第153話 待ち人。3/4


***


たとえば彼女も、彼を待っていた。


「遅かったね、とは言わないさ。良く此処まで来れたとは思うからね」


 「「……」」


延々と続くさざ波の音の如き壮大な滝の騒音が、より一層と近づいて霧深き森を通り過ぎるや暗雲から逃れた月光が差し込む拓かれた森の岩に片膝を抱えて座す薄緑髪が輝くような短髪の中性的な装いの女性。


その声が少し寂しげであったのは単なる夜の仕業か——或いは、冷たい岩の上で待ち望んでいた待ち人が想像よりもずっと小さな影に見えたからだろう。


「滝の音、五月蠅いかな——、どう?」


前髪を穏やかに掻き上げ、まるで髪でも結ぶ前のような仕草でうなじを傾けながら指を鳴らす中性的な女性のその一声は、何に邪魔される事も無く実に明瞭に聴こえた。


滝の音が、



「僕は、名前は。待ってたよ、イミト——


岩の上からこけと成りそうだった肢体を起き上がらせてイミトらと同じ地に降り立つウルルカと名乗った女性の背後で、月光を歪ませる薄緑の幕が滝の音を拒んで弾むように揺らぐ。


逃がさぬ為の檻か、霧を抜けてきたイミトらの周囲にまで景色を歪ませる薄緑のその膜は瞬く間に広がって、世俗の事など今は忘れてしまえと泡沫うたかたの幻想的な色合いの世界を作り上げて余計な雑音に耳を塞がせる。


ウルルカが見つめたのは、女に抱えられる気を失っているような生気を感じさせない一人の男の項垂うなだれた姿。


ただ、男は生きては居るのだろう。


「ああ……無様な姿で申し訳ない、俺がイミト・デュラニウスで——待たせた事も謝っとくよ、バジリスク姉妹で一番、好みの女だって褒め言葉と一緒にな」


僅かに動く首、片手に持つ槍は確かに握り締められて彼の者の力で盲目者の杖の如く地面を削って——そして肩を借りている銀髪の執事服に頭をカクリと傾けながら放たれる疲弊を強く感じさせながらも悪辣で不遜な印象を与える言葉。


「罪人様」


懲りもしない男に、無理はするなと天使はいさめを込めて彼の愛称を呼ぶが——



「悪いな、事情があってだけは譲れない。他の雑魚を警戒しといてくれ」


生憎あいにく憎生にくあいと、まるで男は矜持と宣うが如く己の性分に身を委ね続ける。一旦と寄り添った天使の肩を身勝手に押し退けて前のめりに倒れるようによろめきながら、まるで首の座らぬ様子で歩み始め、別れを告げるように片手を挙げる悪魔のような男。


「——嬉しいな、でも急がないってのは少し減点しとくよ」


 「かっ、減点方式なんて不幸に近づく第一歩だ。加点方式も併用してくれてると有難い」


その微笑は、まさしくと伝聞で聞いて想像したイミトという他者に不快感を与える悪逆の徒——敵対すれば余程の事が無い限り、嫌悪を向けざるを得ない人物そのもののようで。


しかして彼は嗤う。自覚するが故に嗤うのだ。


腰裏に身に付けていた鞄に手を回し、敵の心を見透かすように泥酔酩酊のような千鳥足を魅せながらも尚も不敵に嗤い、まるで戦意が無いように腕を振った。


——ドサリ、そうして落ちた物は——ウルルカにとって、あまりにも非情な現実であったのかも知れない。


「……」


——の分身体のは完全に壊れちまって確保は無理だった」


黒い、闇によく似た黒い袋。紐で縛って袋小路から顔を出すのは四種の色合いを誇る魔性の石。望む物は数歩と歩いて腰を屈ませ手を伸ばせば手に入る。


悪魔は嗤う。悪と自覚するが故に嗤うのだ。


「どういうつもりかな。いや、有難い話だけどさ——それは奪い返そうとしてたものだったから」


それは亡骸、或いは卵、類するは種か。

土に還り、肥料と成れば、新たな魂——或いは、魔性の石となる前と同じモノが芽吹くだろう。


そのような表現を用いれるのは、それらと同じモノを心臓——命の核とするウルルカのみではあるかもしれない。


ウルルカの妹達——巨大な滝を中心とした広大な森を支配してきた蛇の魔物バジリス

クの姉妹たちの変わり果てた無惨な姿が、安易に目の前に晒される——何故。



「セティスの……うちの魔女の件の礼だ。ゴホッ……見逃してくれてありがとうってな」


壊す事も、隠す事も、交渉や脅迫に利用する事も出来たはず。吐血をしながら胡坐あぐらを掻いて座り込むイミトが放つ言動を慎重に思慮しつつ、雑多に投げ出された妹達の命と敵対者の様子を瞼を閉じる一瞥いちべつの合間に密やかに見比べるウルルカ。



「——……見逃したつもりは、無かったんだけどね」



——向こうから動く気配はない。本当に妹達の魔石を返すつもりなのか、言葉の通り——信じて良いのか。


明らかに数多の傷を受けて激戦の果てに居るが如き風体のイミトが何を目論んでいるのか、奇襲、不意打ちに対する警戒や疑心を脳裏に渦巻かせながらジリと一歩、地面と足裏を切り離す。


