第157話 夢幻と相成って。2/4


だから走れ。だから走れ。

咄嗟に片手で振り払った布地が地に堕ちる前に、後方に跳んで距離を取り、きびすを足首ごとひねって素足かどうかも構わずに走り出せ。


「……気に入らなかったかしら」


 振り返った背後から、少し物寂しげな戸惑いが届こうとも気にも留めずに走り出せ。他の何にも気を遣わずに走り出せ。


それでも——

のだから。


「じゃあ、どんな服が好き? 母さんと御話しましょ?」


「……⁉」


走り出そうと前傾気味にかがみ倒れゆく姿勢、今にも足裏で大地を支えに弾けるように跳び出そうとした矢先、両肩を頭上から伸びた手で馬跳びでもされたかの如く抑えつけられる。


うねる蛇の体、薄明りの広大な洞窟を照らす光源が創り出す妖しげな人と蛇の影が一目散にきびすを返して急ぎ走り出そうとしたデュエラの身を覆う。



「そうね、んふっ……御飯でも食べながらお話しましょうか、直ぐ支度させるわ」


 早過ぎるけものの、ケダモノの反応に瞳孔開いて僅かに振り返ったデュエラの右目の端に映るのは、絶望的とも言える捕食者の余裕ある微笑み——耳を舐めるような声を紡ぐくちびる。容易く己の死角を潜り抜け、容易く己の死線を踏み抜けて、己に一切と感知させぬ速度で羽交い絞めで捕らえるでもなく、


 それでも何ら敵意も殺意も無く、覚悟も尽力も無く、さも当たり前のことを難なく当たり前に行うその挙動が行われた事こそがであった。


余りにも重く感じてしまう、強者の余裕に溢れたマザーの両手が、この時のデュエラにとっては何よりも重く。


で、あるからこそ。

それを知るからこそ、



「いつまで——しとんねん‼ ‼」


何故だか決死の覚悟で二人の間に跳び込もうとしたは、彼女に逃げろとそそのかすのだろう。蛇の数匹に喰らい憑かれた体、左眼を蛇に射抜かれて尾を振らせた痛々しいが極まった血にも塗れた風体で、それでも彼女は母に捕まったデュエラを窮地きゅうちから脱しさせるべく鋭く扇子を振りかぶり、母とデュエラの間に割って入ろうと試みたのだ。


されども、やはり母は冷酷であった。


「……本当に、母さんの言う事を聞かない子」


 「——っ‼ 駄阿保がっ‼」


デュエラの左肩に置いて居たマザーの掌が、蠅でも払うような一振りで風を起こせば、いとも容易く切り裂かれるアドレラの胴体。弧を描く幾つもの肉塊へと成り下がる娘——相も変わらず母はその娘を愚かだとのたまうような口振り。


しかし、それでも扇子片手に振り被っていた腕の真意とは、さも扇子を振る為の物ではなく己の喉を腕で守らせる為の物であったのだと娘は叫ぶのだ。


「来とるで、‼ がっ——‼」


 「——‼」


全ては、恨みの溜まりに溜まった母に対する一矢を報いる為。己が身すらも犠牲にし、アドレラが為そうとしていた事は母の悲願を阻止する事である。


己がそうなってしまったように、母が抱いた野望や企みの全てを瓦解させる事——その為に、母の手元にデュエラという少女は合ってはならなかった。



決死の形相、叫んだ言葉に嘘はない。


地に崩れ落ちて、口を開いて待っている蛇の口腔こうくうを横目に、アドレラは一縷いちるの望みを少女デュエラに賭けていた。


それを知る事で、彼女が——これから迷う事無く、一心不乱に走り続けていけるようにと、前向きな理由では無い強かな打算で賭けていた。


——そんな想いすら、虚しいのか。無意義だったのか。


彼女には何も届かないのだ。



「あ、そうね‼ 話したい事がイッパイで伝え忘れていたわ、という男の子も此処に向かって来てるのよね。だから二人で一緒に待っていましょうよ、デュエラ。イミトがどんな人なのかも、貴女の口から聞いておきたいわ」


あくまでも母の興味は、の事ばかり。アドレラの事で、いや——もはやマザーの金色の輝かしい瞳にはアドレラ、かつて己が産んで時を育んだ娘の事など映り込みすらしないのかもしれない、



一方で、もう一つの金色は僅かにくゆんだ。


「イミト様……イミト様‼」


アドレラの決死が功を奏したと言うべきかマザーの片手が肩から外れて半身の自由を取り戻したデュエラが駆け出そうとした勢いで戸を開けるように回り動き、勢い余って後方に二歩ほど後退あとずさる。


