第156話 目覚め。2/4


 はたから見れば突如として爆ぜた瀑布ばくふの荒く砕かれた飛沫しぶきの全てを、さしも避けれる者は無かったに違いない。


 降りしきる猛雨の如き水流の残滓ざんしが風に激しく躍らされる中で、まるで導かれるかのように天使の羽毛が何一つと我関せずの顔で待ち受けていた深き滝壺の横穴の前の踊り場に降り立つ二つの影すらも水に浸されていたのだから。


服や体にしたたる雫が、寒々しくと降り立った洞穴の地面に流れ始める。


——抱き抱えているようだった。


未だ空から堕ちて来るのは涙の雫の如き水礫みずつぶてのみ。普段は余りある水量の滝の壁に隠されていた滝壺横穴に備えられていた扉を前に、やっと待ち人が来たれりと役目の終わりを悟ったかのように天使の羽毛も幾つもと小さな光の粒子に解れて、到達者を歓迎するように二つの影を照らす。


抱き抱えているようだった。


倒れ込む細身の女性を受け止めて背後に微々と燻る黒煙——黒き男は身に付けていた鎧兜が煙へと変わる事も気にも留めず、己が受け止めて俯いたままピクリとも動かない女性の旋毛を静やかな眼差しでジッと見つめていて。



されど、抱き抱えてなどいなかった。


「……」


黒き男が女性の肩を支えていた左手を流すように彼女の背後に回し、ソレとは反対に右手を彼女から優しく遠ざける——すれば二人の距離が僅かでも遠ざかるのを嫌うが如く、女性側からボタボタと流れ始めた水流、嗚呼——その場に雨も滝も届かぬ筈であったのに。



男は言った、眠りに落ちた様相で何一つと反応を示さない女性から奪い取ったのであろうを、しかと右手で力強く握り締めながらささやくように言ったのだ。


まるで——別れを告げるが如く。


「——いい……さ。もういい……、充分だったよ……こんなものは、ただの我儘わがまま……だったから」


留まる事を知らなかった膨大な水量の滝の音が未だ帰る事の無い静寂のひと時、それ故に届く声は水溜りに堕ちるつゆの音によく似ていて。


 ゆっくりと己の身を支える男を受け入れるように、細身の女性は結晶の如く罅割ひびわれゆく細腕を彼の者の脇腹に震えながらに差し込んで背中の服を掴むに至る——満身創痍を飛び越えて、もはや指先に少し力を込めるだけで全てが砕けてしまいそうな程の脆弱性を隠す余力すら無い風体。


それでも、彼女は男の胸に僅かに頬を擦り付けて甘えた様子で小さく笑った。


「……それを我儘だって言えるなら、きっとそれは我儘じゃ無いだろ。少なくとも俺は、鬱陶しい我儘だなんて思えなかったよ」


対して男は一切とわらわない。普段の彼が魅せる軽薄が存在せず、胸を貸した女性へと撫でるように穏やかな眼差しを向けるばかり。


無理矢理と絞り出した様子の冗談口調も虚しく心の沈みを隠せない——彼女の身の内にあった物に塗れたままの罪深いと自覚する右腕で、今にも倒れて崩れ落ちそうな彼女に触れる事すら躊躇ためらって。


「——……」


そんな男からの言葉暫く、音の余韻ばかりが悲しげな滝の無き滝壺の静寂に押し潰される。滝音が無くともうるさい滝壺が、尚も恨みがましく世界に音を放っているようであった。


いや、既にもう——


「何か、他に言い残した事は無いか?」


さもすれば返す言葉を紡ぐ力すら己の胸に沈む女性には無いのではないか。あたかも転寝の眠りに就いた物の様子を覗うように紡がれる問い——本当は、何か言い残した事があったのは彼だったのかもしれない。


どちらにせよ、胸の服越しに擦るように動く体、背中に感じていた僅かに離れていく掌の感触は遅ればせながらも確かに在った。


「——あの子に、服を沢山……作ってあげ……よう」


されど、ある意味での安堵も束の間か、その女性を抱きかかえる男の顔がある位置に顔を見上げさせて、朦朧もうろうと震えながら漸くと絞り出して来れたような声で紡がれた言葉は、中身と同じくと焦点の合わぬ意識がかすんでいるような瞳の輝きと共に放たれていた。


少なくとも、その瞳は——



「きっと、きっと……たくさん外で遊んで泥だらけで返ってくるから……子供は直ぐに大きくなるさ……迷惑になる……かな」


「……」


まるで、まるで男などそこに居ないかのように男の背の向こう側、滝の止まった滝壺の静寂の向こう側へと吸い寄せられるが如く罅割れた両手を伸ばし、力の入らぬ足で懸命に地を滑ろうと動き始める。


指先がうずいていたのだろう——そう書く事も躊躇われる程に、忘れていた何かを為そうと懸命に男を微々とも動かせぬ肢体で増々と密着しながら、しかし滑り落ちぬように男の左腕に支えられるばかりの旅情。



直ぐそこには、滝壺の断崖。

行かせる訳にも行かない話。天邪鬼あまのじゃくとて行かせる気にもならない話。


「どんな服が好み……だろう。この花冠のお返しに、最初は同じ花の刺繍ししゅうにしよう……か」


とても幸せそうに明日を期待して、望む日々を過ごしてきたが如き微笑みが突き刺さる。日々の入った顔とて美しく儚げに感じる優しげで穏やかな微笑み。



「赤い糸……まだ、あったかな……無かったら姉さんに……頼んでもらわなきゃ……新しい布と、姉さん兄さんにも……迷惑にならないか聞いて」


ポトリと堕ちた右腕が砕けても、そのかすんでいるのだろう瞳が生む表情だけは崩れなかった。


痛々しい程に崩れなかった。


触れている肌に熱は無く、



みたいに怪我をしないように、お守りも……作りた……いなぁ……」


ついには彼女のひざひびが擦れ軋んで砕け堕ち、落ちる彼女の肢体は咄嗟に動いた黒き男の右腕をも引きり出して足を失った彼女を本格的に抱き抱えさせる。


それでも腕を伸ばすのだ。

それでも明日を夢見るのだ。



「……ああ、羨ましい。でも、私の分まで幸せになって欲しいよ」


悪夢のように。

悪夢のように——。


「——デュエラ」


うなされながらも瞼を閉じて、情緒に溢れた瞳を休ませる。


きっと、明日は良い日になると。

きっと明日は、良い日にしようと。



「……地面は冷たいから少しだけ、運ばせてくれ」


あまりにも軽くなった女性の肢体、徐々に砕けて砂のように流れ始める彼女の体を柔らかな毛布のように抱きかかえ、黒き男は目の前にあった天使の羽根が光輝く扉に向かって歩み始める。


もう直に雨が降る。

もう直に、けたたましい滝のような豪雨が津波の如く押し寄せる。


「ごめんな。ちゃんと助けてやれなくて」


 「ちゃんと話が出来なくて」


ダラリと薄皮一枚で吊り下がっているだけのようになった抱き抱える女性の左腕。

男は歩む、歩むしか無かった。


彼女の中にあった滝のような血に染まる両腕で、彼女を殺した罪と共に彼女自身を抱えながらに歩み続ける。



もう声は届かない。届く事も無い。


遥か高みの天上にまで押し返されていた滝が、再び全ての音を掻き消そうと世界の嘆きを代弁するような水流が、もう直ぐそこまで迫っても居たのだから。


かつて明日を夢見たその女性の名を、男が知る機会が訪れる事は無い。


——。

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