その時、イミトは再びと腰裏の鞄に手を回した。

僅かばかり筋肉の硬直を表すウルルカの肢体。



放つ言葉は、


「ちょっと軽く飯でも食って良いか。うがいしたいし喉も乾いてる」


 「……すぅ、はぁ——キリが無いね。いいよ、手早くなら」


何ともまぁな、拍子抜け。僅かばかりでも体を強張こわばらせたことが恥ずかしくなるような文言。取り出された水筒の蓋を開き、口に含んで口内を軽くすすいで吐き捨てるイミトの一連の動きに惑わされている事をウルルカは自覚するに至る。


何を焦っているのだろう——目の前に愛しい姉妹の成れの果てを転がされ、冷静さを失っているのだと感情を律するべく深い呼吸行動を行って改めて朗らかに小さく両手を広げて肩で言葉を返すように世界を享受するウルルカ。


——である。


「助かる。デュエラは、何か食べてたか? アイツにも一応、非常食は持たせてたはずなんだけど」


ウルルカの目の前で餅米を加工した煎餅せんべいをパキリと砕き、一欠けらを口に放るイミトの豪胆な装いも然りではあるが、やはりここで特質すべきはウルルカの特異性であろう。



「食べてないさ、薬で眠り続けてる……お腹、空いてるだろうね。茶碗蒸しとか言うのが食べたいって言ってた」


憎悪の化身、様々な生命の怨讐に強く影響を受けて穢れたと言っていい魔素——瘴気によって生み出されたが故に感情に支配されやすく、目先の激情に行動を駆られやすい事が弱点とも言えた。


 これまでのバジリスクの姉妹を含めた様々な魔物たちも本能や感情に左右されて理性を失い、ある意味で敗北を喫するに至る致命の失態を晒し——特にウルルカの姉の人格が移植された分身体においては恐怖を先導されて自我の崩壊どころか肉体的な自壊にまで至った顛末がある。


そんな魔物というモノに類する存在でありながら、ウルルカは己を強く律する理性を持っているように見える。


目の前に姉妹の無惨な姿を晒されても、嘲るようなイミトの悪態を魅せつけられても彼女は落ち着き焦りの息を吐き捨て、イミトと同じ様に胡坐を掻いて座り——僅かながらの儚げな微笑みすら浮かべる事すらしたのだ。


——まるで、まるで本当の人間のように。



「はっは、再現が難しいんだよな……卵もそうだし……デュエラが言ってた奴には、この森で採れるマツタケって茸が必要だ。残念ながら今回は取りに行く暇が無かった」


怪物の中の怪物、イミトは気付いているだろうか。さもすれば、その先にも——だからこそ。


まだ僅かに張り巡らされた薄緑の膜の向こうから窓を閉めた際の猛雨のように聴こえる滝の音、二人の邂逅は——円満な酒席の如く繰り広げられる。


「戦ってる途中で聞いたよ……時間があったからきのこは取っておいたよ。そのマツタケって奴があるかは——分からないけど、その岩の裏さ」


 「そうか……そりゃ素敵な裏話だ」


冗談を言い合い、初めてあったにもかかわらず旧知の知り合い——同窓の徒として懐かしき第三者の話題に花を咲かせるような年月を重ねた少し愁いを帯びた雰囲気。



困惑は無い。


ただ堂々と後ろめたい事も後ろ暗い事も無く——暗黙に、お互いが過ごした年月を感じ合う。


けれど、その間にも時は進み——


 「——罪人様、私は先に」


「ああ、頼んだ。それでいいよな、そっちも」


「……」


密やかに通じ合っていた二人を他所に天使アルキラルの一声で暗黙は破かれて木の葉を踏んだアルキラルの足音がウルルカの座る位置を迂回するように滝に向かい始め、ウルルカの指が鳴り響く。


「問題は無さそうだ」


周囲を覆う薄緑の歪みの膜が一部だけ穴をあけて滝の音が責め立てるように音を増した。


しかし戦意は無い、緊張の一瞬を終えて安堵の息を漏らし、一口と再び水筒の水を飲むイミト。二人の異常者の横眼の視線を浴びなら淡々と歩いていくアルキラル。



アルキラルが滝へ通じるウルルカの力の穴を通り抜けると、またウルルカは指を鳴らす。


「ふぅ——まさか、こんなに話をする事になるとは思わなかったよ。意外さ」


 「恨みばかりじゃ、人はやっていけないんだよ。面倒な事にな……正直、ちょっとばかりダメージが残ってる——その回復も兼ねてるからな、都合よく始めたいなら始めてくれ」


残されたのは二人だ、やはり二人だ。

ウルルカは男だけを待っていた、ただ待ちかねていたのだ。


——たった一つの感情を持って。さもすれば恐らくそれが、彼女が今——どうしようもなく駆られている怒りよりも、恨みよりも、怖れよりも、途方もなく強い激情なのだろうから。


「……いや、出来るなら少し話はしたかったかな。その上で——僕も負ける気も無いけどさ」


「妹達は拾っといてやれよ……今日の地面は、冷たいだろ?」


パキリと鮮烈に鳴り響くのは固い煎餅が二つに折られる音。

何故に、彼らは語り合おうというのだろう。


人と魔物、いや——魔人と魔物、一人の少女を奪った者——奪い返そうとする者。



「ああ……そうだね」


平和の為か、いいや——きっと、そうではないに違いない。

互いにまるで、遺言を尋ねるように重く静やかな口振りで躱すやり取りは、薄緑で彼らの周囲を覆う歪みの結界の作用も相まって月にすら歪んで見えたに違いなかった。


壮大な滝の目の前で明鏡止水は決して、赦されはしないのに。

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