飯……明日の朝御飯まで……イミト様には、ワタクシサマからお願いしますで御座いますから‼」


何度と何度と無理を繰り返すを、だったから。


些かとねたましさが腹の底から込み上がるが、嗚呼——もう良い。


「本当に……可愛い子だ、貴女は。とても嬉しい……お誘いですね」


真っ直ぐに迷いなく歩き始めた少女の首元に回していた片手に今度はしかと意志を通し、天使は少女の頭を軽く撫でる。少女の背に預けた頭、うなじ首に触れた頬から伝う——とても温かい血流の鼓動。


何もかもが失われていく過程で、それでも確かに——満たされるものは有ったのだ。


——。

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