尻もちをく事だけは耐えても、アドレラが放った言葉の余韻がもたらした動揺が激しく少女の心の内で揺れ動く。


——無意識下で、考えないようにしていたのかもしれない。


「そう、イミト。彼は凄いわね、なんたって——」


 「ああああァァァァ‼」


 目覚めから今までの留まる事を知らない戸惑いの連続、対峙した圧倒的に死を予感させる格上の強者が放つ雰囲気に当てられて、咄嗟に——そのを当てて最短最速で駆動させられていたがアドレラの決死の様相で伝えた情報によってきしみを上げていた。


「先に運動する? 起きたばかりで体の調子を整えたら、目も覚めてお腹も空くだろうし丁度いいのかしら」


「すぅ……はぁぁあぁああ‼」


 深い呼吸で血は増々と脳裏にまでとどこおりなく行き渡り始める。内に秘められていた魔力も徐々に存分に顔を出し始め、拳を撃ち放ち始めた少女の血肉に滞りなく流れて触れた敵にも満面とその凝縮された硬さが伝っていく。


「——いいわよ、凄く強くなっているわね。ふふ、確かに感じるわ……貴女の成長を」


やがて己の指にめられる宝石を眺めるようなり、或いは容易く赤子の手を受け止めるようにデュエラの拳を受け止めるマザーに対して構わずに拳を撃ち放ち続ける無呼吸で行われる連打で詰まる、それとも拳を撃つ為に何度も何度も踏み込む地下空洞の大地に蔓延はびこ



が——全身を、はらわたの奧を、心をむしばんで。



「【地龍ダラバ目覚・トラメスめ‼】」


歯を噛みしめて、大地を踏み砕く。すればほとばしる少女の魔力が少女の中で沸きつつある激情の一角を氷山の如く目の前のマザーと少女の間で姿を現す。まるで地の底で眠っていた地龍が、少女と同じく悪夢にうなされて目覚めたかのように。


されど、それもやはり——


「これは、もう少し練習した方が良いかもね。少し、雑」


母の如き怪物の前では、まさに児戯に等しく。子の駄々を先んじて踏み潰すかの如く胸を張って体を後ろに反らしながら突き出る地龍の角を紙一重でかわし、開いている片手の指先でなぞる動きを魅せただけで角を真っ二つに縦に割るのだ。


しかし、力量差は既に嫌という程に理解もしている。


「【旋風脚ユラ・マキアーデ弾散リグレト‼】」


 「あら」


地龍の角の向こう側で少女は跳んでいた。振り返り走り出す暇が無いというのならば、自らを独楽の如く回して回転蹴りを繰り出して縦に割られた地龍の角を己のかかとで横に砕き回り、地龍の角の出現と共に溢れ出た土煙に加えて飛散する砕いた岩の散弾を周囲に撒き散らす。


目暗まし、目眩まし。


「——わっちとも遊んでぇや、母様‼」


その機にアドレラの分身体がまた一人と乗じるのも自然の流れだった。母の野望の阻止の為、再三と書き記すその目的の為にデュエラを逃がしたいアドレラは噴き上がった土煙に紛れて母を抑えようと猛烈な勢いでマザーの眼前へと向かう。


「しつこい子、誰に似たのかしら」


 「アンタかも、なっ‼」


を即座にのか、と問われれば——否であろうか。


否、であろうな。


龍歩メデュラッサ‼】」



 「「——⁉」」


地底湖の広大な庭園の一か所に吹き荒ぶ砂嵐の乱流。再びと娘に鋭く冷酷な爪を立てようとしたマザーと、一矢報いる事に執心するアドレラ。


——名はデュエラ。


目覚めから今までの留まる事を知らない戸惑いの連続、対峙した圧倒的に死を予感させる格上の強者が放つ雰囲気に当てられて、咄嗟に——そのに焦点を当てて最短最速で駆動させられていたがアドレラの決死の様相で伝えた情報によってきしみを上げていた。


——無意識下で考えないようにしていたのだ。



「ごめんなさい、ごめんなさい‼」


イミトという男の名と共に脳裏にぎった眠る前の最後の記憶。


——男は来ている。では、


目頭ににじみ、こぼれる涙。

少女は泣いた。少女が泣いた。


ただ、己を守る為に命を賭して——そして己と共に負けて地に伏した一人の魔女の、仲間の、友達に対する罪悪感と後悔をつのらせて。


己が生きている事など喜びようが無い程の行く当ての見つからない負の感情に囚われて、少女は泣きながら戦いに身を浸し始める。


少女は何も知らない。

何も知らぬままにいまだ、を見ていたのだ。

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